![40年を振り返る ロンドン・パンク再考 [Punk London]](/images/stories/survivor/160505_londonpunk/ttl.jpg)
●サバイバー●取材・執筆/名取 由恵、本誌編集部
『パンク』という言葉を聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるだろうか。
ツンツンに立てた髪、モヒカン刈り、破れたジーンズやTシャツに安全ピン、過激な歌詞、激しい音楽……。
パンクとは、一般的に、1970年代後半に生まれたロックのジャンルのひとつであるパンク・ロックのことを指す。「パンクといえばロンドン」というように、ロンドンが発祥地という印象が強いが、もともとはニューヨークで生まれたものだ。ざっくり言うと、ニューヨーク・パンクに影響を受けた人々がロンドンでバンドを結成、ロンドン・パンクというムーブメントが生まれたという流れである。
パンクとは何か。パンクは一体どのように生まれたのだろうか。
広義の意味でのパンクを語るには、ニューヨーク・パンクや、80年代以降のハードコア・パンク、メロディック・ハードコアのバンドも欠かせないのだが、今回はロンドン・パンクだけに焦点をあて、ご紹介したい。
一方、海を越えたニューヨークでは、60年代のガレージロックから影響を受けたバンドがアンダーグラウンド・シーンに現れ、ラモーンズ、テレヴィジョン、パティ・スミスといったアーティストがクラブ「CBGB」でライブを行い、話題を集めていた。彼らの音楽は「パンク(もともとは若造、チンピラといった意味)」と呼ばれるようになった。
この「CBGB」周辺の新しいシーンに影響を受けたのが、ロンドンからニューヨークに渡り、米NY出身のバンド、ニューヨーク・ドールズのマネージャーを務めていたマルコム・マクラーレンだ。彼は75年にロンドンに戻ると、ロンドン西部のキングズ・ロードでヴィヴィアン・ウェストウッドと共同経営していたブティック周辺にたむろしていた若者に声をかけ、セックス・ピストルズを結成(詳しくは下記「過激なファッションはなぜ?」参照)。ピストルズは、75年11月にセント・マーティンズ・スクール・オブ・アートで初ライブを行った。
セックス・ピストルズが1976年6月にマンチェスターで行ったライブの観客はわずか40人だったが、そのなかにはバズコックスやジョイ・ディヴィジョン、ザ・フォール、ザ・スミスといったマンチェスターを代表するバンドを後に結成することになる若者たちが含まれており、その後の音楽シーンにとって重要なライブとなった。ライブの模様はマイケル・ウィンターボトム監督の映画『24Hour Party People(2002)』にも描かれている。
同じ頃、セックス・ピストルズと並んで、三大ロンドン・パンク・バンドと呼ばれる、クラッシュとダムドも誕生していた。1976年7月にラモーンズが米国から訪れて行ったUKツアーにより、パンク人気に一気に火がつき、同年9月20日~21日、ロンドンの「100クラブ」において「Punk Festival」が開催される。このイべントには、ピストルズ、クラッシュ、ダムド、バズコックス、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、サブウェイ・セクトなどが出演、マスコミでも大々的に取り上げられることになる。
しかしダムドの演奏中に、観客のひとりだったシド・ヴィシャス(後にセックス・ピストルズに加入)が投げたビンが割れて、観客の少女が片目を失明するという騒ぎが発生。マスコミによって「パンク=暴動・危険」というイメージが作られることにもなった。76年11月にはセックス・ピストルズがデビュー・シングル『Anarchy in the UK』をリリース、アンダーグラウンド・シーンをにぎわしていたパンクがメインストリームに躍り出ることになる。
77年はパンクの当たり年となった。ダムドのデビュー・アルバム『Damned, Damned, Damned』、クラッシュのデビュー・アルバム『White Riot』に続き、同年10月、セックス・ピストルズがデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks』をリリースして、見事全英アルバム・チャート1位を記録。一連の動きに影響を受けたバンドが雨後の筍のように次々とデビューし、パンク人気は頂点に達する。
