民主主義の礎となったマグナ・カルタって何ですか? 【前編】

■ 英国で最も有名な憲法文書とされるマグナ・カルタ(大憲章)を 世界史で習ったのを覚えている読者も多いことだろう。 国王も法の上に立つ存在ではないという原則を確立し、 現在もイングランドの法律の一部になっている。 このマグナ・カルタに署名したのは、 歴代の英国王のなかでもトップを争う嫌われ者の王ジョン。 今回は同王の生涯をふり返りつつ、 マグナ・カルタの役割を前後編にわけて探ることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆/名取 由恵・本誌編集

805年前の大事件

そこには、ただ草原が広がっていた。

ひざ丈ほどの緑に覆われ、ところどころ、黄色や白の小さな花が頼りなげに咲いている。空は灰色の雲に覆われ、そこに集うおびただしい数の騎士や兵士たちの穏やかならぬ心を映しているかのようだった。

馬のいななきと、甲冑の触れ合う音にまじり、時折、巣に戻るところなのか、忙しくさえずる小鳥の声が聞こえる。

恐ろしい緊張が辺りを包んでいた。

ときは1215年6月15日。

兵士をそれぞれ引き連れた、イングランド王ジョンと、25の諸侯が、ラニーミードと呼ばれる草原で対峙しているのである。

イングランド王ジョンは『失地王(John Lackland)』の別名でも知られる。フランスとの戦いに敗れ、イングランドがヨーロッパ大陸に保持していた広大な領地の大部分を失うといった度重なる失政の末、イングランドの諸侯の反乱にあったのである。

この日の目的は戦闘ではなかった。諸侯らは、ある同意書にジョン王の判を得ようとしており、この同意書こそ、後に「マグナ・カルタ」と呼ばれるものだった。

「どうして、こんなことになったものか…」

目の前に揃った25の諸侯たちの顔をうらめしく眺めた後、ジョンは、大きなため息をつきながら思わずその半生をふり返らずにはいられなかった。

クリスマスイブに生まれた末っ子

1166年12月24日、ジョンはイングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌ(下コラム参照)の8番目の子供として生まれた。上にはウィリアム、ヘンリー、リチャード、ジェフリー、という4人の兄と、マチルダ、エレノア、ジョーンの3人の姉がおり、ジョンは五男にして末子だった。ジョンが王位を継ぐ可能性が低かったことはいうまでもない。

アンジュー朝(プランタジネット朝)の初代イングランド王でもあったヘンリー2世は、王位につく前に、すでに父親のアンジュー伯ジョフロワ4世からノルマンディとメーヌを継承しており、そのうえ、アキテーヌ公の女相続人、アリエノールと結婚したことで、アキテーヌ公領も手に入れた。

1154年にイングランド王として即位し、イングランドの領土も継承。こうして、ピレネー、南フランス、イングランドにまたがる広大な領地を有するようになったアンジュー家によるプランタジネット朝が始まった。一方で、ヘンリー2世はイングランド王でありながら、同時にフランス国内ではフランス王の家臣という複雑な関係にあり、このことがイングランドとフランスの間で起こる度重なる紛争の原因にもなっていた。

1169年、ヘンリー2世は大陸にあった所領を3人の息子に分割した。

長男のウィリアムは早世したため、14歳になる次男の若ヘンリーには後継者としてアンジューとメーヌ、12歳のリチャードにはアキテーヌ、そして11歳のジェフリーにブルターニュを分配。しかし、このときまだ2歳だったジョンには与えられる土地がなかった。このため、父はジョンを冗談交じりに「領地のないジョン(John Lackland)」と呼んだと伝えられる。後にジョン王が『欠地王』と呼ばれるようになった所以はここにある。

当時の王家では、生まれてすぐ母親から離され乳母に育てられるのが慣習。ジョンも幼少時には母親との接触は少なかった。そのかわり、父は末子のジョンをかわいがり、溺愛したという。

しかしその愛が、父子兄弟間で繰り広げられることになる骨肉の争いの火種になろうとは、ヘンリー2世も、ましてや幼いジョンも夢想だにしていなかった。

欧州きっての『肉食系』 女性大領主  アリエノール・ダキテーヌ

ジョンがイングランド王位にあった1204年、フランスのフォントヴロー修道院で逝去したアリエノール(写真は、同修道院内にあるアリエノールの墓)。82歳とその頃にしては非常に長寿だった。

■ ジョンの母アリエノール・ダキテーヌは、中世ヨーロッパにおいて最も裕福な女性のひとりとして大きな権力を有し、フランス王妃、イングランド王妃として波乱の生涯を歩んだ。アリエノールを3つの角度から見てみよう。

1 ルイ7世と離婚後、ヘンリー2世と再婚

アリエノールは父アキテーヌ公ギヨーム10世の死後、アキテーヌ公領をはじめとする広大な領地を相続し、15歳でルイ7世の王妃になる。夫と共に自分の軍勢を引き連れて第2回十字軍遠征に参加したこともある女傑だが、2女をもうけた後に離婚。修道院育ちのルイ7世とは性格が合わなかったようで、離婚の際に「王と結婚したと思ったら僧侶だった」と語ったエピソードが残っている。

離婚からわずか2ヵ月後に、今度は11歳年下のアンジュー伯ノルマンディ公アンリ(後のヘンリー2世)と結婚。アリエノールはたくましいヘンリーに惹かれ、結婚を狙っていたという。ふたりの結婚により、フランス国土の半分以上がイングランド領になる。ルイ7世に対するアリエノールの密かな復讐かもしれない。

