デズバラ卿はロンドン五輪開催を実現させるべく、早速、時の国王であるエドワード7世のもとへ向かい、開催の承諾を得る。国王を納得させたデズバラ卿の五輪青写真とは以下のようなものだった。
 1908年はロンドンで英仏博覧会が開かれることが予定されており、開催地となるロンドン西部のシェパーズ・ブッシュでは、博覧会のためのスタジアム建設計画が進行中だった。この博覧会のスポーツ部門総監督という役も担っていたデズバラ卿は、このスタジアムに目をつけた。丸ごとオリンピックにも使えないかと考えたのだ。
 彼は博覧会の計画委員会を説得し、スタジアムをオリンピックの平均観客収容数とされる6万6000人規模にまで拡大すること、しかもその費用は博覧会側が負担することに合意させただけでなく、博覧会側から2000ポンドのオリンピック向け費用まで捻出させることに成功している。
 また、マスコミにも働きかけ国民からの寄付を募った。歴史の浅い近代オリンピックは、この頃はまだ国単位で競い合うものという感覚がなく、政府からの支援もなかったのである。
 デズバラ卿は、「たった2年足らずの準備でと、皆が驚くような立派なオリンピックを実現させよう。さすが英国だからできたことだと、世界に認めさせよう」という、英国民のプライドや愛国心に訴えるスピーチを各所で139回も行った。さらに、自分自身でスタジアムを再設計。オリンピック開催のために、それこそ昼夜も問わず奔走し、心血を注ぐ彼の熱心な姿には誰もが感銘を受けたようだ。その結果、英国中から必要経費を上回る寄付金が殺到し、デズバラ卿は遂には新聞を通して、「もうこれ以上送っていただかなくても大丈夫です」という通知を出した程だったという。
 こうした経緯でできあがった楕円形のスタジアムは当時としては画期的なスタイルの競技場だった。全ての競技は中央のトラック・エリアで行われるようになっており、ダイビング用の屋外プールまで併設された。観客席の下部には各国ごとの控え室が設置されたのも特徴。また、デズバラ卿とチームは効率よく競技を進めるため、23の競技に新たなルールを設けるほか、参加22ヵ国の言語にそれらを翻訳するという労もとった。さらに、これまでは個人参加が主流だったのを国単位に変更し、開催式の際に選手たちが各国旗のもとに入場行進するという方式も、このオリンピックで初めて採用された。

 

弟分からの挑戦

 近代オリンピックの提唱者ピエール・ド・クーベルタン男爵は、オリンピックを「アマチュアのための平和の祭典」とし、参加者が同一の条件のもとに全力で競い合う、フェアな精神の重要性を説いていた。だが、スポーツも、国単位で競う時、そこに戦争にも似た勝敗重視の感情が入り込んでしまうのは、仕方がないことではないだろうか。
 1900年初期、米国は著しい躍進を見せていた。国力が増し、経済力では既に英国を凌駕しようとしていた。だが欧州からみればまだまだ幼稚な新興国でしかなく、特に英国は米国の台頭を苦々しく感じていた。
 米国も、英国の人をバカにしたような態度には我慢ならず、このオリンピックでは英国よりも多くのメダルを取ることを目標に、スポーツ・インストラクターや医師、栄養士などの専門家を含む、本格的なチーム編成で臨んでいた。
 一方、その当時の英国ではまだまだ旧式の思考が根強く、スポーツは貴族など上流階級のものであり、勝敗に『ガツガツ』するのは見苦しいことと考えられていた。「勝つ時はモデスト(謙虚)に、負ける時はサッパリと潔く」という、非常に紳士的な態度である。この精神が近代オリンピックのメダル獲得に結びつくかどうかを、英国は証明せねばならない立場にあった。そして、答えは間もなく出ようとしていた。
 勝つことに全力を尽くす、それこそスポーツマン精神だと考える米国とは、そもそもの立脚点が異なっているのだ。この二国の相違と対立が大きくクローズ・アップされたのが、この年のロンドン五輪であった。


デズバラ男爵ウィリアム・グレンフェル(1855~1945)。
1908年のロンドン五輪はこの人物なしには実現しなかった。

 開会式からして、波乱含みのスタートだった。競技場に掲揚される各参加国の国旗のうち、米国の星条旗がないのだ。米国が独立戦争の末に英国からひとりだちして、130年そこそこ。米国に対して、「植民地あがり」と低く見る風潮がまだまだ英国では一般的で、星条旗が掲揚されなかったのも、単なる『ミス』ではなかったのかもしれない。