パンク・バンドは、それぞれ、ガレージロック、パブロック、モッズ、ハードロックなどと、影響を受けた音楽スタイルはまちまちであり、パンク・サウンドはひと括りでは語れないが、大体において、3コードのみのシンプルで短い曲を激しいギターや大音量のドラムで演奏するというものだ。若者たちは「これなら俺たちにもできる!」とバンドを結成、再びロックを自分たちの手に取り戻し、音楽により自分たちの怒りや創造性を吐き出し始めた。
ツンツンに立てた髪、モヒカン刈り、破れたジーンズやTシャツに安全ピン、過激な歌詞、激しい音楽……。
パンクとは、一般的に、1970年代後半に生まれたロックのジャンルのひとつであるパンク・ロックのことを指す。「パンクといえばロンドン」というように、ロンドンが発祥地という印象が強いが、もともとはニューヨークで生まれたものだ。ざっくり言うと、ニューヨーク・パンクに影響を受けた人々がロンドンでバンドを結成、ロンドン・パンクというムーブメントが生まれたという流れである。
パンクとは何か。パンクは一体どのように生まれたのだろうか。
広義の意味でのパンクを語るには、ニューヨーク・パンクや、80年代以降のハードコア・パンク、メロディック・ハードコアのバンドも欠かせないのだが、今回はロンドン・パンクだけに焦点をあて、ご紹介したい。
パンクの誕生
時代は1970年代半ば。ロックの黄金期である60年代が終わり、70年に入ってからはハードロックやプログレッシヴロックなど、高価な機材や高度なテクニックを駆使したスーパーバンドが人気を集めていた。かつて、ロックは若者たちによる反抗の象徴であったのが、今や大手レコード会社による商業的音楽が主流となり、音楽産業は巨大化。リスナーである若者たちとバンドの間には大きな隔たりが生じていた。若者たちは音楽シーンに不満をもつようになり、次第に自分たちのムーブメントや新たなプロテストソング、新しいユース・カルチャーを強く求めるようになっていった。一方、海を越えたニューヨークでは、60年代のガレージロックから影響を受けたバンドがアンダーグラウンド・シーンに現れ、ラモーンズ、テレヴィジョン、パティ・スミスといったアーティストがクラブ「CBGB」でライブを行い、話題を集めていた。彼らの音楽は「パンク(もともとは若造、チンピラといった意味)」と呼ばれるようになった。
この「CBGB」周辺の新しいシーンに影響を受けたのが、ロンドンからニューヨークに渡り、米NY出身のバンド、ニューヨーク・ドールズのマネージャーを務めていたマルコム・マクラーレンだ。彼は75年にロンドンに戻ると、ロンドン西部のキングズ・ロードでヴィヴィアン・ウェストウッドと共同経営していたブティック周辺にたむろしていた若者に声をかけ、セックス・ピストルズを結成(詳しくは下記「過激なファッションはなぜ?」参照)。ピストルズは、75年11月にセント・マーティンズ・スクール・オブ・アートで初ライブを行った。
高まるパンクの熱気
同じ頃、セックス・ピストルズと並んで、三大ロンドン・パンク・バンドと呼ばれる、クラッシュとダムドも誕生していた。1976年7月にラモーンズが米国から訪れて行ったUKツアーにより、パンク人気に一気に火がつき、同年9月20日~21日、ロンドンの「100クラブ」において「Punk Festival」が開催される。このイべントには、ピストルズ、クラッシュ、ダムド、バズコックス、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、サブウェイ・セクトなどが出演、マスコミでも大々的に取り上げられることになる。
しかしダムドの演奏中に、観客のひとりだったシド・ヴィシャス(後にセックス・ピストルズに加入)が投げたビンが割れて、観客の少女が片目を失明するという騒ぎが発生。マスコミによって「パンク=暴動・危険」というイメージが作られることにもなった。76年11月にはセックス・ピストルズがデビュー・シングル『Anarchy in the UK』をリリース、アンダーグラウンド・シーンをにぎわしていたパンクがメインストリームに躍り出ることになる。
77年はパンクの当たり年となった。ダムドのデビュー・アルバム『Damned, Damned, Damned』、クラッシュのデビュー・アルバム『White Riot』に続き、同年10月、セックス・ピストルズがデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks』をリリースして、見事全英アルバム・チャート1位を記録。一連の動きに影響を受けたバンドが雨後の筍のように次々とデビューし、パンク人気は頂点に達する。
