バイロンの娘 エイダ・ラヴレス 【前編】

■ 米国防総省が使用するコンピューターのプログラミング言語「エイダ」にその名を残している、19世紀のロマン派詩人バイロンの娘、エイダ・ラヴレス。科学が著しい発展を遂げた時代に、父親ゆずりの芸術性と母親ゆずりの数学の才能に引き裂かれ、両親の愛憎劇に翻弄され続けた。この「世界初のプログラマー」と呼ばれるエイダの苦悶の生涯を、前後編に分けて追ってみたい。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

頭がい骨で乾杯する男

エイダは1815年12月10日、類まれなる詩才と数多の女性たちとの恋で名を馳せた詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの一人娘として、ロンドンで産声を上げた。母親は裕福な準男爵家の令嬢、アン・イザベラ・ミルバンク(通称アナベラ・ミルバンク)。婚姻から間もなく1年という新婚夫婦のもとに誕生した新たな命だったが、本来なら沸き立っているはずの空間には、失望と諦念が渦巻いていた。2人の仲は、修復が不可能なほど冷めきっていたのである。

翌年1月、産後の身体の回復を待っていたアナベラは、エイダとともに両親がいるレスターシャーの屋敷へ去る。家族3人で暮らしたのは、わずか5週間という短さだった。

バイロンは1788年、ロンドンで陸軍大尉の父と後妻の間に生まれた。バイロンの父は酒癖が悪く、浪費家としても有名だった。家庭内ではけんかが絶えず、多額の借金を残したまま、放浪先のフランスで死去。以後、精神疾患を患う母と、スコットランドで慎ましく暗い幼少期を過ごした。

事態が一転するのは、バイロンが10歳を迎えたときのこと。男爵の大伯父が亡くなり、バイロンのもとへ爵位が転がり込んできたのである。貴族の仲間入りを果たした彼は、やがてケンブリッジ大学へ進学。抑圧から解放され、学業を顧みずに世界中を放浪した後は、学友たちと墓地から発掘した頭がい骨でワインをあおって馬鹿騒ぎしたり、多くの浮名を流したり、賭博に手を染めたりと「放蕩青年」になった。ところが、1812年に出版した詩編『チャイルド・ハロルドの巡礼』が大好評を博し、世間の評価は一変。整った容貌と相まって、社交界の花形として注目を集めるようになる。

一方、アナベラは1792年、イングランド北部ダラム郊外にて、準男爵の一人娘として誕生。両親は娘の教育に金銭を惜しまず、ケンブリッジ大学の教授を家庭教師として雇い、同大の学生と同様のカリキュラムで学ばせた。そのため、アナベラは刺繍や音楽、ダンスといった貴族の淑女が身につけるべき嗜みではなく、哲学、科学、数学などを学習。こうした教育は彼女に広い知識をもたらす一方、強い自尊心を育て、頭も心も無類に固い女性へと成長していった。

左から、エイダの母アナベラと父バイロン、バイロンの4歳上の異母姉オーガスタ。

「危険な関係」と家庭崩壊

貴族階級の未婚の男女にとって、社交パーティーは結婚相手を探す絶好のチャンス。バイロンとアナベラは1812年の社交シーズンの「注目株」だった。とくに資産家の娘であるアナベラは、男性にとって「魅力的な物件」だったのだ。

アナベラの尊大な態度はバイロンの好みではなかったが、自分に自信を持っていた彼女はバイロンに積極的にアプローチした。バイロンは彼女を聡明だと思うものの、「哲学者のような四角四面」「2人は決して交わることのない2本の平行線」と友人への手紙で語るなど、女性として魅力的には感じていなかったようだ。だが、彼女のアプローチに根負けしたのか、あるいは財産狙いだったのか、2人は1815年1月に挙式した。

結婚生活が始まると、「ユーモアあふれる陽気な放蕩青年」は「怒りっぽく辛辣で気まぐれな夫」に変身した。酒に溺れ、アヘンを服用し、さまざまな女性と夜を過ごす。なかでもアナベラが許容できなかったのは、バイロンの異母姉オーガスタとの関係だった。真偽のほどはわからないが、近親相姦疑惑は社交界でささやかれ、1814年に誕生したオーガスタの末娘は「バイロンとの子」という噂までたっていたのである。

そしてアナベラが生んだ娘に、バイロンが「オーガスタ・エイダ」と名付けたとき、夫妻の溝は決定的なものとなる。アナベラは「エイダ」と娘をセカンドネームで呼び、産後の体調が戻ると夫のもとを去っていった。やがて近親相姦や同性愛(当時は死刑に値する犯罪だった)などのスキャンダルが表沙汰になり、社会的信用を失って凋落したバイロンは国外へ逃亡。ヨーロッパを転々とする中、36歳でギリシャにて熱病で命を落とした。

