近代のオリンピックは1896年に始められた。戦いや争いすらも一時休戦させて行われた「スポーツで競う平和の祭典」という古代ギリシャの伝説的行事に感銘を受けたフランスの教育者、クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(Pierre de Frdy, Baron de Coubertin 1863~1937)の提唱によるものだ。同男爵は、英国のパブリック・スクール(私立校)の信奉者で、フランスが英国に戦争で勝てないのは、このシステムがフランスにないから、と信じていたというほどの『アングロ・マニア』(英国ファン)だった。

「近代オリンピックの父」と呼ばれる、フランスの教育者、クーベルタン男爵。
自分でプレーするだけでなく審判を務めるほどのラグビー愛好家として知られた。
また、初期のオリンピック大会では芸術競技(絵画・彫刻・文学・建築・音楽)も
種目に含まれていたが、1912年第5回ストックホルム大会の文学部門で見事、
金メダルを獲得(ただし、ペンネームで参加)するなど、
いわば文武両方にたけた人物だった。
初回は古代オリンピック誕生の地であるギリシャの首都アテネが開催地として選ばれ、大会期間は10日間のみではあったものの大成功を収める。だが、初めは選手個人が大会への参加申し込みを行うスタイルで、競技種目によって参加人数やレベルの高さにバラツキがあった。加えて、その頃人気を博していた世界的なイベント、万国博覧会と同時期開催であったことから、2回目(パリ)と3回目(米セントルイス)では、万博の「付属大会」という地位に甘んじることになり、早くもクーベルタンの当初の思想とは異なるエンターテインメントへと変化しつつあった。
そこに登場するのが英国である。
4回目にあたる1908年大会の開催予定地はローマ。ところが、1906年4月6日にイタリア中南部ナポリのヴェスヴィオ山が大噴火を起こす。4月11日までには溶岩流が海の方向に流れ、溶岩流の通過した地域は全て炎の河に飲み込まれ破壊されてしまう。同時に一帯は降りやまぬ火山灰に見舞われ、その重みで家々が倒壊したとの記録さえあった。ナポリの街にも灰が厚く降り積もり、被害は甚大なものとなった。
死者は数百人に留まったものの、数千人におよぶ人々の生活が破綻し、住居が失われた。災害復興と大会準備を同時進行させるのは無理と、イタリアは開催権を放棄してしまった。オリンピック開催まであと18ヵ月という状況だった。
宙に浮いた第4回オリンピック大会は中止になるのか。どんな国がわずか18ヵ月で開催準備を整えられるというのだろうか。

ポンペイを町ごと壊滅させた紀元79年の大噴火の後も、
幾度となく火を噴き、辺り一帯に大きな被害を与えてきたヴェスヴィオ山。
手前にわずかに見えるのはナポリ湾。
[1908年] 英国がまだ世界のリーダーであることを証明した大会
2年足らずで五輪開催を成し遂げた男
困った国際オリンピック委員会(IOC)は、当時欧州で最も経済力のあった英国に開催を打診する。IOCにとって幸いだったのは、時の英国五輪委員長はウィリアム・グレンフェル(William Grenfell)、すなわちデズバラ卿(Lord Desborough)だったことだ。デズバラ卿はフェンシングで銀メダルの腕前を持つだけでなく、ナイアガラの滝つぼで泳ぎアルプス山脈に登るような根っからのスポーツマンで、しかも地方行政に深く携わる実務家。平等を愛する人格者で人当たりもよく、このピンチを救うにはまさにうってつけの人物だった。


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