テムズ・バリアを生んだ 1953年の悲劇
テムズ河流域で起こる水害の最大の原因は、集中豪雨ではない。最も恐れるべき敵は、北海上空で発達した低気圧により、グレート・ブリテン島の東沿岸で生じる高潮である(左頁のコラム参照)。
また、テムズ河は干潮・満潮の影響を受けて日常的に7メートルも水位が上下する。しかも、月に二度は「大潮(spring tide)」と呼ばれる、干満の差が最大となる時期があるが、その大潮と高潮、さらに強い風雨が重なった1953年1月31日の夜半から、翌2月1日未明にかけて、悲劇は起こった。
3メートル近い高潮に襲われた、テムズ河口一帯では2万4000家屋が倒壊、4万6000頭の家畜が流され、307人もの住人が死亡。強風により電話線が切断され、事実上、警報は一切出されなかったことも被害を大きくした。特に犠牲者数が多かった、カンヴィ・アイランドCanvey Islandという村では58人が亡くなり、1万1000人が避難した。また、この同じ嵐で、オランダでは1800人が命を奪われた。
まさに悪夢のごとき一夜であった。
この夜をきっかけに、英国政府・議会はより根本的、より効果的な洪水対策を探り始める。53年の洪水で払われた犠牲は大きく、その痛みは深刻な懸念となり、やがて国家規模のプロジェクトへとつながっていくのである。
洪水を防がなければならない。
しかし、どうやって?
洪水を防ぐ手立てとして、もっとも一般的なのは河川沿いの堤防をより高く、より堅固にすることだ。実際、1879年に成立した「the Thames River Prevention of Floods Act」(テムズ河洪水予防条例)により、堤防の強化が進められてはいた。しかし、ロンドンの西に設けられたテディントン・ロック(Teddingon Lock=水門)※から、テムズ河口までだけでも62マイル(約100キロ)。堤防の強化に努めるといっても限度がある。また、堤防が高くなればなるほど、テムズ河沿いの景観が損なわれるという問題点もあった。
1966年、ハーマン・ボンディ卿指揮のもと、まとめられたレポートが発表され、堤防の強化は進めつつ、これと並行して開閉式「バリア(arrier)」を設けることが提案された。これにより、テムズ・バリア建設に向けて、本格的に政府が動き出すことになる。
さらに1972年には「the Thames Barrier and Flood Proecion Act」(テムズ・バリアおよび洪水対策条例)が定められ、「テムズ・バリア」の名前が正式に登場。いよいよ大工事開始へのゴーサインが出たのだった。
※テディントン・ロックを境として、その東側(下流側)は干満の影響を受け、北海からの海水がまざる部分(tidal section)となる。テディントン・ロックから西(上流側)は真水で、水源までの距離は約150マイル(240キロ)。
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テムズ・バリアの建設は一大事業だった。英国の大手建設会社が複数工事にあたったほか、
回転開閉式ゲート設置にあたっては、英国における当時の最先端のエンジニア技術が用いられた。
昨年、公式オープンから25周年を迎えたが、さらに60年は活躍が可能という
調査結果が発表され、関係者を喜ばせた。


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