
11年間のアメリカ留学を終えて帰国した捨松(すてまつ)らを待っていたのは「女に教育は不要」とする古い体質そのままの日本だった。一足先に帰国していた永井繁子は早々に結婚し、瓜生姓となっていた。捨松22歳。姉妹のように育ったアリス・ベーコンに手紙をしたため「二十歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって」と嘆いた。
●サバイバー●取材・執筆/手島 功
■このままではアメリカでの日々が無駄になる。しかし女一人の手で日本を劇的に変えることは難しい。やがて「世の中を変えられる影響力を持つ男の力を借りれば良い」という考えに至った。そんな時、捨松の元に縁談話が舞い込んだ。相手は15年前、会津を攻撃した仇敵、薩摩の大山弥助だった。名を巌(いわお)に改めていた。
大山は結婚し、3人の娘をもうけたが、妻沢子は3女を出産した直後、産褥熱のため23歳の若さで亡くなった。大山を不憫に思い、後妻探しに奔走したのは亡くなった沢子の父だった。
欧米の外交官らと会う際は妻を同行する機会が多く、西洋人と気後れせず堂々と渡り合える女性がよかろうと探すうちに捨松に辿り着いた。アメリカの大学を優秀な成績で卒業し、ダンスも得意という捨松は婿の後妻候補として非の打ちどころがなかった。西洋かぶれの大山も乗り気だった。
ところがこの話を耳にした捨松の長兄浩は顔を真っ赤にし、猛然と反対した。会津に砲弾の雨を降らせた薩摩の男に妹を嫁がせては親戚や故郷の仲間にあわせる顔がない。さらに浩の妻トセは新政府軍が撃ち込んだ焼夷弾によって爆死していた。しかし大山は諦めの悪い男だった。間に西郷隆盛の実弟、従道(じゅうどう)を立てて粘り強く説得した。その執拗さに根負けした浩は、決断を捨松に委ねた。
浩から大山のことを聞かされた捨松は「お会いもせずに判断できません」と言いデートの提案をした。「ガマ(ガエル)」とあだ名された世辞にも美形とは言えない薩摩人が、自分の行く末を切り開く力を持っているかもしれないと感じたのかもしれない。
二人は出会った。ところが11歳で渡米した捨松の日本語は怪しげで、一方の大山も薩摩なまりが強烈でほぼ会話が成立しなかった。そこで大山がフランス語で話しかけてみると驚くほどスムーズに会話が弾んだ。大山もまたジュネーヴに留学しフランス語とドイツ語が堪能だった。薩摩の男と会津の女がフランス語で話しながら東京の街を歩いた。真に奇妙な光景であった。明治16年(1883年)11月8日、二人は結婚した。捨松は参議陸軍卿陸軍中将夫人、大山捨松となった。
ざわつく鹿鳴館

祝言をあげた翌月、落成したばかりの鹿鳴館で盛大な披露宴が催された。鹿鳴館は外務卿だった井上馨が欧化政策の一環として建てた社交施設で、英国人ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920)が設計した。国賓や欧米列強の外交官などを接待するため連日のように夜会や舞踏会が催された。わずか数年前までチョンマゲをつけ、大小の刀を差していた男たちが突然ペンギン服に身を包み、ぎこちなく踊る姿は西洋人の目に滑稽に映った。女性たちも気の利いた会話や、殿方の手をとって踊るといった西洋文化に慣れておらず苦戦を強いられた。各国代表たちは鹿鳴館での様子を陰で「猿真似」と呼んで嘲笑した。
ある晩、ひと際異彩を放つ日本人女性が現れた。捨松だった。ユーモアを交えた英語やフランス語での会話やエレガントな立ち居振る舞いに各国代表は感嘆した。捨松の周りには常に人が集まった。いつしか外国人の間で捨松は「鹿鳴館の花」「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれ、一目置かれる存在となった。ガマガエルも鼻高々だった。
明治17年(1884年)、捨松は華族女学校の設立準備委員に抜擢された。ようやくアメリカで学んだことを活かすチャンスが訪れた。捨松は親友のアリス・ベーコンを教師として招聘。さらに津田梅子にも声をかけ学校設立の準備を進めた。しかし華族女学校は儒教的思想を基盤とした古式ゆかしい教育がモットーとされ、自由と平等を理念とする捨松たちを失望させた。
日本のナイチンゲール