2 怖いもの知らずの反逆者

次男の若ヘンリーが父ヘンリー2世に対する反乱を起こした際には、他の息子らもけしかけて自分も反乱に加わろうとするが、逆にヘンリー2世に捕らえられ、反逆罪で15年間監禁される。夫に対して反旗を翻したことになるが、その頃のヨーロッパでは屈指の『土地持ち』であり、財力に裏打ちされた、高いプライドの持ち主でもあった。夫とも不仲だったことから、ヘンリー相手に戦うことなど恐くもなかったのだろう。

3 ヨーロッパの祖母

ルイ7世、ヘンリー2世との結婚で、合計10人の子供を生み、子供たちを次々と政略結婚させたことで、アリエノールの子孫は欧州全土の上層階級に広まった。ゆえに「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれている。

父王か兄弟か

1170年、若ヘンリーは共同王として父と共に統治するようになるが、実権はなかったため父親に対して不満を募らせる。一方、1173年、ヘンリー2世はアイルランド征服後、10歳になったジョンをアイルランド卿に任命、アイルランドと大陸のシノン、ルーダン、ミルボーの城3つを最愛のジョンに与えようとしたため、若ヘンリーの不満が爆発。母アリエノールや弟らと組んで父ヘンリーへの反乱を起こす。日本の戦国時代を例に挙げるまでもなく、親や兄弟の間で、領地をめぐって武力衝突が起こることはめずらしくなかったのだ。

後に双方は和解したが、1183年に若ヘンリーが病死すると、父王は、今度は三男リチャードに対し、自分の後継者にするかわりにアキテーヌ領をジョンに譲るよう要求したため、リチャードは激怒。再び、一家には不穏な空気が流れる。リチャードは、父とフランス王フィリップ2世の争いの最中、フィリップ2世の側につくことを選び、父親と対立した。このとき、ジョンは22歳。身のほどこし方について、すでに自分で判断すべき年齢に達していた。「どちらが得か」、彼なりに考えたのだろう。当初は自分をかわいがっていた父側についていたものの、形勢が不利になったのをみると即座に裏切り、兄についたのだった。

国会議事堂前にあるリチャード『獅子心王(Richard the Lionheart)』の像。「中世騎士道の華」「勇敢な獅子王」として讃えられている。

ライバルは、できのいい兄

最愛の息子ジョンが寝返ったことを知ったヘンリー2世は、1189年に失意のうちに病死。三男リチャードがリチャード1世としてイングランド王に即位した。母親アリエノールから愛を一身に受けるリチャードは、一気に広大な所領に君臨する統治者となる。対照的に、ジョンとアリエノールは疎遠だったといわれ、これが兄弟間の微妙な空気を、修復しがたい対立へと変えていく。

勇敢で好戦的な国王リチャードは、即位するや否や、第3回十字軍遠征に参加。遠征にはフィリップ2世も共に参加していたが、のちにフィリップ2世と対立するようになり、十字軍遠征中も別行動を取る。

その間、ジョンはといえば、リチャードの不在をいいことに、イングランドの内政に関与。王の座を虎視眈々と狙っていた。ジョンはリチャードから、ノッティンガムを含むイングランド内の領地をもらっており、領地内で圧制を敷いたことは「ロビン・フッド」の中で書かれている通りだ。

リチャードがエルサレムから戻る途中で、オーストリア公レオポルド5世に捕らえられ幽閉されると、ジョンはすかさず、フィリップ2世と組んで、リチャードが死亡したとして、王位を奪おうと画策する。諸侯からの同意が得られず、結果的にこの企みは失敗に終わり、ジョンの野望は打ち砕かれたが、彼がただの愚か者ではなく、「こざかしい」程度であったにせよ自身の策を持ち、好機と見込めば実行力を発揮する男であることを示した。

リチャードはその後、フィリップ2世との戦いを始めたものの、1199年に戦争中の負傷がもとで、わずか41歳にして没する。在位期間の10年あまりで、イングランドに滞在したのはわずか半年と、政治的な業績は皆無に近い。しかし、十字軍に遠征した最初のイングランド王として英雄扱いされ、讃えられている。歴史に「もしも」はないが、もしリチャード1世がもう少し長く存命し、イングランド内の政治に積極的に関わっていたら、イングランドとジョンの運命も大きく変わっていたかもしれない。

この5色すべてが、1154年のアンジュー家の領地。英仏にまたがっていたことがわかる。

遂に玉座に座った強運の男

いよいよジョンにイングランド王になるチャンスがまわってくる。リチャードには子供がおらず、後継者としてはジョンと、ジョンの兄であるジェフリーの遺児アルテュールがいた。フランスで育っていたアルテュールがフィリップ2世に臣従したこと、アルテュールがまだ12歳だったことから、リチャード自身、晩年にはジョンを後継者として考えていたとされる。リチャードとジョンのあいだに確執はあったが、他の選択肢より、問題は少ないと考えたようだ。王座につくには、血筋に加え、何より「運」が必要。ジョンは、この意味では強運(悪運というべきかもしれない)の持ち主だったと見なせるだろう。

こうして「棚から牡丹餅」式にイングランド王になったジョンだが、国王になってからがジョンの試練の始まりだった…。

週刊ジャーニー No.1141(2020年6月11日)掲載