「落ち葉の頃には帰れる…」

 開戦時には、サラエボで起こった事件の衝撃など、人々の記憶からほとんど忘れ去られていた。だが、その事件を皮切りに歯車がまわりはじめ、各国が動き、後戻りしようとしたときには、もう戦争に向けたやり直しのきかないカウントダウンが始まっていた。
第一次世界大戦は強欲な支配者が意図的に大戦を仕掛けたわけでも、一国の独占欲によってのみ勃発したわけでもない。それぞれの国の利害が絡み合い、思惑が外れて戦争へと動き出した。大きなうねりに流されるがまま、知らず知らずのうちに各国が大戦へと足を踏み入れ、その規模は人類がかつて経験したことのない大きさにまで膨れ上がっていったのである。

 


参戦が決まり、バッキンガム宮殿の前に集まった民衆ら。
名誉のために立ち上がった英国で、開戦当初、
すぐに勝利を収めると確信していた国民の士気は高まった。© IWM (Q 65496)

 

 各国では「落ち葉の頃には家に帰れるだろう」と短期戦を予期していたが、戦いはクリスマスになっても終わる気配はなかった。それどころか、英国参戦以降、日本、トルコ、イタリア、米国など、世界各国を巻き込んでの戦いに発展し、翌年も、その翌年も続いた。
1917年に内政が不安定になったロシアは途中離脱し、翌18年、持久戦に疲弊したトルコ、オーストリアが降伏。11月には国力が枯渇したドイツも連合国と休戦協定を結んだ。翌年6月のベルサイユ条約の締結によって、長い戦いのピリオドが打たれた。
史上初の総力戦として知られるこの大戦では、前線で戦う将兵のみならず、銃後の民間人の生活にも影響が及んだ。参加国以外に、インドやアフリカなどから兵士や労働者が協力、参加を強いられた。化学兵器、戦車、戦闘機などの大量殺戮を可能とする新兵器が次々に登場し、両陣営合わせての戦死、戦病死者は800万とも1500万人(※)とも言われている。
戦中から終戦にかけ、4つの帝国(オーストリア=ハンガリー、ドイツ、トルコ、ロシア)は崩壊。ロシア革命の口火を切ってソビエト連邦を成立させ、軍事産業で富を得たアメリカが台頭するなど、後の国際社会の枠組みが作られた。しかし、ドイツが多くの領土を失ったことが、次なる大戦の火種のひとつとなってしまう。そのことを、当時の人類は知る由もなかったのである。

主な出来事

① 戦争長期化を決めた  マルヌの戦い/マルヌの奇跡
First Battle of the Marne / Miracle of the Marne

ベルギーを破り、パリへと近づいた独軍が、パリ東方のマルヌで英仏軍に敗北を喫した戦い。12日間退却を続け、もはや撤退以外に道はないという戦況の英仏軍が、勝利目前だったドイツを破ったことから「マルヌの奇跡」とも呼ばれる。独軍の戦争計画シュリーフェン・プランが失敗に終わり、大戦の長期化を決定付けた。1週間で使われた砲弾の数は約100万発。この数は1904年から1年半にわたって繰り広げられた日露戦争の砲弾数に匹敵する。

② 膠着が続く塹壕戦  西部戦線のクリスマス休戦
Western Front, Christmas truce

フランスとドイツの国境沿いの戦線(西部戦線)では、スイスから英国海峡までの、フランスとベルギーの国土を横断する形で、前線の両陣営側にそれぞれ塹壕が掘られ、独軍、英仏軍の戦いが繰り広げられた。互いに相手の塹壕を突破できず、膠着状態となった。だが、1914年のクリスマス・イブに、両軍が塹壕から出てきて一時休戦し、共にサッカーを行った(クリスマス休戦)ことが感動の話として語り継がれている。この話をもとにした映画も製作されている(『Joyeux Noel』邦題:戦場のアリア)。クリスマス後はまた戦争が再開され、塹壕戦は終戦まで続いた。


張りめぐらされた塹壕には混乱を防ぐため『通り』に名前がつけられた。
ときにはなじみのある名が掲げられた。
© IWM (Q 4180) / Brooke, John Warwick (Lieutenant) (Photographer)


1916年12月25日、砲撃によるくぼみでクリスマス・ディナーをとる英国兵。
ささやかながら戦場でもクリスマスが祝われた。© IWM (Q 1631)

