[1948年] 大戦の後遺症と復興の兆しを同時に示した大会
食糧持ち込みでの参加を要請
1940年、44年と第二次世界大戦のために中止となったオリンピックが12年ぶりに開催されたのがロンドンだった。もともと1944年の開催地として決定していたこともあるが、ロンドンは終戦直後の1945年に改めて開催地として立候補したのだ。ほかの立候補地としてスイスのローザンヌ、そして米国からはバルティモア、ミネアポリス、ロサンゼルス、フィラデルフィアが名乗りを挙げていた。
開催地が決まったとき、驚いた人は少なくなかった。候補地の中で最も大戦の被害を受け、修復も遅々として進んでいないロンドンの街が、再び開催地として選出されたのだ。ロンドンが掲げたテーマは英国、そして欧州の復興であった。このような時期だからこそ、オリンピック開催が、疲れて傷ついた人々の精神を鼓舞し、欧州の復興を後押しするのだ、というものだった。こうしてロンドンはオリンピック開催地として2度目の栄に浴することになった。
しかし、戦争直後の食糧難で、住む場所すら失った国民が珍しくないという時期に、新たなスタジアムを建設するのは無謀である。幸い1923年に博覧会のために建築されたエンパイア・スタジアム(現在のウェンブリー・スタジアム)が戦火を逃れていたため、メイン会場をウェンブリーに置き、あとは破壊されていない公共の建物を一時的に利用するスタイルとした。
オリンピック村などもなく、男子選手はオックスフォードやケンブリッジ、およびリッチモンドの兵舎、女子選手はロンドン内にあるカレッジの寮が宿舎となった。また、総勢4000人を超える選手たちに栄養のある食事を提供することが不可能なため、食料は選手自身による持ち込みを原則とし、不足分のみを英国の病院が負担することとなった。
かつての大英帝国の栄光からすると、目を覆うばかりの凋落ぶりである。しかし、ネガティブな事柄ばかりではなかった。初めてパラリンピック大会(The Stoke Mandeville Games)が開催されたのである。正確には、パラリンピックの原型となった記念の大会というべきで、具体的には、大戦で負傷した元兵士たちのために開かれた、車椅子に乗った選手によるアーチェリー競技会であった。ちなみにこのアーチェリー大会は以後、単独で毎年開催され、現在も「IWAS世界選手権」という名称で続いている。
| マラソンが42.195キロになったワケ | |
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初期オリンピック大会では、厳密な距離が決められていた訳ではなく、「だいたい」40キロ(25マイル)位というのが目安だった。だが、1908年の大会では、メアリー皇太子妃=写真はメアリーが王妃になってからのもの=から「ウィンザー城にある子供部屋の前の中庭を出発地点としてくれないか」というリクエストが出た。そうすれば子供たちがマラソンのスタートを見ることができるから、というのだ。そのためシェパーズ・ブッシュの競技場まで、コースは通常より約2キロ延長されることになった。さらに、これに385ヤードという半端な数字が加えられ、最終的に42.195キロという距離になった。この385ヤード(約350メートル)は、競技場入口から国王夫妻の貴賓席の前までの距離だった。国王がランナーたちのゴールの瞬間を目の前で見られるようにという配慮である。こうしたことから選手たちはいつもより長い距離を走ることになり、勘の狂ったピエトリ選手(本文参照)は、ちょうど40キロの地点でスタミナ切れになってしまったとする説もある。つまり、ピエトリ選手が金メダルを取れなかったのは国王一家のせいとも言える? |
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