孤独な捕囚生活

さて、エイダは母親の実家で育てられたが、家庭教師による彼女の評価は「興味のある授業以外ではわがままで、注意力も散漫。ただ想像力は人一倍優れている」というものだった。アナベラはその報告を聞き、大きな不安がこみ上げてくる。

「もしや娘は夫に似ているのだろうか? 絶対にあの男のような人間にしてはいけない…。呪われるべき血の片鱗は消し去らなくては!」

想像力の発達を抑制し、自制心のある理性的で合理的な性格に育つよう徹底的に管理された「捕囚生活」の幕開けだった。数学や科学を重点的に学ばせ、家庭教師は数人体制で常にエイダに張りつかせて行動を監視させた。また余計なことを吹き込まれないように、使用人と親しく会話を交わすことも禁じた。

皮肉なことに、そうした孤独な日々は、かえってエイダの空想力をたくましくしていった。窓から空を飛びまわる鳥を眺めて、自由に飛行する自分を思い浮かべたのだろう。13歳になる頃には、巨大な紙製の「鳥の翼」の設計に取り組んでいる。ロープ、滑車、クレーンといった用具一式をそろえ、翼の仕組みを研究するために解剖学、空を知るために天文学も学んだ。

科学への目覚め

1833年、ロンドンの社交界では数学者チャールズ・バベッジの自宅兼仕事場で行われる「夕べの集い」が、大きな話題となっていた。これはバベッジの仕事の成果を発表する場で、17歳になり社交界デビューを控えるエイダは初めての公の場として、この集いに出席することになった。

エイダが出席した「夕べの集い」で披露された、世界初の計算機「階差機関1号」(科学博物館蔵)

今回のお披露目の目玉は、「階差機関(Difference Engine)」と呼ばれる世界初の自動計算機の試作品。数本の頑丈な真鍮の柱と、上下2枚の金属板のあいだには、たくさんの歯車がある。歯車の周縁には数字が刻まれており、レバーをまわすと、歯車と数字が動く仕組みだ。招待客は、この「考える機械」と呼ばれた驚異的な発明品に度肝を抜かれたが、エイダの身体を走り抜けたのは衝撃ではなく啓示であった。

「これこそ、私の進むべき道だわ!」

エイダは機械の動きを正確に理解し、その発明品の美しさに息をのんだ。想像したことのない新しい世界と可能性に、かつて飛行を夢見た少女の胸は高鳴った。当時「科学の女王」と讃えられていた女性数学者のメアリー・サマヴィルと知り合う機会を得たエイダは自身を売り込み、彼女の協力で入手した蒸気機関に関する論文を書き写したり、蒸気機関車や映写機を見学したりと、知識を蓄えていく。ついには尊敬するバベッジとも連絡を取り合うようになる。そして1835年、サマヴィルの息子の友人で、女性が「学者」となることに理解のある11歳上の男爵(のちのラヴレス伯爵)と結婚した。

1844年、キングス・カレッジ・ロンドンで「階差機関」を改良した「解析機関(Analytical Engine)」が公開されたときの様子。

父が残した愛情

結婚して母親の監督下から逃れたエイダが最初にしたのは、「父親を知る」ことだった。これまで母の実家では、バイロンの名前は禁句であった。それゆえに父の顔を絵画でさえ見たことがなく、作品も読んだことがなかったのである。婚家の邸宅の書棚には、バイロンの著作集がたくさん収蔵されていた。夢中で読みふけっていたエイダは、ひとつの詩を目にし、ページをめくる手を止めた。

かわいい我が子よ!
お前の顔は母親似だろうか?
エイダ! 我が家、我が心の一人娘は?
最後に見たお前の青い目は
微笑んでいた
別れ別れになったあの時には
今のような別れではなく
まだ一縷の望みがあったのだ
(『チャイルド・ハロルドの巡礼』第3詩篇)

エイダの頬を一筋の涙が零れ落ちていった。本の発行年は1816年。彼女が生まれた翌年だった。たとえ気まぐれだったとしても、父は私を気にかけてくれていたのだ。いつまでも過去に捕らわれていてはいけない――。生まれ変わったような気持ちになったエイダは、科学への道を邁進して新たな人生をスタートさせる決意を固めるが、平穏な時間は長くは続かなかった。

週刊ジャーニー No.1134(2020年4月23日)掲載