パンク・バンドは、それぞれ、ガレージロック、パブロック、モッズ、ハードロックなどと、影響を受けた音楽スタイルはまちまちであり、パンク・サウンドはひと括りでは語れないが、大体において、3コードのみのシンプルで短い曲を激しいギターや大音量のドラムで演奏するというものだ。若者たちは「これなら俺たちにもできる!」とバンドを結成、再びロックを自分たちの手に取り戻し、音楽により自分たちの怒りや創造性を吐き出し始めた。
パンクを語る上で欠かせないバンド5選
パンクを象徴する存在
SEX PISTOLS セックス・ピストルズ
暑き思想と精神を掲げたロックバンド
THE CLASH クラッシュ
ロンドンパンク御三家のひとつ
THE DAMNED ダムド
硬派なインテリ・パンク
THE STRANGLERS ストラングラーズ
若きウエラー率いるバンド
JAM ジャム
英国社会とパンク
音楽業界への不満だけなら、ロンドン・パンクがわが世の春を謳歌することはなかったかもしれない。隆盛を極めたその背景として、当時の英国の社会情勢が大きく影響を及ぼしている事実はロンドン・パンクを語る上で欠かすことはできない。1974年の総選挙で、労働党はエドワード・ヒース率いる保守党に勝利。ハロルド・ウィルソン党首が再び首相に返り咲き、第2次ウィルソン内閣を築き上げていたが、76年4月に突然辞任を発表、新たに労働党党首に選ばれたジェームズ・キャラハンが同年5月に首相に就任した。
このような不安定な政治情勢が物語っているように、この頃の英国は、いわゆる「英国病」と呼ばれた状況にあった。オイルショックの影響もあり、経済力が低下、物価の上昇が起き、長引く不景気と失業者の増加、ストライキなどにより、人々の不満や社会不安が高まっていた。76年の失業者は120万人を超え、翌年には150万人に到達していた。
社会と経済が混乱するなか、人種差別や、宗教間の対立も深まっていく。
76年8月にはノッティングヒル・カーニバルで西インド諸島系の黒人移民と警察が衝突して暴動が発生した。一方で、北アイルランド問題も深刻化。プロテスタント主体の北アイルランド政府はカトリックに宗教的及び社会的弾圧を行い、カトリック系の軍事組織、プロテスタント系の軍事組織、そして英陸軍・北アイルランド警察が激しい戦いを繰り広げた。72年から英国政府による直接統治が始まったが、北アイルランドでは毎日のように武力抗争による犠牲者がでており、IRA(カトリック過激派アイルランド共和軍)暫定派は英国本土にも進出して爆破攻撃を敢行した。
79年、キャラハン首相に対する不信任案が可決され、同年5月、労働党は総選挙で「鉄の女」ことマーガレット・サッチャー率いる保守党に大敗を喫した。首相に就任したサッチャーは英国病を打破すべく、労働党左派や労働組合に圧力をかけ、基幹産業の民営化、炭坑の閉鎖、グレーター・ロンドン市の解体、福祉制度の見直しなどを断行したが、その結果、製造産業が衰退、失業率はさらに増加した。
不景気と未来がみえない閉塞感のなかで、若者たちの怒り、不満、鬱屈した感情が強まり、「No Future」というメッセージが彼らの真実の叫びとなり、パンクという形で爆発したといえる。パンクは瞬く間に、若者たちの心をとらえたのだ。
歌詞から拾う、パンクのメッセージ
クラッシュ 『White riot』
1976 年にノッティングヒル・カーニバルで起きた黒人による暴動事件を目撃したジョー・ストラマーが書いた。白人も自分たちの問題に対して闘い、世界を変えていくべきだと訴えている。White riot - I wanna riot 白い暴動 俺は暴動を欲している
White riot - a riot of my own 白い暴動 俺の暴動を
Black people gotta lot a problems 黒人たちはたくさんの問題を抱えているが、
But they don't mind throwing a brick 石を投げるのはためらわない
White people go to school 白人たちは学校に行き
Where they teach you how to be thick 教師から間抜けになるのを教わる
1977, Strummer, Jones, Simonon, Headon
スティッフ・リトル・フィンガーズ『Suspect Device』
