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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年10月6日 No.953

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ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

ロンドン大火から350年 {Part2}

よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

ロンドン大火で燃えつきた町の復興という壮大な都市計画に携わり、シティのランドマーク「セント・ポール大聖堂」を現在の姿に再建した建築家、クリストファー・レン。建築一筋の人生かと思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち、建築家として天才的な才能を発揮した華麗なキャリアの持ち主だ。今号では英国が誇る偉大な建築家の人生をたどるとともに、ロンドン復興までの道のりを紹介しよう。
【関連記事】ロンドン大火から350年 {Part1} 燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

●サバイバー● 取材・執筆・写真/根本 玲子・本誌編集部

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英国を代表する大聖堂

ネルソン提督やウェリントン公爵など、英国の偉人が眠っていることでも知られるセント・ポール大聖堂。様々な国家的式典が行われる場所でもあり、チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃の結婚式、3年前にはサッチャー元首相の葬儀も営まれている。代々の国王と王妃が埋葬され、戴冠式などの王室行事が開かれるウェストミンスター寺院と並び称される、英国国教会の代表的な司教座聖堂だ。
この優雅で壮大なドームが印象的な大聖堂を完成させたのが、17世紀の建築家クリストファー・レンである。
1666年9月2日未明、プディング・レーンの小さなパン屋から上がった火の手は、東風にあおられて一気にシティを燃やしつくし、4日間で町を灰に変えた。焼け野原と化したシティを再建しようと、政府と市民が一丸となって新たな都市計画づくりに取り組む中、真っ先に再建プランを国王へ提出したのが、レンである。彼がいなければ、現在のロンドンの風景はまったく異なるものになっていたかもしれない。クリストファー・レンとは、一体どのような男だったのか。まずは彼の誕生時までさかのぼってみたい。
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9歳でラテン語を書く少年

レンは1632年、イングランド南部ウィルトシャーの聖職者の家庭に生まれた。オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死去。翌年に誕生したレンは、待望の息子であった。父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の一人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあった。しかし、母親は2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育つ。レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、とくに聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。国王チャールズ1世の息子、つまり皇太子(のちのチャールズ2世)も遊び仲間だったという。
体が丈夫でなかったこともあり、レンは父親と個人教授による教育を受けたのち、9歳でロンドンのウエストミンスター・スクールに進学する。この頃すでに科学の世界に魅せられ、ラテン語で父親に手紙を書くといった神童ぶりを見せていた。
レンの一族は王党派で、王室の恩恵を厚く受けていたことから、1642年に清教徒革命が勃発すると、叔父は議会派によって捕らえられ、ロンドン塔に投獄されてしまう。このためレンの父親は疎開を決心し、家族を引き連れてブリストルへと移る。レンが11歳になった頃、姉のスーザンが音楽理論家で数学者のウィリアム・ホールダーと結婚したことをきっかけに、一家は彼女の嫁ぎ先オックスフォードシャーへと居を移した。レンの義理の兄となったホールダーはレンの数学教授的な役割を果たし、彼の学術的、知的成長に強い影響を及ぼしたとされる。彼に天文学への扉を開いたのもホールダーだった。

