民主主義の礎となったマグナ・カルタって何ですか? 【後編】

国王も法の上に立つ存在ではないという原則を確立し、 現在もイングランドの法律の一部になっている マグナ・カルタ(大憲章)。 マグナ・カルタに署名した嫌われ者の王ジョンの生涯と マグナ・カルタの役割を探る。

前回のあらすじ〉イングランド王ヘンリー2世の五男として生まれたジョンは1199年、王座から程遠い存在だったにも関わらず王位につき、ヨーロッパに広大な敷地を有することになったが…。

●サバイバー●取材・執筆/名取 由恵・本誌編集

ローマ教皇、 イングランド諸侯と対立

一時は敵無しになったのも束の間、ジョンはアルテュールの後見人を自認するフィリップ2世との全面戦争に突入する。その結果、1214年までにアキテーヌのみを残し、ノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワチエの領地を失なうことになる。これらのアンジュー家の領地はすべてフランス王領となり、「John Lackland」は、『欠地王』から『失地王』へとなってしまったのである。

同時に、カンタベリー大司教の選任をめぐり、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立。1205年にカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、教皇はジョンが選んだ候補を拒否し、枢機卿のスティーヴ・ラングトンをカンタベリー大司教に任命。この決断に怒ったジョンは、ローマ教皇を支持する司教たちを追放し教会領を没収した。それに対してローマ教皇は1209年にジョンの破門を宣告した。

インノケンティウス3世との報復合戦は、ジョンの不人気を決定づけた。ジョンに不満を抱くイングランド諸侯が反乱を計画していることが発覚。内乱で勝利する自信がなかったと見られるジョンは、1213年、全面的に譲歩して、イングランドをローマ教皇に『寄進』することで破門を免れた。

没収した教会領で収入増加をはかる計画が頓挫したことから、大陸領土の喪失による収入減を別の方法でカバーせざるを得なくなったジョンは、さらなるピンチを自分で招く。

厳しい増税を諸侯に申し渡すしかなく、イングランド国民は重税に苦しむことになった。しかも、大陸領土奪還を目指し軍事力を強化するため、国民すべてに軍役を課すことになり、全諸侯、民衆を敵にまわす事態となった。ただし、この重税の一部には、先代王のリチャード1世による十字軍遠征の資金や身代金支払いのための借金に対する返済分も含まれていたため、身内のツケをジョンが払うはめになったという裏事情もあり、情状酌量の余地もなくはない。とはいえ、そのような事情を諸侯や民衆が考慮してくれるはずもなかった。

自業自得で招いた廃位の危機

フランス北西部で失った領地を回復するため、ジョンは再びフランスへの遠征計画を立てるが、イングランド内の諸侯のあいだには強い不満がみなぎっており、多大な犠牲を要求するジョンに非協力的な態度を示した。

これまでのイングランドの封建社会といえば、諸侯は王に対して軍務と奉仕活動を提供、王はその代わりに諸侯の保護を約束し世襲の領地を与える仕組みになっており、王は増税を行う際や、大規模な軍務が必要な場合には諸侯と話し合うことが通例だった。しかし、ジョンは強行手段をとり、これまでの慣習を破ったのである。

ジョンとイングランド諸侯の対立は、一触即発の状態へと日々近づいていた。

ローマ教皇の後ろ盾を得て、諸侯の反対を抑えたジョンは、1214年にフランスと対立する神聖ローマ皇帝オットー4世らと共にフランスの北と南から攻撃を行い、一時はポワチエ、アンジューを奪回したものの、フランドルのブーヴィーヌの戦いで惨敗。結局、ジョンは占領地すべてを捨てて撤退するはめになった。

敗戦の末フランスからイングランドに逃げ帰ったジョンは、不満で爆発寸前の諸侯や民衆に迎えられた。ここでジョンは致命的な判断ミスをおかす。

力で抑えこもうとしたのである。

ジョンに対し、王の失政を批判する諸侯はジョン王の廃位を求めて結託。諸侯たちは翌年1月から6月の間に行われた交渉で、王の権限を制限する文書の同意を王に迫った。もちろん、歴代のイングランド王に対しても貴族たちの反乱は度々起こった。しかし、これまでのケースでは、諸侯たちが王位継承権のある対立候補を打ち立て、現王を打ち倒すというパターンだった。ジョンの場合、そのような明らかな対立候補がいなかったため、諸侯たちは対立候補を立てることができず、王に対して武力で『猛省』を促すしかなかったようだ。

諸侯はフランス王太子ルイとスコットランドのアレキサンダー2世の支援を得て、団結して挙兵、1215年6月10日に首都ロンドンを制圧した。

崖っぷちに立たされたジョンは、打開策として諸侯が提案した文書に承諾を与えるという要求を呑むことを決意。こうして、1215年6月15日、ロンドン西部にあるテムズ河畔のラニーミードにジョン王と諸侯が集まったわけである。

ラニーミードへ行こう!

