2012年2月2日 No.713

●サバイバー●取材・執筆/西村千秋・本誌編集部

 

想定外が生んだ世紀の大惨事

不沈客船タイタニックの悲劇

 

今から100年前となる、1912年4月14日。
当時最大級、不沈の豪華客船として世界中が注目したタイタニック号が、
処女航海において、かつてないほどの人を乗せたまま大西洋の底へと沈んだ。
生還した航海士のひとりは、こう証言している。
「100年に一度あるかないかという異常な事態が、すべてあの稀に見る静かな夜に集中して発生し、
しかもすべてが我々に背を向けたのです」。
数々の偶然と想定を超えた不運が、まるで緻密に計算されたかのように
重なり合って起きたこの悲劇を、 今回は追ってみたい。

 

参考資料
■ダニエル・アレン バトラー 著:不沈 タイタニック―悲劇までの全記録
■高島健著:タイタニックがわかる本
■福知怜著:タイタニック号99の謎―驚くべき真実! 他

 

 

優雅さを追い求めたホワイトスター・ラインの船

 

 「移民の世紀」と言われる19世紀、アメリカは夢と希望の新天地であった。当時のヨーロッパは、貧困や政治的、宗教的迫害など多くの問題を抱えており、生きる希望を求めて、あるいは一攫千金を夢見て、人々は新大陸を目指した。1865年からの30年間にアメリカに渡った移民は、年平均すると、英国から11万9000人、ドイツから10万7000人。その後、ロシア、ポーランド、イタリアからの移民も加わり、北大西洋航路を走る旅客船の需要が高まっていった。各国の船会社は次々と配船に乗り出し、旅客のスピード化と大型化、運賃競争に拍車がかかっていく。やがて北大西洋を最速で横断した船には、「ブルーリボン賞」という栄誉が与えられるようになり、ますますスピード競争が激化していった。
ホワイトスター・ライン社(White Star Line)の社長トーマス・イズメイは、こうした風潮の中でも、スピードと大きさ、豪華さのすべてを求めるのは経済的に高くつきすぎると判断し、贅沢さに重点を置いた船で同社の評判を築き上げた。トーマスの死後、この会社を継いだのが息子のブルース・イズメイ(J.Bruce Ismay、1862~1937年)、後にタイタニック号の生みの親となる人物である。



ホワイトスター・ライン社の社長
ブルース・イズメイ。

 タイタニック号の建造計画が立ち上がったのは1907年。当時、ホワイトスター・ライン社の最大のライバルは英キュナード・ライン社であった。北大西洋上でもっとも速くて豪華な船の建造を目指していたキュナード・ライン社は、2隻の客船ルシタニア号とモレタニア号の航行を成功させていた。イズメイは、これに対抗するにはさらに華やかな3隻の姉妹船が必要だと考え、1908年12月に1隻目となるオリンピック号を、その数ヵ月後に2隻目となるタイタニック号を起工。オリンピック号の進水式が済むと、3隻目のブリタニック号の造船に着手した。
タイタニック号の処女航海は1912年2月に予定されていたが、先に華々しく運航を開始していたオリンピック号が英国海軍のホーク号と接触事故を起こし、ドック入りしたことで遅延が発生。タイタニック号建造にかかわっていた作業員たちが、オリンピック号の修理にかり出され、タイタニック号の作業は一時中断されることになってしまったからだ。翌3月、タイタニック号がようやく完成し、予定より2ヵ月ほど遅れた4月10日が、処女航海への出港日に決まる。
しかし、この少しの遅れが、タイタニック号を悲劇的な終焉へと導く幕開けとなってしまう。北大西洋を横断する船にとって、4月から夏頃は海流に乗って南下した氷山群がニューファンドランド沖に現れる、一年のなかでも一際危険な季節。さらに、この年は過去50年にもなかったほど大量の氷塊群が南下し、北大西洋航路上を漂っていたのだ。



北アイルランドのベルファストで建造中の
オリンピック号(手前)とタイタニック号(奥)。
見えているのは船首部分。