
■ERM(欧州為替相場メカニズム)に参入したことでポンドは次第に過大評価され、実態とかけ離れていった。強いポンドは英国製品の輸出を阻害した。さらにインフレ抑制のため金利が10%に上昇し、モーゲージ(住宅ローン)が払えず、住宅を手放す人が続出した。このような状況下、市場はポンドの売り浴びせを始めた。英国の中央銀行が投機筋に敗北する悪夢のような1日が始まろうとしていた。(文中敬称略)
●サバイバー●取材・執筆/手島 功
激しい攻防戦

1992年9月16日。暗黒の水曜日が幕を開けた。午前6時、すでに多くの為替ディーラーたちがオフィスに集まっていた。英ポンドは前日、ERMが定めた変動幅±2・25%の下限をわずかに超えた。ポンド切り下げが現実味を帯びていた。多額のポンドを抱える銀行や年金機構、企業から一斉にポンド売りの指示が入っていた。午前9時、市場が開くやたちまちポンドは売り一色となった。その中心にいたのはヘッジファンド「クォンタム・ファンド」を率いる投資家ジョージ・ソロスだった。
「英国は景気が悪いくせにポンドが高く評価され過ぎている」と見たソロスは、世界中からポンドを借り集め、大規模な空売りを仕掛けた。ポンドが高いうちに売り、切り下げで安くなった頃にポンドを買い戻し、莫大な利益を得る手法だ。世界の市場がこの動きに乗った。イングランド銀行は大規模な市場介入を行い、ポンドを買い支えた。売り注文の巨大な波が次から次へと押し寄せた。
イングランド銀行はこの日に備えて190億ポンド相当の外貨準備をしていたが、一時間に20億ポンドという猛スピードで投入されて行った。イングランド銀行のエディー・ジョージ副総裁は「これではあっという間に試合が終了してしまう」と息を飲んだ。

この時、首相のジョン・メージャーはヴィクトリア駅近くのアドミラル・ハウスと呼ばれるフラットに居を移していた。ダウニング街の首相官邸が前年2月にIRAから迫撃砲攻撃を受け、補修工事が行われていたためだ。ポンドに対する猛烈な売り攻勢の報告を受けたメージャーはマイケル・ヘーゼルタイン通商庁長官、ダグラス・ハード外相、ケネス・クラーク内務相ら3閣僚を招集した。メージャーは「市場介入だけではもはや無理だ。金利を12%に上げれば投機筋はポンド買いに転じるはずだ」と言い、閣僚らに意見を求めた。3人はこれを支持した。
ゲームセット間近

午前11時2分、利上げが発表された。ポンドの堅調さを示そうとした試みだったが、ソロスは逆にこれを政府の「必死さの表れ」と見て、試合が終了局面に近づいていることを確信した。そしてこれまでに獲得した利益をさらに注ぎ込んでとどめを刺しにかかった。
クラークはアドミラル・ハウスを出、警官が運転する車に乗り込み財務省へと向かった。道すがら警官がミラー越しに「利上げの効果が出ていないようです」と伝えた。ラジオの速報を聞いていたという。半信半疑のままオフィスに戻ったクラークは警官が正しかったことを確認すると慌ててアドミラル・ハウスに取って返した。アドミラル・ハウスの2階ではメージャーが蔵相ラモントと2人きりで話し合っていた。ラモントの考えは「市場介入の即時停止」だった。ところがメージャーは、介入をやめればポンドはたちまち暴落し、英国はERMからの離脱を余儀なくされる。ERM離脱は政権にとって命取りとなるとして介入継続を主張した。

階下に降りたメージャーとラモントは戻って来た3閣僚に2人の考えを伝えた。ハードは「ERMは長い間、我が国にとって経済面、そして外交面の中心的存在だった。可能な限り残留に向けた努力をすべきだ」と主張した。しかしラモントは「利上げしてポンド売りが止まる保証はどこにもない。これ以上の利上げは英国経済にとって致命的となる」として介入の即時停止を呼びかけた。ラモントに同意する者はいなかった。逆に政策金利をさらに3%上げ、最後の勝負に出るという案がまとまった。
午後2時18分。政策金利が15%に引き上げられた。利上げの報が届くとイングランド銀行内には悲鳴にも近いどよめきが巻き起こった。しかし市場は「これは強さではない。弱さだ」と見透かし、ポンド売りは一層加速した。
アドミラル・ハウスの客間ではヘーゼルタインら閣僚たちが紅茶を啜りながら「雪崩収束」の朗報を待っていた。定期的に届けられる現場からの報告にクラークは「市場は、今起きていることを我々よりもリアルタイムで知っているのではないか」と言い、ラジオを探し始めた。言われてみれば真に間の抜けた光景だった。ポンド危機の中心で戦っているはずの閣僚たちが、気づけば自らをリングの外に置いていた。午後3時頃、ドイツが利下げに応じたという噂が独り歩きを始めた。この時、メージャーはドイツのコール首相に電話で利下げを強く迫っていた。コールは曖昧な態度に終始し「折り返す」と言ったまま連絡は途絶えた。用意した外貨準備も底を尽く一歩手前だった。ドイツは国内事情を優先した。万事が休した。メージャーは同僚を集め、「市場介入をやめ、ERMを離脱するしかない」と告げた。
午後4時、遂に市場介入が停止された。イングランド銀行内は一瞬、水を打ったような静寂に包まれた。次の瞬間、ポンドは真っ逆さまに暴落していった。英国の中央銀行が市場に敗北した瞬間だった。
黒の裏は白