ラニーミードにある、1957年建立の記念碑「マグナ・カルタ・メモリアル」。

マグナカルタの署名が行われたラニーミードは現在ナショナル・トラストが管理中。ただの草原なので出入りは自由で制限時間はなし。ロンドンから車で行く場合、中心部から西へ約40キロ。

Runnymede: Windsor Road, near Old Windsor, Surrey, SL4 2JL (SatNav: TW20 0AE)
www.nationaltrust.org.uk/runnymede-and-ankerwycke

マグナ・カルタ破棄宣言

気がめいるような灰色の雲の下、集まったのはイングランド国王ジョンと25の諸侯。果てしなく広がる草原のほかは何もないだだっ広い空間のなか、双方の話し合いは行われた。

ジョン王はウィンザー城に滞在、諸侯はステインズで野営しており、ジョンがステインズまで行くのを拒んだため、ウィンザーとステインズの中間地点にあるラニーミードが、直接交渉の場に選ばれたという。

おそらく、ジョンはこれまでのこと、現在の自分の立ち位置、そして将来の展望など、さまざまなことを熟考したであろう。そしてその結果、内戦にもつれこむより、ここはひとつ、諸侯の要求を呑み、マグナ・カルタに署名をした方が得策という結論に達したのだ。その場凌ぎの一時的な対策として考えていたのかもしれないが、とにもかくにも、ジョンは諸侯の言い分を受け入れることを約束させられ、マグナ・カルタに国璽(印章)が押された。

ラニーミードの会合は6月23日に終了、翌日もしくはその数日後に7通のマグナ・カルタ原本が作成され、7月22日にオックスフォードでさらに6通が作成された。

しかし、ここで大人しく引き下がらないのがジョンだ。マグナ・カルタの署名後、即座にローマ教皇に働きかけ、マグナ・カルタの無効化を目論む。悪知恵が働く、往生際が悪い、と批判的な見方が大勢を占めるが、ジョンには、人間としてのしたたかさ、たくましいふてぶてしさが感じられる。

暴力で脅されて無理やり署名させられたというジョンの言い分を認め、ローマ教皇がマグナ・カルタ破棄を宣言したことを受け、諸侯は再び反乱を試み、ジョンもそれを迎えうち、ついにイングランドは内乱に突入した。これが第1次バロン戦争である。

しかしその争いの最中、ジョンがノッティンガムシャーのニューワーク城であっけなく病没してしまう。マグナ・カルタの署名からわずか1年後の1216年10月18日のことだった。

マグナ・カルタは内戦を避けるための手段としては失敗策に終わったが、ジョンの死により、皮肉なことに破棄を免れて後世に残り、のちに民主主義の礎と呼ばれるまでになった。  

写真右:ラニーミードへの入り口を示す標識。「民主主義、誕生の地」と記してある。ラニーミードでの接見の正確な場所がどこであったのかはわかっていない。
同左:今も草が生い茂るだけのラニーミード。約800年前に『大事件』の舞台となったとは信じがたいほどの、のどけさだ。

果たしてジョンは無能だったのか?

大陸の領地を失い、度重なる失政続きで、イングランド史上最悪の王とされるジョン。エドワードやウィリアムという名前をもつ国王が何人もいるのに対し、ジョンという名前を名乗る王は、英王室史の中ではジョン王以降二度と現れなかったことからも、人気のなさがうかがわれる。

しかし、ジョンは本当に無能な王だったのだろうか。

家族との確執をふり返ると、あんなに愛されていた父親を裏切って兄に寝返ったり、そうかと思うとその兄を蹴落として王位を狙ったりと、したたかで変わり身の早い性分だったことが分かる。状況に応じて自分の立ち位置をするすると変えるなど、周囲の状況を判断する能力には長けていた模様である。一方で、実は内政の手腕はなかなかのものであり、国内の司法の改革に貢献したという歴史家の評価もある。

ともあれ、自分の王位を守るためにマグナ・カルタに署名したことにより、英王室はフランス王室のように断絶して王政廃止になる憂き目を見ずに済み、結果的にはその後の民主主義の発展に貢献することになった。暴君の圧制のなかから民主主義が生まれる――各国で見られた歴史の流れが、ここイングランドの歴史にも確かに見られるのだ。

取材班が訪れたラニーミードは、静かで穏やかな場所だった。草原で家族がピクニックを楽しみ、手をつないだカップルがゆっくりと散策する。800年以上前、ここで王と諸侯が集まり、緊迫した空気が流れていたことなど嘘のように平和な光景だ。

1215年6月15日、この地で歴史が動いた。ジョンがその日のことを、屈辱ととらえていたのか、あるいは危機回避に成功した日と見ていたのか。ラニーミードの草に問いかけても答えはない。さわやかな風に吹かれて、草はさわさわと音を立てるばかりだった。

ジョンの死後、諸侯の支持を受けて当時9歳だった息子のヘンリーがヘンリー3世として即位した。写真はウスター大聖堂に設えられた、ジョン王の墓碑。

民主主義の礎となったマグナ・カルタ

マグナ・カルタ(Magna Cartaまたは、Magna Carta Libertatum)は「大憲章」のラテン語名で、英語では「Great Charter of the Liberties of England」と呼ばれる。ジョンが署名したものはラテン語で、その後フランス語に翻訳された。初めての英訳版が登場したのは16世紀のことである。

63ヵ条の条文から成るその主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由などで、イングランドの封建法を成文化し、王権の制限や諸侯の既得権と市民の自由を規定している。王といえども法の下にあり、その権限を制限されることが明文化されたという意味できわめて重要とされている。

ジョンの死後、息子であるヘンリー3世の在位中の1216年と1217年に修正版が再公布され、1225年に3度目の公布により初めて文書が確定されて法になった。その後も歴史のなかでしばしば復活している。17世紀のピューリタン革命では、絶対王政の専制に対し、人権を守る「武器」として用いられた。

19世紀には近代民主主義の原点として再評価されるようにもなった。米国独立の際には、独立の理論的支柱のひとつにもなるなど、その精神は米国にも引き継がれている。

このようにマグナ・カルタは、現代の「法の支配」の原型にもなっており、それゆえ、民主主義の礎として歴史の教科書にも登場するわけだ。

写本された修正版は数多く存在しているものの、現存する『原本』は4部のみで、大英図書館(2部)、ソールズベリー大聖堂、リンカン大聖堂に保存されている。

週刊ジャーニー No.1142(2020年6月18日)掲載