ヨーロッパを2分する帝国主義勢力

 


ドイツ、オーストリアと同盟を結んでいたイタリアは、開戦当初に中立を宣言し、後に敵側(連合国)で参戦した。

 

 それにしても、後に繰り広げられる歴史を知る私たちにとって、世界大戦へと発展するきっかけになるには『ささいな』事件だったとも感じられないだろうか。たとえば、植民地で宗主国の次期トップが殺害されたとて、それが世界規模の戦争につながるとは考えづらい。ところが、暗殺事件からおよそ1ヵ月のうちに事態は激変。ヨーロッパ全体を飲み込む奔流となって流れ始める。その間に何が起こったのかを探る前に、まずはここから40年ほど前にさかのぼってみたい。
ヨーロッパでは、プロイセン王国が普仏戦争(1870~71年)でフランスを倒してドイツ帝国の建国に成功し、強国としての地位を固めていた。当時の宰相ビスマルクは、復讐に出ることが予想されるフランスを孤立させるため、ロシア、オーストリアなど列強と同盟関係を締結。その一環で1882年にドイツ、オーストリア、イタリアによる軍事同盟が結ばれていた(独墺伊三国同盟)。これと並行し、ビスマルクの政策により、経済力そして工業力を高めると、ドイツはフランスを抜いて、英国に次ぐ世界2位の経済大国へとのし上がるまでになっていた。
ドイツ建国の立役者として、宰相の座についたオットー・フォン・ビスマルク。  勢いづくドイツだったが、1890年に転換期を迎える。前々年、ドイツ皇帝に即位したヴィルヘルム2世との意見の対立からビスマルクがその座を引退。同皇帝は植民地獲得へ向けて動き出し、帝国主義全盛の舞台に遅ればせながら参入した。これにより、バルカン半島をめぐってロシアとの関係にひびが入ることとなる。
その頃のロシアは、現在のウクライナ、ポーランドなどの一部を含む、ユーラシア大陸の北部を広域にわたって支配していた強国。この広い国土で交通網を充実させるための外資を必要としており、またドイツをけん制する目的からも、新たな同盟先としてフランスに接近した。ヨーロッパでの孤立から脱したいフランスにとっても好都合であることは明白だった。そして1894年に独墺伊三国同盟で結ばれた国々を仮想敵国とした軍事同盟が誕生した(露仏同盟)。
一方、産業革命を一番乗りで果たし、積極的な植民地政策の結果、多くの領土を従えて繁栄を享受していたのは英国である。その外交スタイルは、『栄光ある孤立』と称され、非同盟主義を貫いていたが、変更を余儀なくされる。北アフリカ、中央アジアをめぐりフランス、ロシアとの対立が起こり始め、さらに皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツも植民地獲得に乗り出したからである。
まずは東アジアに手を広げていたロシアをけん制する目的で日本と軍事同盟(1902年、日英同盟)を結ぶかたわら、北アフリカをめぐって確執を深めていたフランスとは協調の道を選び、英仏協商(1904年)を結んだ。また対外進出を活発化させたドイツとの対立が深まると、日露戦争の敗北によって東アジアから後退していたロシアと、中央アジアをめぐる問題で妥協し、協商関係(1907年、英露協商)が結ばれた。
こうしてドイツ、オーストリア、イタリアの同盟国に対抗して、ロシア、フランス、英国という協商条約でつながった勢力が地図上に浮かび上がり、ヨーロッパは大まかに2色に色分けされることになった。
1870年の普仏戦争以降、バルカン戦争(1912~13年)などを除いては、ヨーロッパは比較的平穏な年が続いていた。もはや国と国とが武器を取り合って戦うなどありえないと豪語するジャーナリストや有識者なども見られた。列強は、同盟、協商関係を結んでいたし、財政、経済の面でも互いに依存し合っていたからである。万が一、戦争となった場合の互いの不利益を考えれば、『国力の消費戦』など避けたいものだった。もちろん列強が植民地をめぐって互いに睨みをきかせ、警戒し合っている状況下で、軍事専門家の中には大戦を予想する者がいたのも事実だ。それでもヨーロッパはしばらく戦争から遠ざかっていた。