北アイルランドのベルファスト出身のバンド。1979年発表のファースト・アルバム『Inflammable Material(邦題:インフレーマブル・マテリアル)』は、北アイルランド紛争を歌った曲が多く、政府、戦争、拝金主義などを批判している。Don't believe them 奴らを信じるな
Don't believe them 奴らを信じるな
Don't be bitten twice二度も騙されるな
You gotta suss, suss, suss, suss, suss outお前らにも疑う装置が付いているんだから
Suss suspect device 解放という名のもとに、
They take away our freedom 奴らは俺たちの自由を奪う
In the name of liberty 消えてくれ
Why don't they all just clear off 放っておいてくれ
Why won't they let us be 地獄から救ったことで
They make us feel indebted 奴らに借りがあると思わされてるけど
For saving us from hell 奴らのせいで地獄のような目にあっている
And then they put us through it 奴らが地獄に落ちるときがきた
It's time the bastards fell
1978, Ogilvie, Fingers
セックス・ピストルズ
デビュー・シングル『Anarchy in the UK』とセカンド『God Save The Queen』。英国の王室と政府を名指しで批判、強烈なインパクトを与えた。『Anarchy in the UK』
I am an antichrist 俺は反キリスト
I am an anarchist 俺はアナーキスト
Don't know what I want 自分の欲しいものはわからないが
But I know how to get it 手に入れる方法は知っている
I wanna destroy passer by 歩いている奴らを倒したい
'Cause I wanna be Anarchy アナーキーでいたいから
1976, Matlock, Rotten, Cook, Jones
『God Save The Queen』
God save the queen 神よ 女王を守り給え
The fascist regime ファシスト政府は
They made you a moron 人を間抜けにした
Potential H-bomb 水素爆弾並みさ
God save the queen 神よ 女王を守り給え
She ain't no human being 女王は人間じゃない
There is no future 英国の夢に 未来は無い
In England's dreaming
1977, Matlock, Rotten, Cook, JonesパンクのDIY精神
パンク・シーンには、一言でまとめることができないほど、さまざまなバンドが存在した。音楽スタイルが異なっていたのと同様に、そのイデオロギーにも差異が見られた。反資本主義、反人種差別、反ホモフォビア、アナキズム(無政府主義)などを掲げるものがあれば、社会主義、左翼のバンドもあったほか、ネオナチ思想、右翼のパンク・バンドもいた。しかし、多くのパンク・バンドに共通しているのは、反体制主義とDIY(Do It Yourself)志向だろう。スーパーバンドによる商業的音楽の在り方とは対照的に、「何もないなら、すべて自分たちでやっちまえ」という精神のもと、大手レコード会社ではなく独自にインディペンデント・レーベルを設立して、自分たちのレコードをリリースしたり、レコードのアートワークやライブのフライヤー(ちらし)、ポスターなどを手作業で作成したりするバンドもいた。また、ファンたちも同じくDIY精神により、自らの手で、ファンジン(「Fan Magazine」の略)と呼ばれるバンドの機関紙を発行していた。
例えば、1977年から85年にかけて活動していたクラスは、保守党のサッチャー政権時代に反戦、反核、反体制、環境保護、動物愛護、無政府主義といった強いメッセージを掲げていた。自分たちのレコード・レーベルである「CRASS LABEL」を作り、レコード・ジャケットの印刷まで自分たちで行い、自給自足の共同生活を送るほどの徹底ぶりだった。
