献立に困ったらCook Buzz
献立に困ったらCook Buzz

「蛍の光」を作詞したスコットランドの詩人 ロバート・バーンズ

●サバイバー●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 卒業式や閉店・閉館時などに流れる「旅立ち・別れの曲」として日本人には馴染みのある「蛍の光」。実は、この曲は古くからスコットランドに伝わる民謡で、日本語の歌詞と英語の歌詞は少々異なる。1月25日の「バーンズ・ナイト(Burns Night)」を目前に控えた今回は、「蛍の光」の作詞者であり、酒や女性のみならず、ハギスにまで情熱的な詩を捧げた18世紀スコットランドの詩人、ロバート・バーンズの短い生涯を追う。

年明けに「蛍の光」?

大晦日の夜、新年のカウントダウンが終わるやいなや、英国人たちが突如歌い出す「蛍の光」。2024年の幕開けにBBCで放送されたカウントダウン花火の生中継でも、華やかな花火の打ち上げが終了した後で、テムズ河沿いに集まった人々が一斉に「蛍の光」を歌う様子が映し出されていた。カウントダウン前に、過ぎて行った1年を振り返りながら歌うのなら理解できるが、なぜ新年を迎えた後にこの曲を歌うのだろうか?

実は日本の「蛍の光」は、英詞をそのまま邦訳したものではない。英国では「遥かな遠い昔(オールド・ラング・ザイン/Auld Lang Syne)」という曲名で知られ、「旧き友よ、昔の思い出を語り合いながら、親愛をこめてこの杯を飲み干そうではないか。友情に乾杯! これからもよろしく!」といった内容なのだ。古くから伝わるスコットランド民謡で、作曲者は不明。もともとあった歌詞も失われてしまったが、後世に新たに歌詞を付けたのが、今回紹介するロバート・バーンズである。

スコットランドでは国民的に知られている詩人だが、同じくスコットランド出身の正統派詩人・著述家のウォルター・スコットとは対極に位置する。愛と自由とロマンを求めて、37年の短い生涯を駆け抜けた、破天荒な人物である。

JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi

詩作の原動力は恋心と憤り

スコットランド南西部のアロウェイで一般公開されている、ロバート・バーンズの生家「Burns Cottage」。近くには「Robert Burns Birthplace Museum」もある。© DeFacto

ロバート・バーンズは1759年1月25日、スコットランド南西部の海岸沿いエアシャーにあるアロウェイという寒村に、7人兄弟の長男として生まれた。生家は父親の手による粗末な土作りで、ロバートが生まれた数日後には強風で半壊し、隣家にしばらく避難しなければならなかったほどの貧しい暮らしだった。

父親はかつてアバディーンシャーにある城の庭師を務めていたが、スコットランド軍とイングランド軍の紛争の余波で仕事を失くし、アロウェイへ移住。裕福な家へ臨時の園丁として時折通いながら、借用した農地を開拓して生計を立てていた。

そうした経緯から、父親は息子たちが将来少しでもいい暮らしが出来るように「手に職」よりも「知識や教養」が重要だと考え、貧しい環境ながらも勉学の機会を惜しまずに与えた。わずかな金銭をやりくりして家庭教師を雇い、子どもたちをスパルタ方式で教育してもらったという。

ロバートが初めて詩を手掛けたのは、14歳の時のこと。農場の小麦の刈り取り作業で知り合った少女に恋心を抱き、初めての詩「おお、かつて僕は愛した」を書き上げた。この詩は少女が好きだった旋律「私は未婚の男」にあわせて作られた歌詞で、ロバートはこのように民謡や流行歌に自身で詩を付けることを好んだ。

ロバートは決して詩人になろうとも、なりたいとも思っていなかった。しかし、「恋をすると詩や歌が心から自然と湧き出てしまう」タイプだったようで、恋愛は詩を書く際の一番の刺激、そして創造の泉だった。惚れっぽく、関係をもった女性は数知れず。死ぬまで「恋多き男」であった彼にとって、詩作ネタには困らなかったに違いない。

さらに、社会的格差に対する憤りも作品作りの大きな原動力となった。過酷な労働で衰えていく父親や農夫たちの不条理さ、貧困に苦しみながら暮らす日々の生活への不満、そうなった原因とも言えるスコットランドとイングランドの険悪な関係…。多くのスコットランド人同様、ロバートも、成長するにつれてスコットランドへの強い愛国心を育んでいった。


女性問題でジャマイカ移住?

