
■1992年9月16日水曜朝。取引が開始されるや大量の英ポンドが売られ、為替市場は大混乱に陥った。イングランド銀行は大規模な市場介入を行ってポンドを買い支えようとしたが夕刻になって突然買い支えを停止。ポンドはたちまち暴落した。翌17日、英国はERMからの離脱を余儀なくされた。英国の中央銀行が市場に敗北したこの出来事はブラックウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれる。このイベントの前後、ポンドに一体何が起こっていたのか。経済は全く素人の筆者だが、英国史の一コマとして少し背伸びをしつつまとめてみたい。 (文中敬称略)
●サバイバー●取材・執筆/手島 功
内閣分裂
1990年春。サッチャー内閣はヨーロッパ統合に対して懐疑的という点で一致していたが、ERM参加を巡って政府内には不協和音が生じていた。ERM(欧州為替相場メカニズム)とはEUの前身であるEEC加盟国が1979年に導入した各国の為替レートを調整するための機構だ。EECは1999年に単一通貨ユーロをスタートさせるにあたり、その準備期間にユーロの前身となる通貨単位ECUを導入し、各国の為替変動幅を±2・25%の範囲内に抑えるのが原則だった。そのため減価している通貨があれば買い、増価している通貨があれば売るという作業が繰り返され、どうにか各国通貨を±2・25%の範囲内に封じ込めていた。
EECは第一段階としてまずERMを導入し、次いで欧州中央銀行を創設、第3段階として単一通貨ユーロを導入する計画だった。通貨統合に備えてポンドの安定を重視していた蔵相ナイジェル・ローソンや外相ジェフリー・ハウらは不況とインフレに喘いでいた英国を低インフレの優等生、ドイツマルクにリンクさせるのが得策と判断し、87年以降1ポンド=2・95マルクを基準に為替相場をほぼ固定させる政策を行っていた。ところがサッチャーはERMがドイツに有利な上、参加すれば独自の金融政策を講じる裁量を奪われ、有事の際に自由な対抗策が打てなくなることを危惧していた。サッチャーにとってERM参加は金融政策上の主権をドイツ連銀、あるいは欧州中央銀行に差し出すことを意味した。
サッチャーの経済顧問だったアラン・ウォルターズはERMを「half baked(生焼け=未熟、不完全)」と呼び、ポンドが投機攻撃に晒される恐れがあるとしてERM参加に強硬に反対した。ウォルターズとの意見対立が激化した末、ローソンとハウは内閣を去って行った。かつての盟友を次々に失ったサッチャーは孤立を深めていった。
サッチャー退陣
保守党内部が分裂している様相はもはや誰の眼にも明らかとなった。1990年10月3日、辞任したローソンに代わって蔵相となったジョン・メージャーはサッチャーに「あなたにとって、そして経済にとっての救世主となるはずです」とERM参加を促した。メージャーはポンドをドイツマルクにシャドーイング(shadowing=ぴったり後をつけること)させることで投資家を安心させ、インフレを抑制、これによりドイツ式の繁栄が手に入ると信じていた。サッチャーは依然としてERMを忌み嫌っていたが、一方で英国が孤立し、EEC内で主導的役割を果たせなくなることに危機感を抱いていた。サッチャーはERM参加を決断した。この日、運命のいたずらのように東西ドイツが再統合された。メージャーは2年後、自ら推し進めたERMによって追い詰められていくことになる。ブラックウェンズデーへの時限装置が時を刻み始めた。
翌10月4日、サッチャーは閣僚を首相官邸に集め、ERM参加を伝えた。サッチャーはこれで分断されている保守党を一つにまとめ、自身の人気回復にも繋がると期待した。保守党大会3日前のことだった。ERM参加には欧州中央銀行評議会に申し入れをして参加条件を交渉する必要があった。しかしメージャーは評議会議長のカール・オットー・ポールに電話で「英国は変動率±2・25%の条件でERMに参加する」とだけ伝えた。面食らったオットー・ポールは「参加条件は評議会で詰めるのが決まりだ」と反発した。しかしメージャーは「これは首相による決定事項だ」の一言で押し通した。
結果的にERMはサッチャーの救世主とはならなかった。7週間後の11月28日、サッチャーはパリ外遊中の隙をついたかつての盟友たちにより首相の座から引きずり降ろされ、ダウニング街を後にした。替わって首相となったのはジョン・メージャーだった。
ポンドを防衛せよ
ERMへの参加が英国に繁栄をもたらすことはなかった。それどころかメージャーが首相に就任して以降、英国経済は再び不透明感が増し、インフレも深刻なレベルに達した。失業率は10%に迫った。メージャーはポンドの価値を上げることでインフレを抑え込もうとしたがポンドはマルクや他の通貨に対して下落を続けた。やがてEEC各国からポンドの価値を上げるよう圧力がかかり始めた。英国では高金利によりモーゲージ(住宅ローン)が払えなくなり、購入時より安い値段で家を売る人が続出。これ以上の金利引き上げは自殺行為に等しかった。
1992年7月。ドイツがメージャーにさらなる頭痛の種をもたらしていた。東西ドイツ統合にかかるコストが予想していたよりも遥かに多く、物価が上昇し経済成長にも陰りが見え始めていた。第一次大戦後に巻き起こったハイパーインフレの苦い経験から、インフレを極端に恐れるドイツ連銀は金利を段階的に引き上げており、91年初頭に6%だった金利は92年7月半ばには8・75%まで上がっていた。
一方の英国の政策金利は15%から徐々に下げられていたとはいえ92年7月の時点でもまだ10%を維持していた。実質GDP成長率0%台と低調な英国が、統合特需は下火となったとは言え、まだ成長率1・51%をキープしていたドイツよりも金利が高いという捻じれ現象が続いていた。これ以上高金利政策が続けば英国の経済は疲弊し、住宅市場は崩壊する。英国は何としてでもドイツの利上げを阻止しなければならなかった。
一方でドイツ利上げの噂を聞きつけたシティの為替ディーラーたちが英ポンドを売り、ドイツマルクを買う動きに転じ始めた。ポンドはジリジリと下落し始めた。英政府がポンドの切り下げに踏み切るのではないかと言う憶測が広まった。
8月26日、蔵相ノーマン・ラモントは報道陣の前で「切り下げもERM離脱もない。我々はあらゆる手段を講じてポンドを防衛する」とぶち上げ、実際に為替介入を行ってポンドを買い支えていた。ポンドは今でもスターリング・パウンド(sterling pound)と呼ばれる。スターリングとは「信頼できる」「立派な」という意味だ。産業革命を経て「世界の工場」となった英国は19世紀中頃以降、イングランド銀行が発行する紙幣が世界で最も信頼できるというステータスを勝ち取った。その後、基軸通貨の座は米ドルに奪われたがメージャーは「それでもスターリング・パウンドは強くあり続けなければならない」という考えに囚われていた。ラモントはメージャーの無策と固陋さが破滅を招くことを早くから見抜き、本心では全く共感していなかった。執務室では床に唾を吐いて怒鳴り散らし、自分の意思に反したことを言わされる我が身を呪った。
ポンド危機前夜

