カギを握る中立国ベルギー

外相を務めたエドワード・グレイ。英国の名誉を重んじる心に訴えかけ、国内を参戦へとまとめたが、開戦を前に「ヨーロッパ中の灯りが消えようとしている。生きているうちにまた灯りがともるのを見ることはできそうもない…」と暗鬱な気持ちを口にしたという。  英国参戦への決定打となったのが、同国の中立を望んだドイツが練ってきた軍事計画にあるのは皮肉な話である。英国決断のときへと話を進める前に、その軍事計画について触れておきたい。
露仏同盟が結ばれて以降、戦いとなった場合、ドイツはフランス、ロシアの両国から挟み撃ちにあうことは明らかだった。その対抗策として、ドイツではある作戦が練られてきた。シュリーフェン・プランと呼ばれるこの作戦は、戦争期間を6週間と想定した次のようなもの。
①軍隊の大部分をフランス国境側に、残りの少数をロシア国境側に配置。②短期戦でフランスを撃破した後、ロシアへと向かう。③ロシア到着までは、少数の部隊でロシアを食い止める。
こうした考えの背景には、ロシアは国土が広く、鉄道の発達も十分でなかったことから、総動員令がかかったとしても、戦闘に入るまでには時間が掛かると読まれていたことが挙げられる。この計画において必須となるのは、短期でフランス、パリを落とすこと。そのためのルートとしてドイツが選んだ道が、ベルギー『通過』である。当然、『通過』が侵略なくしてありえないことは誰にでも予想できることだった。勝利をつかむべく練られたこの計画は、ドイツ人による立案らしい、周到、緻密なもので、なかでも兵士や補給物資の移動計画にいたっては、1万1000本もの列車が指定された駅を10分おきに出発するという細かい時刻表が完成していた。
ところが問題は、当時のベルギーが中立国だったことだ。かねてより領土争いの対象となっていたベルギーは、英国にとってもヨーロッパへの玄関口のひとつとして本土防衛のための重要な場所。交渉巧みな英国は、1839年、ベルギーを欲した他国を出し抜き、同国を永世中立国として保証する国際条約を成立させた。これは、ロシア、フランス、ドイツ、イタリアも批准していた。にもかかわらず、ドイツは軍事的な必要性からベルギーを通過する作戦を用いた。そしてベルギーに虚偽の口実を用いた内容で最後通牒を突きつけた。それは、ベルギーが拒否しようがしまいが、ドイツに占領されてしまうシナリオの序幕として用意されたものだった。ところが、ベルギーは名誉にかけて国土を守り抜く決意をし、それはドイツにとってまたもや想定外のこととなる。
余談だが、計画実行を目前に控え、英国への中立打診を画策していたヴィルヘルム2世は、計画の中止を軍に提案している。これに対し、15年以上かけて用意した『完璧』な計画が一瞬にして崩れ落ちる可能性を目の当たりにした軍参謀は、「一度決定されたことは、変更してはなりません」と、断固として拒否。ドイツは『変更できない』戦争計画に操られるようにして戦いに身を投じていったといえるだろう。

 

100周年記念イベント目白押し

© London Transport Museum @ Transport for London  英国では「Great War」とも呼ばれる第一次世界大戦。100年を記念し、ナショナル・ポートレート・ギャラリーでは、現在、「The Great War in Portraits」を開催中(6月15日まで。無料)。絵画や写真、映像を通して、戦争に参加した人々の横顔に迫る内容となっている。
またロンドン交通博物館では、これまで語られることのなかった国内戦線の秘話をテーマにしたエキシビション「Goodbye Piccadilly: From Home Front to Western Front」=写真=を開催(2015年3月8日まで。15ポンド)。前線で戦う兵士だけでなく、交戦諸国は銃後の国民を総動員し、史上初の総力戦となった同大戦下のロンドンで、『裏方』として関わった交通機関と、国民、生活の変化などついて紹介する。西部戦線で使われたバス、男性に代わってバスの車掌や整備工として働いた女性のユニフォーム、兵士を募る『求人』広告などが展示されている。
さらに、帝国戦争博物館では7月19日より「Truth and Memory: British Art of the First World War」と題し、前線を描いたアート作品を通して大戦を振り返る(2015年3月8日まで。無料)。同時に「First World War Galleries」が館内にオープンし、軍の制服や武器のほか、写真やラブ・レターなどが展示され、戦時下における人々の生活に迫る(無料)。

 

戦争へのカウントダウン

 ベルギーが国を守る覚悟を決めた頃、英国の腹はまだ決まっていなかった。いよいよ戦争へと追い立てられたのは、8月2日の夜、「ドイツがベルギーに侵攻しようとしている」という内容の、発信者不明の電報が英外相エドワード・グレイの元に届けられてからのことだった。それが確かな情報であることは、外交的な勘からすぐにわかった。ベルギー中立が侵されるのであれば、英国は立ち上がらなければならない。しかし、ヨーロッパで唯一、徴兵制を設けていなかった英国にとって、国内が2分された状態では『中途半端に』戦うことになり、それは命取りにもなりかねなかった。あとは、国内をひとつにまとめることである。この仕事が外相グレイに託された。
バンク・ホリデーだった3日は、英国らしからぬ快晴の夏日だった。朝から閣僚会議では議論に議論が重ねられ、それでも結論には至らなかった。午後3時、下院において外相グレイによる公式な声明が発表されることになる。この声明が国の命運を左右することは、グレイには痛いほどわかっていた。
1時間半に及んだ演説で、ロシアやフランスに対し『名誉を守る義務』があること、ベルギーを守る義務などが述べられ、これらを回避すれば「彼岸の西欧諸国が一国の制圧下に置かれることを防ぐことはできない。…そして英国は全世界を前にして、わが国に対する敬意とその名声と信望を放棄しなければならない」と語ったグレイ。英国の名誉を重んじる心に訴えかけたこの演説は、多くの反対派の心を動かし、英国は参戦へとまとまっていった。
翌4日、英国はドイツに対し、ベルギーの中立を守るよう最後通牒を通達。回答期限の午後11時が静かに過ぎたとき、英国はいよいよ参戦国に名を連ねた。
こうしてヨーロッパを舞台にドイツ、オーストリアなどの同盟国(Central Powers)と、対するロシア、フランス、英国を中心とした連合国(Allied / Entente Powers)に分かれ、戦いが始まることとなった。
翌5日、ドイツはベルギーのリエージュを砲撃。大戦における最初の戦闘の火蓋が切って落とされた。

 


独軍の戦いの肝であったシュリーフェン・プランは
開戦からわずか1ヵ月のうちにつまずき、以降、塹壕戦=写真=となった。