ロバート終焉の地、スコットランドのダンフリーズに建つ大理石像。

ロバートが18歳を迎えた年、農地借用の契約が切れたことから、一家はエアシャーの北西にあるロッホリーに引っ越す。ところが、そこで新たに借りた土地は酸性土壌であったため、収穫量が上がらず、以前より労働は苛酷さを増した。しかしながら、ロバートはきつい農作業だけで1日を終わらせることはなかった。刺激的な出会いを求めて夜は町へ繰り出し、ダンス教室に通ってスマートな立ち居振る舞いを学びつつ、様々な女性たちとの恋のやり取りを楽しんだ。また、男性のための独身者クラブを自ら立ち上げて、討論会を開催したりもしている。

母親譲りの陽気で人なつこさを持ったロバートは、誰とでもすぐ仲良くなれるという才能に恵まれていた。彼はこの町で、当時の欧州で広まっていた友愛結社「フリーメイソン協会」にも入会している。会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたい協会だった。彼はのちにフリーメイソンを通して上流階級の人々と知り合う機会を得た上、初の詩集出版に尽力してくれたのも、こうした仲間たちであった。

大きな転機を迎えたのは25歳の時だ。長年にわたる経済不安と心労、重労働が原因で、父親が逝去した。長男であるロバートは、家長として一家を養っていかなければならない立場であるにもかかわらず、厳格な父の死は彼を解放的にしてしまったようで、ロバートは以降、本格的に詩作に取り組み始めた。それと比例するように、女性関係もにぎやかになっていく。

まず、死の床にあった父親の世話していた少女を身ごもらせてしまった。しかし、彼女と結婚の意志はなかったため、生まれた娘はロバートの母親が育てることになった。「あの娘は素敵な女の子」「詩人、愛娘の誕生を祝う、『お父さん』という敬称を詩人に与えた最初の機会に」「うるさい犬」などを順調に作詩するが、この出来事は醜聞となって広がり、教会でも問題となってしまう。フリーメイソン仲間の紹介で、一家はロッホリーの北西にあるモスギールに移り住む。

ところが、そこで出会った愛らしい石工の娘を、またもや妊娠させてしまった。これを知ったロバートは困惑したものの、今回は結婚する旨を記した証文を彼女に与えている。

だが一方で、彼にはもうひとり交際中の恋人がいた。大きな農場でメイドとして働いている女性で、この浮気相手の存在を知った石工は怒り狂い、ロバートを告訴。結婚を認めず、生まれてくる娘の子どもの養育費を支払うよう迫ったのである。支払える金銭などないロバートは、なんと全てを捨ててジャマイカに移住する計画を立てた。メイドの恋人に「カリブに来るかい、ぼくのメアリー」という詩を作って送り、2人で秘かにジャマイカへ渡ろうとするも、この女性も妊娠していることが発覚。そして渡航前に実家へ戻った際にチフスを患い、嬰児とともに他界してしまった。

それを知らないロバートは、彼女が実家から戻ってくるのを待っている間に旅費を工面しようと、これまでの自作の詩をまとめて出版する作業に入る。フリーメイソン仲間の協力を得て1786年、「自分と自分の周囲の農夫仲間の中で感じたり見たりした心情や風習を、自分の生まれた国の言葉(※スコッツ語)で歌った」と彼が語る詩集を初刊行するに至った。意外にも同詩集の初版はわずか1ヵ月で売り切れ、スコットランドで大ベストセラーとなる。文学界でも「スコットランドが生んだ天才の顕著な見本」と手放しで大絶賛された。

※スコッツ語:スコットランドの南部・中央部・北西部で話されている、スコットランドの伝統的な方言。

エディンバラの農民詩人

さて、一躍著名詩人となったロバートは、恋人と嬰児を亡くしたこともあり、ジャマイカではなく首都エディンバラへ向かうことにした。

エディンバラ社交界の寵児となった彼は、紹介状を持って多くの名士たちのもとを訪れたが、招かれたどの家やサロンでも歓迎され、「エディンバラ版」の詩集の刊行準備をしながら、失われつつあるスコットランドの民謡や歌謡の保存にも協力している。「遥かな遠い昔」(蛍の光)の作詞も、このときに手掛けたものである。

「蛍の光」の歌詞、なぜ邦訳は異なるの?