9月4日。EEC加盟国の蔵相と中央銀行の代表がバース市内にある高級ホテルの会議室に集結した。ラモント蔵相の狙いはただ一つ。ドイツの政策金利を下げて英国を助けるようドイツ連銀を説得することだった。ラモントは他の加盟国が彼を支持することを期待していた。イタリアの状況は深刻で「進展がなければERM離脱もあり得る」と訴えていた。会議は「下げろ」「下げない」の激しい応酬に明け暮れた。ドイツ連銀総裁ヘルムート・シュレジンガーは「これ以上の話し合いは無駄だ。英国がERMに残りたいのであれば金利を上げるか、ポンドの切り下げをするか、そのどちらかしかない。それも早急に」と突き放した。議場には恐ろしいほど険悪な空気が漂っていた。結局何も決まらないまま会議は幕を閉じた。

9月11日、リラが売られ下落した。イタリア政府はリラを買い支えた。ERMのルールに従いドイツ連銀もリラを買った。しかしドイツ連銀はERMの原則に反して買い支えを突然中止した。驚いたアマート伊首相はコール独首相に説明を求めた。コールはシュレジンガーと会い、買い支え中止の理由を尋ねた。シュレジンガーは「これ以上介入すれば共倒れになる」と言い、危機を回避するための代案を提示した。「イタリア、そして英国などが通貨切り下げに応じるのであればドイツは金利を下げる用意がある」。アマートはシュレジンガーの提案を受けると決めた。そしてメージャーに電話を入れ、ポンド切り下げを提案し、「市場は恐らくリラの切り下げだけでは満足しない。必ず次の標的に向かうだろう」と警告した。しかしメージャーはこの期に及んでも強気の姿勢を崩さなかった。
翌9月12日、リラが7%切り下げられた。大量のリラを抱えていた人たちは大きな損失を出し、次はポンドだと予想。ポンド売りが加速した。
9月15日、通貨混乱を収集するためドイツ連銀はわずか0・25%の利下げを行った。同日、シュレジンガーはドイツ最大の経済紙ハンデルスブラットの記者に「リラの切り下げは十分ではなかった。他の通貨を含めた、より包括的な再編成が必要だ」と語り、暗にポンド切り下げを示唆した。ポンド売りの大雪崩を招きかねない一言だった。
記者は直ちにこれを発信した。同日午後6時過ぎ、ポンド炎上の火消し策を話し合っていたラモントや財務顧問の元に朝刊のゲラ刷りが届けられた。一面には「"SABOTAGE BY THE GERMANS"(ドイツの破壊行為)」というタイトルと共にシュレジンガーのインタビュー記事が掲載されていた。
青ざめたラモントは事実に反すると発表するようシュレジンガーに迫った。シュレジンガーはオフレコードだと思っていたと弁明したが、訂正の報が出ることはなかった。9月16日水曜日、英国の中央銀行が投機筋に敗北する、前代未聞のイベントが始まろうとしていた。参考資料BBC「Black Wednesday」/岩見昭三著:ドイツブンデスバンクの「安定政策」/ IG証券「Black Wednesday explained」/ EU MAG:サッチャー元英首相と欧州統合/他多数
週刊ジャーニー No.1215(2021年11月18日)掲載

















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