ロシアのプライド、ドイツの賭け

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世。ヴィクトリア英女王の最年長の孫で、当時の英国王ジョージ5世はいとこにあたる。  バルカンをめぐる騒動に、次に身を投じたのは帝政ロシアであった。
かねてよりセルビアを支持していたものの、1908年にボスニア地方をオーストリアに横取りされていたロシアにとって、国威をかけたリベンジである。しかも南進を目論むロシアにとって、オーストリアがバルカンで勢力を広げるのはなんとしても阻止すべきこと。植民地争奪戦の時代にあっては『当然』の考えから、半ば反射神経にもとづく対応ともいえる素早さでロシアはオーストリア国境へ向け動員を決めた。決定の裏には、専制主義に不満を抱く分子たちによる不穏な国内情勢を受け、注意を国外へと向けさせる意図もあった。政治の常套手段である。
30日、オーストリア、ロシアの両国は総動員令を発令した。
これに続いたのは、勢いを増していたドイツである。
同国が、オーストリアにセルビアと戦争をするようけしかけたのは勝算あってのこと。戦いが局地戦で終わるにこしたことはないが、たとえロシア、そしてフランスが参戦することになったとしても、軍事力で勝ると自負していた。あるいは先手を打つ兆しさえも見られた。
そうとは言っても、専制政治を行うヴィルヘルム2世とて全面戦争を望んではいなかった。世界での地位をより確固たるものにしたい同皇帝は、武器を取らずして威嚇し、成し遂げるつもりだった。
ドイツは31日、ロシアが総動員を始めたことを知ると、大きな賭けに出る。強気な脅しこそがロシアには効果的だと踏み、同国に対し総動員を中止し、それを明確にドイツに示すよう最後通牒を伝達した。
事を荒立てたくないロシア皇帝ニコライ2世は、ドイツとの戦いを避けるべく、親戚関係にあったヴィルヘルム2世と親電を交わしたが、もはや個人外交の果たす役割など塵に等しかった。
ドイツの賭けは裏目に出る。ロシアからの回答が得られないままに回答期限が切れ、8月1日、ドイツはロシアに対し宣戦布告を出さざるを得なくなってしまった。
ヴィルヘルム2世の大きな誤算はもうひとつあった。残る強国である英国は中立を守るだろうと楽観視していたことだ。大戦が終わりに近づいた頃、同皇帝は「英国が参戦すると誰かが事前に教えてくれていれば…」ともらしたとされるが、後の祭りだった。また、ドイツがロシアに対し宣戦布告を行う直前に、英国参戦の可能性があると知ったドイツは、急いでオーストリアに対ロシア交渉を薦めたが、ときすでに遅く、ロシアの総動員を止めることはできなかったのである。
こうして一国また一国と戦争にずるずると飲み込まれ戦いの規模は膨らんでいった。

参戦か、中立か  思惑が交錯する8月1日

 ヨーロッパの雲行きが怪しくなってきた頃、英国は揺れていた。
協商を結ぶフランスは、ロシアとの同盟関係から参戦するかどうかの瀬戸際に立たされており、万が一参戦となった場合には英国の支持を得られるよう、必死の外交を繰り広げていた。英仏協商には軍事的取り決めはなかったものの、ドイツの勢いは無視できず、参戦をめぐって英国内は2つに割れていた。フランスとの協商関係を支持し参戦するか、あるいは中立を選ぶか…。
首相を務めたハーバート・アスキス、外務大臣エドワード・グレイ、海軍大臣ウィンストン・チャーチルに代表される帝国主義の信奉者らにとっては、ドイツをヨーロッパの覇者として君臨させるような事態は何があっても容認できない一大事。これら参戦派に対し残りの閣僚は、英国が国際問題に首を突っ込むよりもまず、国内問題(当時、英国が抱えていた最大の悩みのタネはアイルランド自治問題)に集中すべきとの考えを示していた。8月1日の時点では、18人の閣僚中、12人が参戦に反対。国民の中でもその声は強かった。
オーストリアの対セルビア宣戦布告以降、ニューヨークでは金融パニックが起き、英国のシティにも混乱をもたらしたことから、銀行家らは英国の戦争介入に強く反対。また、多くの国民の間では、今回の騒動は長年続くドイツとフランスとの確執によるものだから巻き込まれるべきではないとの認識が強く、それよりもアイルランド自治問題解決が先決との見方を持っていた。
揺れる英国の態度は、ドイツをやきもきさせた。後に触れるが、ドイツの軍事計画は一刻を争うもので、実行を先延ばしすることは、計画の頓挫を招くどころか国の将来を左右する可能性もあり、ドイツはこの計画の実行を急き立てられていたのだ。だが、万が一英国参戦となればドイツにとって不利なのは自明の理。駐英ドイツ大使による英外相との折衝は最後の最後まで続いた。
フランスはというと、ロシアとの戦いが確定したドイツから、中立を守ってほしいとの要請を受けていた。しかし、ドイツの対ロシア宣戦布告を受け、フランスは逆らうことのできない大きなうねりに飲み込まれるようにしてロシア側での参戦を決意。1日、総動員を開始した。
話は少しそれるが、同日午後4時にフランスの総動員令が発せられたとき、パリのあちこちのレストランでは、国歌『ラ・マルセイエーズ』が演奏された。そして英国参戦の希望を込め、英国歌『ゴッド・セイブ・ザ・キング』が続いた。これにはその場にいた英国民は気まずい思いをしたという。英国の未来はまだ保留のままだったからである。

 

「成金」出現!
大戦景気に沸いた日本

暗い中で靴を探す女中のために、灯りの代わりとして百円札を燃やす成金を描いた風刺画(和田邦坊・画)。 日英同盟を理由に、連合国側として参戦した日本。対外進出を狙っていた日本にとって、中国の一部を租借していたドイツが、英国(連合国)と戦いを始めたのは『千載一遇』のチャンスととらえられ、1914年8月にドイツに宣戦布告。日独戦争は中国の山東半島で繰り広げられ、11月には日本軍は、アジアにおけるドイツの拠点、青島を占拠した。その頃には、太平洋の島々も占領し、いち早く勝利を手にした。
また、大戦前は不況にあえいでいた日本だが、次第に戦需による輸出が増加。戦後は好景気に沸いた。紡績業、造船業、海運業が勢いをつけ、「船成金」「鉄成金」などの言葉も生まれるほどに巨利を得る者が登場。現代の日本経済の基礎が固められた。