1788年にロバート・バーンズが作詩した「遥かな遠い昔」に対し、日本では1881年(明治14年)、文部省が小学唱歌集を編纂する際に、同曲の採用を決定。その際に英詞を邦訳するのではなく、新たに日本用に作詩するのを決めたことから、オリジナルとは随分異なった歌詞が付けられている。

新歌詞は、国学者の稲垣千穎(いながき・ちかい/「ちょうちょ」の作詞者)のものが使われた。当時文部省は曲の出典を記さなかったため、この曲がスコットランド民謡であることを知らない日本人も多い。

曲名は歌詞の冒頭から取られ、歌詞は「蛍の光や窓からの光で本を読む日々を送ってきたが、いつしか時が過ぎ、今朝、ついに杉の戸を開けて別れる日が来た」と旅立ちの日を迎えたことを歌う1番、「ここに残る人も次へと進む人も、今日限りでお別れだ」と友人への思いを歌った2番で知られているが、実は全部で4番まである。ただ、3番と4番は「筑紫の極み、陸の奥、海山遠く隔つとも、その真心は隔てなく、国のためにひとつに尽くせ」といった国家主義的な内容になっており、現在では歌われていない。

さらに、社交界の美貌の夫人と交際しながらも、その女主人の召使いの少女と関係を持って子どもを産ませたり、酒場の女性とつき合ったりと、相変わらずのカサノヴァぶりを都会でも発揮した。当意即妙の話術を操り、飾り気のない男らしさを漂わせ、虚栄心のない人柄は、社交界でも好感を持たれたという。だが、ロバートは決して「浮かれた勘違い有名人」にはならず、不思議なほどに冷静な判断をくだせる人物でもあった。所詮「農民詩人(Ploughman Poet)」である自分は、時を置かずして飽きられるだろうと考え、エディンバラに滞在するのは2年と決めていたのだ。こうした現実的な感覚と、恋愛に熱中し詩作に励む夢想家的な感覚が、ロバートの中には違和感なく共存しており、それが彼の魅力でもあったのだろう。

1788年、エディンバラを後にして故郷の家族のもとへ戻ると、詩集で稼いだ印税は、留守中に家族を守った弟に半分以上渡した。そして残った資産で家を購入して妻を迎え、ついに初めて所帯を持ったのだった。その妻は、かつて結婚の証文を渡した石工の娘であった。

28歳の頃のロバートと、石工の娘だった妻ジーン・アーマー(肖像画は57歳の頃のもの)。

ロバートはその後も代表作のひとつ「シャンタのタム(Tam o'Shanter)」ほか多くの詩を生み出す傍ら、エディンバラでの滞在中に取得していた収税官の資格を活かした職務もこなした。妻との間に7人の子をもうけ、でも懲りずに行きつけのパブの女将の姪にも手を出し、生まれた子どもは結局妻が引き取っている。詩作と数多の女性たちとのスリリングな恋、資金繰りに悩まなくていい家族との生活――ようやく叶った人間らしい日常は、リューマチ熱の罹患によって一気に瓦解する。10ヵ月ほど寝たり起きたりの生活を繰り返した後、1795年7月21日、ロバートは静かに息を引き取った。享年37、あっけない人生の幕切れだった。

JEMCA
Kyo Service
J Moriyama
ジャパンサービス
らいすワインショップ
Atelier Theory
奈美デンタルクリニック
Sakura Dental

バーンズ・ナイトって?

ナイフとともに、丸々としたハギスが主催者のもとへ運ばれていく様子。© Connor Beaton
ハギスにマッシュしたポテトとスィードを添え、ウイスキーとともに楽しむ。© Connor Beaton

スコットランドの伝統行事のひとつであるバーンズ・ナイト(Burns Night)は、別名バーンズ・サパー(Burns Supper)とも呼ばれ、ロバート・バーンズの誕生日(1月25日)の夜に、伝統料理のハギスをウィスキーとともに楽しむ日。 ロバートの友人たちが、彼の死を追悼するために始めた夕食会が起源となっている。

祝い方は、バグパイプの演奏が流れる中、ハギスが供されるところからスタート。ハギスは羊の胃袋にミンチにした内臓やオートミール、タマネギ、ハーブなどを詰めて蒸した料理だ。ロバートがつくった詩「Address to a Haggis(ハギスに捧げる歌)」を朗読した後に、主催者がナイフをブスッと入刀。中身を各皿にのせ、ウィスキーとともに頂く。食事会の最後には、 「蛍の光」を合唱して終了となる。

ちなみにハギスへの歌は「つまらないものを食べてるヤツはしなびた草のように弱々しいが、ハギスで育った田舎者は歩くたびに地面が震える。敵の腕も頭も足も、スパッスパッと切り落とせるぜ」という勇ましい詩となっている。

週刊ジャーニー No.1325(2024年1月18日)掲載