しかし、米国はそれでは腹のむしがおさまらない。
入場行進の際に米国旗を持つラルフ・ローズ選手はこれを不服として、貴賓席の前を通過する時、英国王夫妻に敬意を表して本来なら旗を下げるべきところ、このしきたりに従うことを拒否した。彼はアイルランド系米国人であり、そのため英王室への反抗心は2倍持ち合わせていたとも言われている。
また、400メートル走でも問題が起きた。デズバラ卿チームはほとんどの競技のルールを整えたはずながら、100%完璧とはいかなかったらしい。
コーナーで他のランナーを追い越す時は、トラックの外側からでなければいけない、というルールは現在では定着しているが、当時の米国にはないものだった。結果、決勝で英国のウィンダム・ハルズウェル選手は後ろから来た米選手に内側から入り込まれたあげく、わざとひじをぶつけられて(このような妨害も米国のルールではOKだった)後退を余儀なくされるという事態が起き、審判員たちの判断で再試合が行われることになった。
ところがトップでゴールに入った米国選手はこの判断に反発、決勝に出場した他の2人の米選手とともに再試合をボイコット。もともと決勝の出場選手は4人しかいなかったため、ハルズウェル選手はたった1人で400メートルを再走しなければならなかった。競争者がいないので当然メダルはもらえたが、ひどく落ち込んだ彼は、この後一切、競技大会には出場しなかったという。
悲劇のヒーローを生んだマラソン競技
この年のオリンピックは4月27日から10月31日までという、なんとも驚くべき長期間にわたり行われたが、マラソン競技は7月24日の暑いさなかに開催された。
出場者は55人だが、高温のため、早いうちから脱落者が続出する。スロー・スタートながら、次第にピッチを上げて後半一気にトップに躍り出たのはイタリアのドランド・ピエトリ。黒髪の小柄な青年で、パン屋の見習いだったという。彼は順調に飛ばし、2位との差は圧倒的で、誰の目にも優勝は確実と見えた。が、意外なドラマが起こる。ゴールまであと2キロという地点で、体力を使い果たしてしまったのか、暑さにやられたのか、ピエトリ選手は失神してしまう。その後も起きては倒れを繰り返しつつ、それでも首位を保ったまま何とか競技場まで辿り着く。競技場に入ってきたその姿はまるで病人で、ゴールとは違う方向へ向かおうとして係員に誘導されている。

1908年のロンドン大会の会場となった、ホワイト・シティ・スタジアム(現存せず)。
350メートルの距離を進むのに10分もかかるほどフラフラのピエトリ選手を、観衆は固唾を呑んで見守っていたが、やがてそれが悲鳴に変わった。スタジアムに2位の選手が到着したのだ。確かな足取りで競技場内に入ってきたのは、米国のジョニー・ヘイズ選手だった。そんな中で、ピエトリ選手はまた気絶しそうである。7万5000人の観客たちは「早く!」とばかりにピエトリ選手を大歓声で応援し、係員たちはもはや選手を取り囲む形で、倒れたら手を貸そうと待ち構えている。最後はほとんど係員に両肩を支えられるような形で、ピエトリ選手はやっとテープを切ったのだった。
米国のヘイズ選手にしてみれば、係員の助けを借りてのゴールなど、勝利と認めることは出来ない。ヘイズ選手のクレームが認められ、ピエトリ選手は失格となってしまった。だが、金メダルはもらえなかったものの、ピエトリ選手は一躍英国の人気者となる。選手の健闘を称える歌まで出来て、国王夫妻も彼に特別賞を与えている。優勝したのが米国選手でなければ、ピエトリ選手はここまでヒーロー扱いされなかったのでは、と考えるのはいきすぎだろうか。結果的に、英国が金メダルを56個獲得、2位の米国は23個にとどまり、一応、英国の勝利となった1908年のロンドン五輪だが、ここにも、英国の米国嫌いが見え隠れしているように思える。
このような様々なエピソードを生みだしたスタジアムは、のちにホワイト・シティ・スタジアムと呼ばれ、1985年に解体されるまで競技場、コンサート会場などとして利用された。その後、この跡地には「放送センター」が建てられ、今年の春までBBCの本拠地となっていたことはご存知の通りである。

ドランド・ピエトリ選手の悲劇のドラマをえがいたイラスト画(作者不詳)。


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