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■ 第127話 ■サトウ君の不可解な晩年

▶前号でイギリス人通訳官アーネスト・サトウが実はユダヤ系だったようだと書いた。著名な作家や歴史家がそう発表すれば日本史の書き換えが必要になるほどのスクープなんだけど、筆者程度が何叫んでも、どうせ世の中何も変わらないのよね。メソメソ。なのでサトウのこと、あと1回だけ取り上げて終わりにしたい。サトウが初来日したのは19歳の時。ジャパンタイムスに「英国策論」を発表し、日本人に初めて「倒幕」を意識させたのは24歳の頃だ。小僧じゃん。この後、出たり入ったりあるものの通算25年を日本で過ごす。サトウは86歳まで生きるが戸籍上は独身のままだった。ただし、日本に武田兼(かね)という内縁の妻がいた。3人の子をもうけた。第一子の女児は夭逝したが長男と次男は成人した。彼らは現在の千代田区富士見町2丁目にあった約500坪の旧旗本屋敷を買い取って暮らした。入籍はしなかったが子どもたちは認知して経済的援助もしていた。よしよし、許す。

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▶1883年、次男が誕生するとサトウは単身イギリスに帰国し、そのままタイやウルグアイ、モロッコの総領事となったため、家族とは長期間、離れ離れとなった。サトウが再来日するのは日清戦争が終わった翌年のことだ。特命全権公使にまで出世し5年間を日本で過ごした。日本に大使職が置かれるのはサトウの後任からであったため、公使であったサトウは事実上の英公使館トップでの凱旋だった。公使を5年務めた後、駐清公使として北京に異動。6年間を清で過ごした後、イギリスに帰国。その際、日本に立ち寄った。筆者が知る限り、サトウの訪日はこれが最後だ。1906年にイギリスに帰国後、何度か国際会議に出席したという記録があるが、その後はイングランド南西部デヴォンのオタリー・セント・メアリー(Ottery St Mary)というロンドンから遠く離れた小さな村に隠居。ここで23年間一人暮らし。1929年に86歳で逝った。おしまい。

武田兼
サトウと内縁の妻、武田兼ですが、何か?

▶いやいやいや。おかしいでしょ? おかしいもの。ロンドンで生まれ育ち、大学出てすぐ訪日。幕末動乱期の日本で勝海舟や西郷隆盛、伊藤博文などの要人らと交流し、「英国策論」を発表して日本国中をざわつかせた。諸外国で総領事を務めた後に公使に出世。文明開化した日本に舞い戻り、その後、極東最高位のポジションである駐清公使まで昇りつめた輝かしいキャリア持ち。それが引退後、愛する家族がいる日本に戻ることなく、ロンドンで若い金髪美女たちと楽しくするでもなく、縁もゆかりも親戚もユダヤ人街もないデヴォンの片隅に23年もの間、一人ポツンと隠居のミステリー。どう考えてもサトウ自身の希望による晩年とは思えない。推測だが、サトウは何らかの責めを受け「遠方での蟄居」を命じられたのではないか。考えられる罪があるとすれば「二重スパイ」の発覚。ロスチャイルドのためか、愛着の沸いた日本のためか、イギリスにとって不利となる動きをしたことが政府にバレちまった可能性を筆者は考えている。「日本で愛する家族と共に余生を過ごしたい」。そう熱望し始めた時、既にサトウは長旅に耐えられない身体になっていた。日本で強烈な光を放った青年時代と比べるとなんか切ない晩年。涙でハンカチ濡らしながらサトウ話を終えようと思ったがもう一人、二重スパイと思える人物が浮かび上がって来てしまった。そんなこって次号に続く。チャンネルはそのままだぜ。

週刊ジャーニー No.1247(2022年7月7日)掲載

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