非凡な科学者としての活躍

学校卒業後のレンはすぐに大学へは進学せず、数年を科学の広い知識を身につけることに費やした(進学を断念したのは体調が思わしくなかったからという説もある)。解剖学者チャールズ・スカバーグのもとへ赴き助手を務め、解剖学についても学んだ。なかなか優秀な助手ぶりだったのだろう、スカバーグの助手を終えた後は数学者ウィリアム・オートレッドのもとで、彼の研究結果をラテン語に翻訳するという仕事を任されている。こうして、レンがオックスフォード大学ウォダム・カレッジに進学したときには、卒業から3年の月日が経っていた。
オックスフォード大を卒業すると、レンは研究員に選出され、様々な研究に専念しはじめた。この時代のレンは人間の脳のスケッチをしたかと思えば、一頭の犬から別の犬への輸血を行う装置を発明してその実演を行ったり、月観測に没頭して地磁気の研究に勤しんだりといった具合。天文学をはじめとし、数学、解剖学といったジャンルにこだわらず、アイディアとインスピレーションの赴くまま突っ走った青年時代だった。
彼の評判は瞬く間に知れ渡り、1657年、レンは25歳の若さでロンドン大学グレシャム・カレッジに天文学教授として招かれる。また、オックスフォード大時代から物理学や科学について討論を行っていた科学者仲間とも交流を続け、彼らがロンドンでレンの講義に参席することもあった。この討論グループは、のちに現在も続く王立協会(ロイヤル・ソサエティ)に発展していく(下コラム参照)。
こうしてますます学者としての名声を高めたレンは1661年、再び母校オックスフォード大に戻る。今度も30歳に満たぬ歳で、天文学教授の職を射止めたのである。

気鋭の学者たちが集った
「ロイヤル・ソサエティ」

現存するもっとも古い科学学会で、バッキンガム宮殿へと続くザ・マルの近くに拠点を置く「ロイヤル・ソサエティ」=写真=は、正式名称を「The Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge(自然についての知識を深めるためのロンドン王立協会)」という。これはレンをはじめ、物理学者のロバート・フックや数学者のジョン・ウォリスなど、自然哲学および実験哲学に興味を持つオックスフォード大の学者たちがお互いの家や大学を行き来し、それぞれの専門知識やアイディアを交換しては議論をたたかわせ、切磋琢磨していた集まりが原形となっている。
約12名の科学者たちで構成され、「インビジブル・カレッジ(見えない大学)」と呼ばれていたこの討論会は 1660年に週1回の公式ミーティングを開始。1662年にはチャールズ2世の特許状によって王立組織に、現在では会員1400名を擁する一大組織に発展した。そうそうたる顔ぶれの創立メンバーの中でも、レンの業績と人脈が、組織の成立に大きく貢献したのは間違いないだろう。創立メンバーの一員であっただけでなく、1680~82年までは3代目会長も務めた。
ちなみに、ロンドン大学のグレシャム・カレッジ時代、望遠鏡の仕組みを学び改良を行っていたレンは、土星の輪についての理論を固めつつあったが、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイエンスに実証論文で先を越されるという悔しい思いをした。また、1982年に米アリゾナ州のローウェル天文台で、天文学者エドワード・ボーエルが発見した小惑星「レン(3062 Wren)」、そして水星にある直径221kmのクレーター「レン(Wren)」は、彼の功績をたたえて命名されている。

「建築家」レンの誕生

科学、数学、天文学の分野で学者としての地位を得たレンの興味が建築へと向かい始めたのは、いつごろだったのだろうか。
レンの生きた時代には、現在我々がイメージするような「建築家」という確固とした専門職はまだ存在していなかった。当時、建築は数学の応用としてとらえられ、高等教育を受けた人間が建築に手を出すというのはそれほど「畑違い」なことではなかったのである。レンも数学や幾何学を応用し、広場の設計や都市計画のあり方について独自の研究をすすめていた。しかし、机上の理論を実践に移すチャンスがなければ、実際の建築家としての能力を試すことはできない。そして、このチャンスは意外に早くやってきた。
1661年、当時ポルトガルからイングランドに割譲されたばかりの北アフリカの港、タンジールの防衛強化工事について依頼を受けたのだ。しかしレンは、オックスフォード大の天文学教授の職を得たばかり。健康上の懸念もあり、この依頼を断っている。
だが2年後、レンが建築へと傾倒していく重要な転換期が訪れる。1663年、当時バロック建築の最先端を行っていたローマに渡ったレンは、彫刻家で建築家でもあるイタリア・バロック様式の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニと会い、古代ローマ時代に建てられたマルケッルス劇場の調査を行う機会を得たのだ。
そして同年、イーリー司教だった叔父より、ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジのチャペル設計の依頼を受ける。これが、レンの建築家としての第1号の仕事となった。
続いて彼は、オックスフォードにあるシェルドニアン劇場の設計にも着手。この建物は前述のマルケッルス劇場の影響を大きく受けたデザインとなった。また1665年には、パリに長期滞在してバロック建築について研究を深めながら、フランドルやオランダにも足を運ぶ。実は、これには単なる学問以上の目的があった。当時レンのもとには、一大プロジェクトが舞い込んでいたからである。