③ 英国惨敗、ガリポリの戦い
Battle of Gallipoli

連合軍が、トルコのコンスタンティノープル(現イスタンブール)を目指し、ガリポリ半島への上陸を試みた戦い。西部戦線での膠着状態を受け、別の攻撃作戦として実行されたが、計画の遅れやトルコ軍の予想外の抵抗により失敗に終わる。連合軍の指揮官の統率力の欠如、ずさんな軍事計画が批判を呼び、計画を推進した英海軍大臣のウィンストン・チャーチルが失脚。アスキス内閣は総辞職となり、代わってロイド・ジョージが英首相となった。写真は大砲と共に撤退する英兵。
© IWM (Q 13637) / Brooks, Ernest (Lieutenant) (Photographer)

④ 兵士募集と徴兵制
ヨーロッパで唯一徴兵制を導入していなかった英国の兵士募集広告。戦火が長引き、1916年1月にとうとう徴兵が実施される。18~41歳が対象。ただ宗教や思想を理由に徴兵を拒否することも認められた(良心的兵役拒否者Conscientious objector)。


© IWM (Art.IWM PST 2734) / Leete, Alfred (artist)

パレスチナ問題の原点
⑤ マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言
ソンムの戦い

McMahon-Hussein Correspondence, Sykes-Picot Agreement, Balfour Declaration
同盟国として参戦していたトルコとの戦いを有利に進めたい英国は、トルコをかく乱するため、アラブ地域での反乱を企てた。その際、アラブの有力者との間で、勝戦後のアラブの独立を約束した(マクマホン書簡)。
また英国はフランスとの間で、中東地域の分割を約する秘密協定(サイクス・ピコ協定)を締結。さらに、ユダヤ人による支持を得るため、ユダヤ人の「ナショナル・ホーム」をパレスチナに樹立することも認めている(バルフォア宣言)。これにより英国は中東問題の火種をつくり、「英国の二枚舌」あるいは「三枚舌」外交と揶揄されることとなる。
戦後の領土分割で、英国はパレスチナを国際連盟の委任統治領として支配(1948年に撤退)。世界各地のユダヤ人によるパレスチナへの流入が増えたことから、パレスチナ住民からの反発を買い、現在にも続くパレスチナ問題へと発展していく。


1913年  トルコ領土

⑥ 『無意味な大量殺戮』の代名詞  ソンムの戦い
Battle of the Somme

第一次世界大戦中の最大の会戦のひとつ。フランス北部のソンム川流域で行われた。独軍、英仏軍合わせて100万人以上の死傷者を出し、壮絶を極めたが、連合軍がわずか8キロ前進しただけで決着はつかなかった。初めて戦車が使われた戦いでもある。写真は1917年から用いられたMark V。

 

1914年
6月28日 サラエボ事件
7月28日 オーストリアがセルビアに宣戦布告
8月1日 ドイツがロシアに宣戦布告
3日 ドイツがフランスに宣戦布告、イタリアは中立宣言
4日 英国がドイツに宣戦布告、米国は中立宣言
5日 リエージュの戦い
6日 オーストリアがロシアに宣戦布告
12日 英国およびフランスがオーストリアに宣戦布告
23日 日本がドイツに宣戦布告
26日 タンネンベルクの戦い
9月 英仏露のロンドン宣言、マルヌの戦い(①)
11月2~5日 露英仏がトルコに宣戦布告
7日 日本軍が青島を占領
12月 クリスマス休戦(②)

1915年
1月18日 日本が「対華二十一ヵ条要求」提出
2月 ガリポリの戦い(③)
5月7日 ルシタニア号事件:米国参戦の一因に
23日 イタリアがオーストリアに宣戦布告
10月14日 ブルガリアがセルビアに宣戦布告
24日 マクマホン書簡(⑤)

1916年
1月 英国が徴兵制を実施(④)
2月 ヴェルダンの戦い(独軍の攻勢)
5月9日 サイクス・ピコ協定(⑤)
7月~11月 ソンムの戦い(⑥)
10月~12月 ヴェルダンの戦い(仏軍の攻勢)

1917年
4月6日 米国がドイツに宣戦布告
11月2日 バルフォア宣言(⑤)
7日 ソビエト政権成立

1918年
11月9日 ベルリン革命:ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツの共和制が宣言される。
11日 終戦:連合軍とドイツの休戦協定成立

1919年
6月28日 ベルサイユ条約