それから3時間半、政府は沈黙を続けた。誰もがマスコミの前に出るのを嫌がった。貧乏くじを引かされたのは蔵相ラモントだった。午後7時半、集まったメディアの前に現れたラモントは疲労困憊した表情で「今日は困難で激しい一日でした。巨大な投機的介入があり、ERMが機能しなくなりました。先ほどブリュッセルの金融委員会にERM離脱の意向を伝えました。15%に上げた金利は12%に戻します」とだけ話し、一方的に会見を打ち切った。ラモントの背中に「辞任しないのですか?」と声が掛けられた。ラモントは黙殺し、闇に消えて行った。
翌9月17日、英国は正式にERMから離脱。変動相場制へと移行し、金利も10%に戻された。夕刻、懇意にしていた記者がラモントに呼び出された。ラモントはソファー深くに身を沈め、ワイングラスを傾けていた。記者が「昨日は大変な一日でしたね」と声を掛けると蔵相は「おかげで昨晩はぐっすり眠れた。この一ヵ月、ほとんど眠れていなかったからね。もうポンドの価値を心配しなくていいのだ」と言い安堵の笑みを浮かべた。
ジョージ・ソロスはこのイベントで10億ドル以上の利益を上げたと言われている。英国はこの日以降、ERMやドイツマルクの呪縛を解かれ、独自の金融政策を取り戻した。ポンド安となったことで英国製品の輸出が拡大。ブラックウェンズデー後の3年間、実質GDP成長率は平均3・2%と驚異的な回復を遂げ、失業率も大幅に改善した。金利も下がり、心配していたインフレも抑制された。英国経済は2008年のリーマンショックまで緩やかな回復を続けた。そのため今ではこの日をホワイトウェンズデーと呼ぶ人もいる。ラモントは半年後、静かに内閣を去った。予期せぬ好景気に支えられたメージャーは97年の総選挙で労働党のトニー・ブレアに敗れるまで首相の座にあり続けた。一方EECはこの時の反省から翌1993年以降、ERMの変動制限幅を±2・25%から±15%に拡大した。
読むほどでもないあとがき
イングランド銀行はブラックウェンズデーに190億ポンド前後の資金を投入したと言われていた。ところが2005年に開示された財務省の記録により、この日投入されたのはわずか33億ポンドだったことが判明した。一体これは何を意味しているのか。
ここからはあくまでも筆者個人の妄想であり、読み飛ばしていただいた方が気が楽だ。イングランド銀行は第二次世界大戦後、労働党アトリー内閣が推進した基幹産業国有化の一環として国有化されたが、19世紀半ば以降、事実上ロスチャイルド家が支配してきた民間の中央銀行だ。国有化されたとは言え、ロスチャイルド家の影響が今も色濃く残ると言われる。
一方、大規模なポンドの空売りを仕掛け「イングランド銀行を潰した男」の異名を持つジョージ・ソロス氏もまたハンガリー出身のユダヤ人で一説にはロスチャイルド家の代理人とも言われている。ではブラックウェンズデーとは「代理人が主人相手に起こした謀反」であり、見事代理人が主人を打ち負かしてしまったのだろうか。ところがソロス氏がロスチャイルド家からその後、何らかの制裁を受けたという話は一切聞こえてこない。
ブラックウェンズデーとは大英帝国時代のプライドにしがみついて現実から目を背け、いつまでもポンド切り下げに応じようとしない政治家たちの尻を叩く目的で、ソロス氏とロスチャイルド家が仕掛けたコラボ作品だったのではないか。仮にそうだとしたら市場介入が密かに33億ポンド程度に抑えられていたのも頷ける。思惑通りポンドは下落。あとは適正化したポンドを手土産に英国がERMに復帰。その後みんな仲良く単一通貨ユーロへ、となるはずだった。ところが英国は叩かれた尻がよほど痛かったのかこれ以降ERMへの警戒感を一層と深め、遂に復帰することはなかった。それどころかEUからも離脱してしまった。ロスチャイルド家にとっては大誤算だったのかもしれない。あくまでも筆者個人の根拠軽薄な妄想だとお断りして本稿を終える。 (了)
参考資料BBC「Black Wednesday」/岩見昭三著:ドイツブンデスバンクの「安定政策」/ IG証券「Black Wednesday explained」/ EU MAG:サッチャー元英首相と欧州統合/他多数
週刊ジャーニー No.1216(2021年11月25日)掲載