◆◇◆ ヴァチカンとの決別で ◆◇◆
![]()
英国王室史を語る上でまずはずせないのがこのヘンリー8世。大食漢で、晩年には体重が130キロにもなり、どこへ行くにも4人がかりでかつぐ輿に乗らざるを得なかったという。それでも56歳まで生き、当時としては十分、長寿を全うしたといえる。 英王室が直面した数々の問題の中で、最も深刻だったもののひとつが、カトリック教会との決別だ。
英国の王室史において、良い意味でも悪い意味でも印象深い君主の代表格である、チューダー朝のヘンリー8世(在位1509~47)は、男子の世継ぎを得ることに全身全霊をかけた。
世継ぎとしての男子に恵まれない場合、その王家の発展が妨げられる可能性があったからだ。イングランドでは、女性が王位につくことを禁じていなかったため、男子がいないと、女子が王位につくことになり、その夫に誰を選ぶかで頭を悩ませることになる。並みの貴族では、王位を狙う者に反逆の好機を与えることになりかねず、内乱を招く恐れがあった。かといって、王室クラスを選ぶとなると「外国」の有力貴族と婚姻関係を結ぶことも視野に入れることになり、実際、「外国」から夫を迎えた場合、強力な同盟国を得られるかもしれないが、国自体を乗っ取られる心配もあり、リスクが高かった。もちろん、世継ぎとして男子が生まれたとしても、優れた統治者に育つとは限らず、国家の繁栄が約束されているわけではなかったが、少なくとも、婚姻をきっかけとする内乱や国家の乗っ取りなどといった事態を心配せずに済んだ。
最終的に6人もの妻をめとることになるヘンリー8世について、単なるわがままで横暴な好色王という評価をくだす人もいるかもしれないが、彼ほどチューダー朝、ひいてはイングランドの発展に情熱を燃やした王は他にいない。世継ぎに男子を――切望というよりは脅迫観念に近かった。イングランドは、まだまだ弱小国に過ぎず、島国ということで独立を保ってはいたが、大国のスペインに「折あらば」と狙われるような、あやうい立場の国に過ぎなかったことも、ヘンリーの思いに拍車をかけた。
1人目の妻であるキャサリン・オブ・アラゴン(スペイン王フェルナンド5世の娘)は、6人の子供を出産したものの、唯一生き残ったのは、後のメアリー1世となる女子ひとり。待望の王子は、2人とも生後間もなく神に召された。キャサリンの年齢を考え、焦ったヘンリーは、ヴァチカンに離婚の許しを乞う。若い妻を迎えるためだった。
その頃のヨーロッパは、カトリック一色。総本山であるヴァチカンは、絶大なる力を誇っており、小国イングランドが太刀打ちできるような相手ではなかった。
もちろん、イングランドもカトリック教国で、ヘンリー8世も敬虔な信者。できれば、破門されずに離婚問題を解決したいと願うヘンリーの命を受け、時の大法官、トーマス・ウルジーは必死の工作を試みるが失敗に終わる。小国の君主からの要望など聞き届けられるはずはなかったのである。
男子の世継ぎか、ヴァチカンか。
ヘンリー8世は前者をとる。
世継ぎの男子を、という考えに取り付かれた彼の心を射止めた、アン・ブリンとの結婚を是が非でも成立させねばならない。イングランドの宗教界の頂点にたつカンタベリー大司教のもと、ついに、ヘンリーとキャサリンの離婚は無効だったという裁定を下させる。
1533年のことだった。アンのおなかには、既にヘンリーの子が宿っており、アンとヘンリーの結婚を成立させるのは火急の業務だったのだ。
こうして生まれたのが、後のエリザベス1世である。ヘンリー8世は、女子誕生の知らせに大きく落胆したと想像できるが、このエリザベスの治世に、ヴァチカンの全面的なバックアップを得てイングランドに向かったスペインの無敵艦隊を撃破することになるとは、誰が予想しただろう。
ヴァチカンに破門されたヘンリー8世は、もう後戻りはできないと腹をくくる。1534年には、議会により「国王(または女王)を、イングランド国教会の地上における唯一最高の首長とみなす」という「国王至上法」が制定された。イングランド(英国)国教会(Church of England)の始まりである。
当初のイングランド国教会は、教義の上では、カトリック(旧教)に近かったが、ヴァチカンに背いて成立したという経緯から、プロテスタント(語源は「〈カトリック教に〉反抗する者」)と分類される。
このイングランド国教会の成立が、約400年後、現ウィンザー朝の誕生に大きく関係してくるのである。
◆◇◆ カトリック対プロテスタントの激闘 ◆◇◆
世継ぎほしさに、ヴァチカンに背くというギャンブルに打ってでたヘンリー8世だったが、カトリック教会との決別はイングランドに思わぬ利益をもたらした。
イングランドにのさばっていたカトリック勢力を払拭するべく、イングランドにあった200近い修道院を解散させ、土地や財産をことごとく没収した。その頃、イングランドの富の約3分の1は、カトリック勢力に握られていたとされるだけに、イングランド財政がどれほど潤ったか計り知れない。また、北部を中心に抵抗を続けるカトリック貴族たちとの戦いは長引くことになったものの、カトリック、すなわちヴァチカンに搾取され続けることに不満を抱いていた、イングランド国民の多くはヘンリー8世、および議会の判断を支持した。ヨーロッパで孤立した形になったイングランド王、ヘンリーにとってこれは大きな励ましになったのではなかろうか。