慈善活動にも積極的だった捨松はある日、有志共立東京病院(現東京慈恵会医科大学付属病院)を表敬訪問した。そこには看護師の姿はなく、雑用係の男たちが病人の世話をしていた。捨松は病院長だった高木兼寛(たかき かねひろ)医学博士に看護婦養成校の必要性を説いた。
高木は明治8年から5年間、英国に留学しフローレンス・ナイチンゲールが世界初となる看護学校を創設した、聖トーマス病院(現キングズ・カレッジ・ロンドン)で学んでいた。そのため看護学校の必要性を痛感し、政府に訴えていたが財政難から予算が下りずにいた。
窮状を知った捨松はすぐさま各国外交官夫人や政府高官夫人らに声をかけ、各家庭で不用となっているものを寄付するよう依頼して回った。そして持ち寄られたものを鹿鳴館で販売した。ニューヘイヴンで経験したバザーだった。日本初のチャリティ・バザーが催された。バザーは3日間で1万2千人を集めるほど大盛況となり、売り上げは8000円を超えた。立派な看護学校を建てても釣りが来るほどだった。捨松はその資金を丸ごと高木に渡した。2年後の明治19年、日本初の看護婦学校、有志共立病院看護婦教育所(現慈恵看護専門学校)が設立された。さらに翌年、日本赤十字社の後援団体「日本赤十字篤志看護婦人会」の理事に就任した。

日清、日露戦争が勃発すると、夫の巌が参謀総長や満州軍総司令官として戦地に赴いたため捨松は銃後を守った。日露戦争時には日本赤十字社病院で自ら看護の陣頭指揮をとった。さらに親友のアリスに「働き手を戦争に奪われ、貧困に喘いでいる人が沢山いる」と日本が置かれた悲惨な状況をしたためた手紙を送り続け、アリスがこれらを新聞社に持ち込んだ。捨松の檄文を読んだアメリカ人はこの時、日本陸軍総司令官の妻がヴァッサー大の卒業生だったことを知り、多くが親日に傾いたとされる。多額の義援金が集まり、捨松の元へと届けられた。捨松は全額を慈善活動に投じた。
スペイン風邪に死す

明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾を立ち上げることとなった。捨松は大いに喜び、ヴァッサー大同窓の瓜生繁子にも声をかけ、さらに再びアリスをアメリカから招聘した。
華族女学校では教育方針を巡って第3者の介入を招いた。その反省から今度は自分たちの理想とする華族や平民など、身分差を越えた平等で自由な女子教育の場を目指した。津田梅子が外部からの財政援助を最小限に抑える姿勢を貫いたため、捨松をはじめ繁子もアリスも無給で梅子を支えた。梅子は生涯独身を貫いた。そのため資金援助をしてくれる夫もパトロンもなかったとされる。それを陰で懸命に支えたのはかつてアメリカで共に学んだ親友たちだった。
大正5年(1916年)12月10日、公爵となっていた夫、巌が74歳で死去した。薩英、戊辰、西南の役、さらに日清、日露と戦争に明け暮れた人生だった。国葬のあとは別荘があった那須塩原に埋葬された。捨松はこの日以降、公の場から姿を消した。
3年後の大正8年(1919年)、津田梅子が病に倒れて塾長を辞任。英学塾は大混乱に陥った。知らせを聞いた捨松は急ぎ英学塾に駆け付けた。この時、恐ろしいウイルス性の感染症が世界中で猛威を振るっていた。スペイン風邪だ。第一次世界大戦の最中で情報が統制されたため正確な数字は今も分からないが、世界で5億人が感染し、数千万人が命を落としたと言われている。日本での死者は39万人に迫った。
捨松は家族を疎開させ、一人東京で梅子の後任探しに奔走した。捨松はウイルスに感染した。体調を崩す中、後任探しを急いだ。そして新塾長の就任を見届けた翌日に昏倒し、そのまま帰らぬ人となった。
8歳で会津戦争を戦い、敗戦後は酷寒の地に流刑となった。口減らしのためフランス人宣教師宅に預けられ、11歳でアメリカに渡った。帰国後は大山夫人となり二男一女をもうけ、互いにこれ以上望めないほどのベストパートナーとなった。鹿鳴館の貴婦人と呼ばれ、様々なチャリティやボランティア活動に従事しつつ夫を支えた。一方で看護婦養成や女子教育発展のために最期の瞬間まで命を燃やし続けた。真に忙しい58年の人生であった。
あとがき

筆者が初めて捨松の写真に触れたのは2018年のことで、聖トーマス病院の一角にあるナイチンゲール博物館でのことだった。「スペイン風邪で落命した人」の中に着物姿で映る捨松がいた。その美貌と奇妙な名が気になって捨松のことを少しだけ調べてみた。ユニークな人生だと思いつつ、英国や聖トーマス病院との関係性が今一つ分からないまま時が過ぎた。
今回の新型コロナウイルス感染拡大を受け、100年前のパンデミックで命を落とした捨松のことをもう一度調べ直した。そして聖トーマス病院に留学していた高木兼寛医師と捨松の関係性に辿り着き、ようやく捨松と英国が繋がった。「私のことをお書きなさい」と言われているような気がした。ナイチンゲール博物館は現在、パンデミックによる来場者激減で、閉鎖の危機に直面している。
参考資料
Hirameki TV『大山捨松の生涯 その情熱と志』/ヴァッサー大学 『Guide to the Sutematsu Yamakawa Oyama Papers』他
週刊ジャーニー No.1182(2021年4月1日)掲載