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日本女子教育の開拓者 大山捨松の一生【前編】サムライガール
ヴァッサー大学時代の捨松。

明治4年、津田梅子らと共にアメリカに官費留学し、日本人女性として初めてアメリカの大学を卒業した山川捨松(すてまつ)。22歳の時、西洋化を急いでいた日本に意気揚々と帰国したものの、そこに学問を積んだ女性が活躍できる場はなかった。日本女子教育発展のため、捨松の怒涛の闘いが始まる。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

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■慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争。江戸城が無血開城すると新政府軍の矛先は京都守護の任にあたっていた会津藩に向けられた。その秋、新政府軍は鶴ヶ城(会津若松城)に迫った。のちに同志社大学を創設する新島襄の妻となる山本八重もこの時籠城し、米南北戦争で使われた中古のスペンサー銃と刀を携え奮戦していた。まもなく鶴ヶ城総攻撃が始まる。

新政府軍の砲撃を受け、激しく損傷した鶴ヶ城(会津若松城)。

城内にいた女や子どもたちは炊きだしや負傷者の手当てに大忙しだった。城内に飛び込んで来る砲弾に濡れ布団を被せ、爆発を阻止する危険な役目も女の仕事とされた。この時使用されていた砲弾は焼玉式焼夷弾と呼ばれ、着弾してから爆発するまでに若干のタイムラグがあった。導火線の火さえ消してしまえば爆発を防ぐことができた。焼玉押さえと呼ばれる決死の作業だった。大混乱となった城内を、大量のおにぎりを抱えて忙しく駆けまわる少女がいた。山川さき。会津藩家老、山川尚江重固(なおえしげかた)二男五女の末娘だった。ある時、さきたちが食事をしていると、部屋に一発の焼夷弾が飛び込んできた。慌ててさきの長兄浩の妻、トセが濡れ布団を持って覆い被さった瞬間、焼夷弾がさく裂しトセは爆死した。さきも首を負傷した。

一方、予想以上の激しい抵抗にあい、攻めあぐねた土佐藩の板垣退助は薩摩藩に援軍を要請した。薩摩軍参謀は砲兵隊長の大山弥助(後の大山巌元帥陸軍大将)に出動を命令。大山が攻撃の準備を整えていたその時、一発の銃弾が大山の内股を撃ち抜いた。大山は重傷を負い、そのまま後方に運ばれた。八重が放った一撃とする説もある。事実であれば面白いが真偽のほどは定かではない。

数日後、総攻撃が始まり会津藩は約一ヵ月堪えた。しかし新政府軍の火力は圧倒的で会津側は多数の犠牲者を出した末に降伏。会津戦争は終結した。この時、さき8歳。大山弥助26歳。一瞬ながら敵味方に分かれて戦ったこの日から15年後、2人は夫婦となり、激動の人生を共に歩むこととなる。

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捨てたつもりで待つ

戦後、会津は明治政府の直轄地とされ、会津藩士らは下北半島北端部、現在の青森県むつ市である斗南(となみ)に流刑となった。斗南では寒さと飢えで命を落とす者が続出した。山川家も困窮し、末娘のさきを函館聖ハリストス正教会の司祭、沢辺琢磨の元に里子に出した。口減らしだった。沢辺は土佐藩の出身で坂本龍馬の家とは親戚関係にあった。その後、さきは沢辺の斡旋でフランス人宣教師に引き取られた。

この頃、薩摩出身の黒田清隆は南下を目論むロシアの脅威に対抗するため、北海道開拓の必要性を主張し、開拓使次官に任命された。黒田は欧米諸国を視察して回った。その際、アメリカで見た女性たちの姿に衝撃を覚えた。彼女たちは男性相手に堂々と意見交換し、男と同じ仕事に就いている女性も少なくなかった。一体何がそうさせているのかを調べた黒田は、それは教育にあると結論付け、女子への教育が日本の近代化への近道であると思うに至った。

同じ頃、明治政府は不平等条約の改正を目指して岩倉具視使節団を欧米に派遣する準備を進めていた。黒田は岩倉に相談し、男子だけでなく女子も留学生として欧米に派遣するよう要請した。岩倉は黒田の意図をすぐに理解し快諾した。早速、女子留学生の募集が始まった。渡航費から学費、生活費、さらには高額な小遣いまで官費から支給される厚遇ぶりだった。しかし期間10年という条件が応募のハードルを高くした。この時代、女子は10代半ばで嫁ぐのが普通だった。年頃の女子が10年も異国に行くとなると、戻ってきた頃にはすっかり行き遅れとなる。案の定、第一次募集の応募者はゼロ。勝って官軍となり、新政府でそれなりの役職を得てささやかな安泰を手に入れていた人たちにとって、大切な娘を異国に10年も遣るなど論外だった。

明治政府がアメリカに送った女子留学生たち。左から永井繁子(10)、上田悌子(16)、吉益亮子(14)、津田梅子(6)、山川捨松(11)。

黒田は諦めなかった。根回しも奏功し二度目の募集では5人の応募があった。上田悌子(16)、吉益亮子(14)、山川さき(11)、永井繁子(10)、津田梅子(6)。いずれも旧幕臣や賊軍側の出身で、薩長に煮え湯を飲まされた有力者の娘たちだった。彼女たちの親には、この留学で娘たちに西洋の言葉や学問を身に着けさせ、いつかは薩長を見返えしてやりたいという強い怨念のような思いがあった。

