2012年3月1日 No.717

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

ホロコーストを逃れ

英国一の傘会社を築いた男 前編

1946年、ポーランドからの「戦争孤児」を英国に運んだ、スウェーデン籍の船の甲板にて。
一番右上端に写っているのがアーノルド少年(白い円で示してある)。

 

ヒトラーが自決してから約1年後。
ポーランドからの「戦争孤児」120名をロンドンに運ぶ1隻の船がテムズ河に入った。
英国政府が受け入れに合意した彼らには英国籍が約束されていたのだ。
その中に、アーノルドという14歳の少年の姿もあった。
後にフルトン姓を名乗るこの少年は、やがて傘会社を興し、英国王室ご用達の栄に浴するまでになる。
今号と次号にわたり、このアーノルド・フルトン氏の半生を振り返ってみることにしたい。

 

ゲットーからの決死の脱出

 

 「さ、目をつむって」
 プォーヴェシカ夫人は薬棚から包帯を取り出し、優しい微笑をアーノルドに向けた。そして、アーノルドの頭髪と目がすべて隠れるように慎重に包帯を巻き始めた。
 1943年4月のある朝のこと。
 11歳のアーノルド・フルフトは、ポーランド南西部の都市チェルストホヴァで、ナチスのゲシュタポ(国家秘密警察)の支部からすぐ目と鼻の先にあるフラットにいた。プォーヴェシカというポーランド人の夫人とは、その前夜に会ったばかりだった。
 「あなたのこの可愛らしい、ふさふさとした濃い色の髪、そしてそのぱっちりとした大きな目―濃い褐色の哀愁を帯びた目―誰が見てもすぐにユダヤ人だと分かってしまうでしょう」
 夫人は包帯を巻く手を休めずに続けた。
 「でも、大丈夫。私にいい考えがあるから。もし誰かがこの包帯姿を見て『その子、どうしたんですか』と尋ねるようなことがあったら、こう答えることにしましょう。落馬事故にあって頭と目にケガを負った、かわいそうな甥っ子を、おばの私がワルシャワの専門医のところに連れて行くところなのです、と。いいわね?」
 「はい、分かりました」
 暗闇の中でアーノルドはそう答え、この勇敢で親切なプォーヴェシカ夫人にすべてを任せるしかないと改めて自分に言い聞かせた。
 ナチス・ドイツがアーノルドの生まれた国、ポーランドに突然侵攻してから3年半余りがたっていた。アーノルドが家族と住むゲットー(ユダヤ人居住区)は、居住範囲がますます狭められ、食べ物が乏しくなる一方、子供たちを中心に強制収容所へ送る「セレクション」が行われるようになっており、アーノルドの父親も大きな決断を下さざるを得なくなっていたのである。
 アーノルドには6歳上の姉、ソーニャがいたが、そのソーニャは1週間前に同様の手はずで既にゲットーから脱出していた。
 プォーヴェシカ夫人に包帯を巻かれている間、アーノルドは前夜のことを思い出さずにはいられなかった。午後6時ごろ、父ヤクブは彼に向かって静かに告げた。
  「アルシュ、おまえの番だ。今晩、出かけなさい」
 アーノルドは両親や近しい人々から「アルシュ」あるいは「アレック」と呼ばれていた。ヤクブが予め購入しておいたというフラットがワルシャワにあり、このゲットーを密かに脱出して家族でそこに移り住むというのが、ヤクブが立てた大胆な計画だった。
 「お父さんとお母さんもいっしょだよね?」
 「私たちは後で追いかける。3人で動くのは余りに危険なのだよ」
 「いやだ、行きたくない」
 「3週間のしんぼうだ。そうすれば、またみんな勢ぞろいだ。いいね、愛しているよ」
 ゲットーのまわりにはりめぐらされた柵に、小さな穴が開けられた。その穴から這い出て、30ヤード(約27メートル)先にある角まで走る―それがアーノルドに課せられた仕事だった。柵のそばには、ウクライナ人兵士が銃を持って監視に立っているが、「袖の下」が渡されていた。アーノルドが脇を走り抜ける際、ウクライナ人兵士はちらりと視線を投げ、ウインクしたのみだった。
 無事に角までたどりついたアーノルドを出迎えてくれたのがプォーヴェシカ夫人だったのだ。
 世界恐慌のあと、苦しい経済状態の中で、怒りのはけ口をユダヤ人に向ける人が多数派だったとされているポーランドにあっても、同夫人のように、ユダヤ人を救うために文字通り命懸けで危ない橋を渡ったポーランド人も少なくなかった。それにしても、身を粉にして働いて、ビジネスを成功させた結果、得たものが妬みやうらみだったというのでは、ユダヤ人にとって不条理としか言いようがないが、ナチスによるホロコースト(大虐殺)は不条理な仕打ちのさいたるものだった。アーノルドの家族を襲ったのも、この不条理な定めだったのである。