2010年2月4日 No.611

●サバイバー●取材・執筆・写真/本誌編集部

 

静かなる守り神
テムズ・バリア
 

 



1953年1月31日夜半。
テムズ河口を高潮が襲い、
300余名が落命するという大災害が発生、
英国民に大きな衝撃を与えた。
このレベルの高潮がロンドン中心部を襲ったら…。
その悪夢から首都を守るべく、
8年の工期をかけて建設され、 82年に完成したのがテムズ・バリアだ。
今号では、ロンドンの守り神ともいえる、
この防御システムについてお届けすることにしたい。

 

繁栄をもたらす河の別の顔

 

 命の源といわれる水。 水なくして生きてはいけぬ人類は、自然と水のまわりに集まり、やがて文明が大河に沿って誕生した。
母なる河―。しかし、その河は人に恵みを与えるばかりではなく時には残虐に牙を向いた。洪水は肥沃な土を下流にもたらし豊かな実りを約束する一方で、まるでいけにえを求めるかのように多くの犠牲者をのみこんだのだ。有史において、いったいどれほどの人々が暴れる水の中でこときれたことだろう。河は、人類にとって常に諸刃のつるぎだったといえよう。
四大文明を生んだ黄河、インダス河、チグリス・ユーフラテス河、ナイル河ほどの規模ではないものの、英国の首都ロンドンをうるおすテムズ河も、古くから発展をもたらすと同時に、しばしば洪水という形で人々に打撃を与えてきた。その氾濫のたびに、愛する者を、あるいは築き上げた富や安定した生活を奪われた人々の涙が、おびただしく流された。
歴史をひもとけば、ローマ人がグレート・ブリテン島を支配するようになってから64年後の紀元九年、史実上、初めて洪水の記録が登場する。さらに、その29年後に起きた洪水では、1万もの人が溺死したと伝えられている。 1236年の洪水では、多くの人命と家畜が失われ、ウェストミンスター宮殿(1512年の火災でほぼ焼失。跡地には国会議事堂が建てられた)の中を往来するのにボートが使われたという。また、当時の様子をいきいきと描写した日記の作者としても知られるサミュエル・ピープスは、1663年12月7日のページの中で、「昨夜、今までイングランドで記録された中でも最悪レベルの高潮にロンドンは見舞われ、ホワイトホール一帯は完全に浸水した」と記している。
この後も、定期的に洪水は発生し、例えば1774年にはヘンリー・ブリッジが流され、1848年、52年、75年、94年にもテムズ河が氾濫したとされている。仮に25年に一度のペースで洪水が起こったとすると、記録が残されるようになったここ二千年の間だけでも80回、ロンドンは被害にあっている計算になる。
ロンドン中心部で大きな被害が出た最後の記録は1928年。この時には14人が亡くなった。さらに、近年、テムズ河で起きた洪水の中でも、大規模災害として人々の記憶に残っているのが1947年、そして53年の洪水である。 まず、47年の洪水からみてみよう。
今年初頭、英国は30年ぶりという寒波に見舞われ、積雪は50年ぶりの多さともいわれたが、この大寒波との比較対象として引き合いに出されたのが、47年の冬だ。第二次世界大戦で戦争には勝ったものの、財政的に疲弊しきり、戦後2年たってもまだ立ち直ることができずにいた英国を襲った大寒波は、人々を心底苦しめたという。
47年3月、雪が解けると同時に大雨が降り、117ミリの雨量に相当する水がテムズ河に一気に流れ込んだ。メイドンヘッドでは1.80メートルも浸水した地域があるなど被害は深刻で、経済損失は当時の金額で1200万ポンド(現在の3億ポンドに相当)といわれている。
しかし、この47年の洪水をはるかにしのぐ惨事が、わずか6年後に起ころうとは誰にも予想できるはずがなかった。

 



1947年、大寒波のあと、テムズ河流域を襲った洪水の様子。
左:テムズ河上流のメイドンヘッド Maidenheadの浸水ぶりを撮影したもの。
中央:レディング近郊(テムズ河上流)のカヴァシャムCavershamのもの。
右:ミルクの配達に馬車が使われている。
(写真提供:いずれもEnvironment Agency)