向こう見ずのセルビア制裁

 そのような中で起こったのがサラエボ事件である。
スラブ系を含む多民族国家のオーストリアは、民族運動の高揚が自国におよび、統治が乱されることを危惧。そのため、『黒幕』探しに躍起になっていた。スラブ主義を掲げる隣国セルビアが、国家主導の下で行ったのではないか―。そう思い込んだオーストリアは、7月23日セルビアに対し制裁を加えるべく、最後通牒をつきつけた。暗殺事件について、セルビア国内での捜査にオーストリアが参加することなどを要求する内容を含む10ヵ条。独立国に対して厳しすぎるそれには、全面許諾でなければ拒否とみなす条件も付け加えられた。
オーストリアがここまで強硬姿勢を取った背景には、ドイツがオーストリアに対し「もしもセルビアに制裁を加え、ロシアとの間に紛争が起きた場合は、ドイツが支援する」という保証を与えたことがある。むしろ好戦的な頼もしいドイツの後ろ盾に、オーストリアはセルビア進出を夢見たのだ。
しかし、オーストリアが懸念していた民族問題は、わざわざ軍事力を行使せずとも政策により打開できたかもしれず、また、戦いとなれば、ロシア、フランスが参戦してくることは十分予測された。
最後通牒の回答期限を迎える直前、セルビアは『大部分』を受諾する内容で返答する。だが、『大部分』では満足できないオーストリアは受け取りを拒否し、7月28日、セルビアに対し宣戦を布告。浅はかにもセルビアと一戦を交える決定を下した。

 

観光地としての人気、じわじわ
サラエボ Sarajevo

サラエボ事件の事件現場近くにあるラテン橋。
© Julian Nitzsche
 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(サライェボと書くほうが英語の発音により近い)。第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件以外にも、世界史にたびたび登場する。今からちょうど30年前の1984年に冬季オリンピックが開催されたが、ユーゴスラビア崩壊の影響から、旧ユーゴ国だったボスニア・ヘルツェゴビナでは独立をめぐり1992年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発。およそ4年にわたりセルビア人勢力によって街が包囲され(サラエボ包囲)、多くの市民が命を落とした。
現在は紛争からの復興が進み、同じくバルカン半島にある世界遺産ドブロブニクと比べると観光地としての人気は劣るものの、近年は欧米からの旅行者が訪れるようにもなっている。
郊外では、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響で崩壊した建物跡が目に付く。  街を歩くと、トルコ支配の面影を残す旧市街や、オーストリアの影響を受けた建造物、ユーゴ時代の名残をとどめる住居が建ち並び、重層的な文化の側面が伺える。また紛争による銃弾の跡が各所に残り、街を散策するだけでも、宗教、民族問題が絡む複雑な歴史を感じることができる。
サラエボ事件の現場近くのラテン橋=写真左=は、ユーゴ時代には「プリンツィプ橋」と呼ばれた。オーストリア大公を暗殺したガブリロ・プリンツィプを、『自由の闘志』として英雄視してのことだ。かつては暗殺現場にはプリンツィプの足跡をかたどった記念碑が掲げられていた。また小さな博物館もあったが、サラエボ包囲の際の砲撃と、サラエボ内にいたボスニア人による破壊活動のため失われた。現在、彼を『ヒーロー』とする声と『犯罪者』とする声があり賛否は様々だが、同地には、プリンツィプへの評価とは関係なく、『サラエボの歴史を記す』目的で記念碑と博物館が設けられている。この様子に、発展するサラエボの今を垣間見ることができる。