山川家ではさきの次兄、健次郎(のちの東京帝国大学総長)のイェール大留学が決まっていたことも安心材料だった。さきは利発な上、快活で社交性に富み、フランス人宣教師の元で育てられていたため西洋の文化にも慣れ親しんでいる。応募する条件は整っていた。後に女子英学塾(現津田塾大)を創設することになる津田梅子の父もまた下総佐倉藩出身の幕臣で、戦後は北海道開拓使の閑職についていた。応募した5人全員の米国留学が決まった。

女子留学生たちがあまりにも若いことに驚くが、そういう特殊な背景や事情があってのことだ。出発にあたり、さきの母えんはお守りにとさきに懐剣を渡し「あなたのことを捨てたつもりで遠い異国に出すけれど、無事に帰って来る日を心から待っています」と告げた。捨てたつもりで待つ。えんはさきを「捨松」に改名して送り出した。捨松たちを乗せた船は明治4年(1871年)11月、横浜港を出発した。

サムライガール

ヴァッサー大の学友と。捨松(左)と永井繁子(中央)。

5人のうち、思春期を迎えていた上田悌子と吉益亮子の2人は異国での生活に馴染めず、早々にホームシックとなった。それでもぎりぎりまで奮闘したがストレスから体調を崩し、1年未満で帰国させられた。帰国後は2人とも教育者となった。

残りの3人はより幼かったこともあり徐々にアメリカでの新生活に順応していった。津田梅子はワシントンDCの画家夫妻に預けられた。捨松は駐米次官だった森有礼(後の文部大臣)の斡旋でコネチカット州ニューヘイヴンの牧師、レオナード・ベーコン宅に預けられた。ベーコン家では14人の兄妹と共に娘同様に育てられた。中でも末娘で2歳年上のアリスとは生涯に渡る親友となる。

ここで4年間を過ごし、私立の名門ヒルハウス高校に入学した。ニューヘイヴンに「アワー・ソサエティ」という女性だけの会があった。捨松はこの会にゲスト参加した際、初めてボランティアという概念に触れ、さらにチャリティやバザーの仕組みを知った。

その後、ニューヨーク州のヴァッサー大学(Vassar College)普通科に進学。永井繁子も同大音楽科へと進み、共に寄宿舎生活が始まった。東洋からの留学生など皆無の時代、2人はたちまち学内で人気者となった。武家育ちで凛とした佇まいの捨松はサムライの娘、スティマツ(Stematz)と呼ばれて周囲から一目置かれる存在となった。

2年生の時には生徒会長に選出され、学内3位という優秀な成績を収め「偉大なる名誉(magna cum laude)」の称号を授与された。卒業式では総代の一人に選出され、全校生徒の前で「英国の対日外交政策」という難しいテーマで講演し、そのスピーチはニューヨーク・タイムズやシカゴ・スタンダード紙などでも絶賛された。捨松はアメリカの大学で学士の称号を得た初めての日本人女性となった。

失望の中に現れた男

捨松の前に現れた頃の大山巌。

明治14年(1881年)、約束の10年が過ぎ、北海道開拓使から帰国命令が届いた。ちょうど卒業を控えていた永井繁子は命令に従って帰国したが、捨松と津田梅子の2人は1年の滞在延長を嘆願し、これが認められた。その間に梅子は高校を卒業。捨松も大学卒業後、看護師の資格を取得した。幼少時に鶴ヶ城で見た悲惨な光景が捨松の脳裏に深く刻まれていたためと言われる。

約束通り翌明治15年(1882年)、2人は揃って祖国の土を踏んだ。梅子17歳、捨松は22歳になっていた。

捨松はアメリカで学んだ生理学や体操を女学校で教えたいという夢を抱いていた。明治の世が明けてまもなくの日本にこれだけのキャリアを積んだ女子はいなかった。洋々たる前途が目の前に開けているはずだった。

ところが帰国直前、北海道開拓使は解散させられ、頼みの黒田清隆もスキャンダルで失脚していた。彼女たちの受け皿も全く用意されていなかった。11年に及ぶ留学生活により日本語の読み書きが怪しくなっていたことも彼らの就職活動の大きな妨げとなった。文部省も「前例ナシ」として大学初の女性講師の職を認めなかった。未婚の女性は一人前として認められず、女子教育そのものも「不要」と、まるで江戸時代の様相に逆戻りしていた。アメリカ帰りの捨松たちが活躍できる場は消えていた。

失望の底にいた捨松の前に、希望の光を投げかける者が現れようとしていた。それは15年前、鶴ヶ城の内と外で対峙した仇敵、薩摩の大山弥助(後の巌)だった。日本女子教育の夜明けが近づいていた。

参考資料

Hirameki TV『大山捨松の生涯 その情熱と志』/ヴァッサー大学 『Guide to the Sutematsu Yamakawa Oyama Papers』他

週刊ジャーニー No.1181(2021年3月25日)掲載