奮闘を続けるヘンリー8世に、待ちに待った王子をプレゼントしたのは、3番目の妻、ジェーン・シーモアだった。ただ、この王子は頑健ではなく、56歳で息を引き取ったヘンリー8世は最期まで王子の行く末を案じていた。その心配の甲斐もなく、9歳でエドワード6世(在位1547~53)として即位した同王子は16歳の若さで病没してしまう。
この後、イングランドは160年間、カトリックとプロテスタントの間でゆれ動くことになる。1553年に即位した、ヘンリー8世の長女、メアリー1世(在位1553~58)は筋金入りのカトリック。父、ヘンリーが敵国と見なしていたスペインのフェリペ2世と結婚し、多くのプロテスタント教徒を処刑した。
![]()
『Armada Portrait』(アルマダ・ポートレート)と呼ばれる、エリザベス1世の肖像画。スペインの無敵艦隊(アルマダ)との海戦の模様が背景に描かれている。 しかし、その治世は短く、1558年にはヘンリー8世の次女であり、プロテスタントのエリザベス1世(在位1558~1603)が女王の座についた。同女王のもと、イングランドは飛躍的な発展を遂げるものの、生涯独身を通し、子供をもうけることなくエリザベスが他界したため、チューダー朝は断絶。
跡を継いだのは、スコットランド王家であるスチュワート朝のジェームズ6世。同王は、ジェームズ1世としてイングランド王もかね、イングランドとスコットランドは同一の君主を史上初めて頂いたのだった。
ジェームズ1世はプロテスタントだったが、それ以降は、カトリック君主が即位するたびに(処刑されたチャールズ1世は、表向きはプロテスタントだが、妻はカトリック)議会派と国王支持者に分かれての内乱や、「名誉革命」といった、国全体をゆるがす大事件が発生するという状態に陥る。
同じキリスト教でありながら、血で血を洗うような抗争を長く続けたカトリックとプロテスタント。国民にとって、君主がカトリックかプロテスタントかというのは、当初は、自分の命に関わる問題でもあった。
プロテスタントを処刑し、笑みを浮かべてその様子を眺めていたというエピソードから「ブラディ・メアリー(血まみれメアリー)」のあだなをつけられたメアリー1世を例にとるまでもなく、信仰の名のもと、反対派の信徒は容赦なく弾圧される時代が長く続いたのだ。
近年になって、さすがに処刑はされなくなったものの、カトリック君主には王権神授説を唱える者が多く、議会、ひいては国民の権利を制限し、絶対君主として圧政をしこうとする傾向が強かった。
1702年、スチュワート家最後の君主となったアン女王が即位する前年、「王位継承法(Act of Settlement 1701)」が成立。同法が、英国君主としての王位継承権が与えられるのは英国国教会教徒のみとして、カトリック教徒が即位するのを完全に阻止する内容のものだったのは、王室の行方に気をもむ議会が、実力行使に出た結果と言える。1534年に成立した、前述の「国王至上法」とともに、この「王位継承法」が、いよいよ、今のエリザベス女王の誕生へと結びついていく。
◆◇◆ ドイツから唐突に招かれた王 ◆◇◆
アン女王は少なくとも18回懐妊し、そのうち13回は流産か死産、無事生まれた5人のうち、4人は2歳にならないうちに夭逝、最後の1人となった王子も1700年に11歳で死去するという、数多くの悲劇に見舞われた。
即位することが確実であるアンが、万一、これ以上子供を生むことができず、世継ぎのないまま亡くなった場合、「血の濃さ」からいうと、1689年の「名誉革命」で国外に追放されたカトリック君主、ジェームズ2世の息子、ジェームズ・フランシス・エドワード(同じくカトリック)が即位することになってしまう。議会はあわてた。
スチュワート家が、もともとスコットランド王家であったことも、この「王位継承法」の成立を急がせた。イングランドで発展した議会政治の実権はプロテスタントが握っていたが、その権限が制限され、イングランド国民もないがしろにされることを議会が恐れたためである。
議会の読みは的中し、1714年、アン王女は世継ぎのないまま逝去。しかし、王位継承権を剥奪されたジェームズ・フランシス・エドワードには、なすすべがなかった。
一方、プロテスタントで、王位継承権の順位が最も上である人物として突然、英国史の表舞台に登場するのが、現ドイツのハノーヴァー一帯を領地としていた、ハノーヴァー選帝侯(Electorate of Hanover)、ゲオルク・ルートヴィッヒ(1660~1727、英語読みではジョージ・ルイス)その人だ。
ジェームズ1世の長女エリザベスの娘、ソフィアがハノーヴァー選帝侯のもとに嫁いで生まれたジョージ・ルイスは、ジェームズ1世のひ孫にあたる。「王位継承法」成立以前は、王位継承権第52位という、いわば遠い親戚に過ぎなかった男性である。
もともと、ヨーロッパの王室クラスは、何らかの形で親類関係にあるとはいえ、ドイツ語しか話せない異国人を、いきなり英国王にすえるという大胆さには驚くばかりだが、これは、カトリック君主を頂くよりは、英国をまったく知らない異邦人であろうとプロテスタントであるだけまだ「マシ」と議会が考えたことを意味する。カトリックとプロテスタントの溝の深さをうかがわせる。
こうして始まったハノーヴァー朝は、ウィンザー朝の「前身」と呼ぶべき王家となる。ウィンザー朝を成立させたのは、ヘンリー8世の時代からイングランドに根強い「反カトリック主義」だったと考えて良いだろう。


セール情報をいち早くGET!今週のお買得★食料品『TKトレーディング』