また、クラッシュも、階級制度や君主制度、人種差別を批判し、人々に政治活動に参加するよう呼びかけるなど、積極的に社会的なメッセージを送り続けた。反極右団体「アンチ・ナチ・リーグ」とも関わり、78年にロンドンのヴィクトリア・パークでおよそ10万人を集めて行われた反人種差別コンサート「ロック・アゲンスト・レイシズム」にも出演。レコードやコンサートの料金も、若者たちが無理なく購入できるようにとのメンバーの意向により、赤字覚悟で安く抑えていたという。革新的な活動で理想を追求し続けたクラッシュの存在は、現在でも高く評価されている。
パンクが与えた影響
さて、突然盛り上がったロンドン・パンクだったが、終わりが来るのも早かった。メインストリームとなって日常にあふれるようになったことで、ワンパターンのパンクは、作り手側からも聞き手側からも次第に飽きられていったことが理由として考えられる。
失速に合わせて、今度はポスト・パンク、ニューウェイヴ、ハードコア・パンク、オイ! パンクといった新しいムーブメントがシーンをにぎわすようになっていったのだった。
パンクの最盛期は驚くほど短く、すべてが70年代後半から数年間のうちに起こった。それだけに、逆を言えば、その期間はとても密度が濃かった時代ともいえるだろう。
これまでの価値観をひっくり返しつつ、さまざまなインスピレーションを組み合わせて、新しいスタイルを作り上げるというパンクは、歴史のなかでも比べるものがない独自のカルチャーとなったことに疑いの余地はない。
パンクの影響はその後の音楽シーンに脈々と受け継がれていったばかりか、DIY精神や体制に唾を吐くような姿勢は、ファッション、アート、デザイン、文学、ポップカルチャーなど広範な分野に多大な影響を与えた。その衝撃は英国だけでなく、米国や日本を含む世界各国に及び、文字通り、パンクは世界を変えてしまったのだ。
最後に、パンクについて思い出すエピソードをひとつ。今から20年前の96年6月、ロンドンのフィンズベリー・パークで、セックス・ピストルズの20年ぶりの再結成コンサートが行われた。聴衆の多くは、パンク・シーンをリアルタイムで体験したと思しき、アラフォーの中高年世代だった。
筆者も初のセックス・ピストルズのライブとあって、張り切ってステージ前に陣取っていたのだが、ピストルズのメンバーがステージに登場し、1曲目がスタートするやいなや、まるで地面が動いたかのように観客が一斉に暴れだしたのだ。当然ながら筆者も熱狂の渦に巻き込まれ、自分の意思では体を動かすことができない強烈なモッシュ(興奮した観客がジャンプしたり、無秩序に体をぶつけ合ったりする行為)に襲われた。ロック・コンサートは百戦錬磨で観客の大暴れにも馴れている筆者であったが、こんなむちゃくちゃなモッシュを経験したのは初めてだった。身の危険を感じて、あえなく脱落、端で大人しく観ることにした。さすがはセックス・ピストルズ、さすがはパンクの大御所だった。
「一度パンクだった者は、死ぬまで一生パンクなんだ――」
そんな言葉が頭に浮かんだ。今はすっかり息を潜めてしまったかのようだが、パンクの火が消えることはない。パンクとは、音楽やファッションだけではなく、スピリットであり、信条であり、生き方なのである。
過激なファッションはなぜ?
●パンクとファッションには切っても切れない関係がある。その中心的存在となったのが、英国のファッション・デザイナー、ヴィヴィアン・ウェストウッド=写真下左=とそのパートナーだったマルコム・マクラーレンだ。ふたりは1971年にロンドン西部のキングズ・ロードにテディ・ボーイズ(エドワード7世時代の服装を好んだ1950~60年代の若者たち)向けのブティック「Let It Rock」をオープン(店は「Too Fast To Live Too Young To Die」「Sex」「Seditionaries」に名前を変更、1980年に「Worlds Ends」となり、現在に至る=同下右)。フェティッシュ・ボンデージ系の服を製作販売し、アンダーグラウンド・シーンの若者たちのたまり場になっていた。●現在でもウェストウッドはデザイナーとして第一線で活躍しており、日本にもファンが多い。2015年には、シェールガス採掘に反対し、戦車による抗議デモを行うなど、75歳となった今もなお過激な言動で知られている。一方のマクラーレンは、マネージャー、ミュージシャンとして活躍した後、2010年に中皮腫で亡くなった。彼とセックス・ピストルズの関係については、ジュリアン・テンプル監督による映画『The Filth and The Fury(2000)』に詳しい。
週刊ジャーニー No.931(2016年5月5日)掲載