大災害とともに訪れたチャンス

1666年に起きたロンドン大火の様子。
中央で勢いよく燃えているのがセント・ポール大聖堂。
© Museum of London
1660年に王政が復古すると、国王チャールズ2世は老朽化の進んでいたロンドンの「シティ」のランドマーク、セント・ポール大聖堂を蘇らせるため、本格的な修復計画に乗り出した。7世紀初めに建てられたセント・ポール大聖堂は、幾度もの落雷や火災の被害を受け、再建・拡張が数回行われていたものの、予算不足で老朽化がすすむばかりであったのだ。1662年には建物の状態を調査するため勅定委員会が設立され、レンは修復計画の準備を行うよう要請を受ける。彼はこのために、パリで建築の研究に取り組んでいたのである。
そして、ロンドンにとって運命の日が訪れる。
レンの設計プランは1666年8月末に認可されたが、作業に取りかかる間もなく、9月2日未明にロンドン大火が発生。4日間に渡る猛火でシティの3分の2が焼け野原と化し、大聖堂は修復どころか取り壊しを余儀なくされるほどの壊滅的ダメージを受けてしまう。鎮火後まもなくチャールズ2世とロンドン市長により、識者、権力者6人からなる再建委員会が結成される。レンはもちろんその一員となった。
大火という災害によって、レンの仕事は単なる「建物の修復」から「都市再建」という巨大なプロジェクトに膨れ上がる。予期せぬ形ではあったが、これまでは思い描くだけだった都市計画を実現させる絶好のチャンスが到来したのである。火災発生後10日と経たないうちに、レンはチャールズ2世に壮大な再建プランを提出する。これはイタリアの都市をモデルに、主要となるモニュメントやピアザと呼ばれる広場から、街路が放射状に伸びる、バロック様式の「光」の構造を取り入れたものだった。
しかし生憎なことに、この巨大プロジェクトは国王と枢密院によって承認されたものの、生活を優先して再建を急ぎたいシティ住民の反対を招いた。地主と所有権をめぐって紛争が起こるなどしたため、結局採用されずに終わってしまう。もし、レンの構想が実現されていたとしたら、今日のロンドンはパリやローマのような華やかで「大陸的」な顔をもっていたかもしれない。

夢の大型ドームを実現

レンが提出したセント・ポール大聖堂の設計案。左から第一案と第二案、最終的に採用が決定された第三案。
夢のシティ復興プランは諦めざるを得なかったが、レンは災害の再発を防ぐ都市づくりのため、法整備に着手する。まず、火事調停裁判所を設けて家主と借家人の利害調停を行うようにし、建築規制などを盛り込んだ「再建法」をスピード成立させた。
これには、シティに持ち込まれる石炭に課税し公共施設の再建に充てる/新築される建物はすべてレンガもしくは石造りにし建築認可を義務付ける/防火のため主要な通りの幅に規制を設ける/建物の階数を規制する、といった内容が盛り込まれていた。テムズ河沿いに集中していた煙害や悪臭をもたらす工場群を、市壁の外に移転させることにしたのも彼だった。これらは現代にも通用する立派な再建策であり、ここでもレンは学問のジャンルを超えた「天才」ぶりを発揮している。
レンの采配によりシティは急速な復興を遂げ、今日に続く大都市ロンドンの中核が形作られていった。火事が日常茶飯事だったという町は「防災都市」として生まれ変わり、その後大火災が発生することはなく、人々に恐れられた疫病のペストすら町から姿を消していった。
しかしその一方で、彼が大火前から携わっていたセント・ポール大聖堂自体の再建は思ったように運ばず、ろくな準備もはじめられないまま5年近い歳月が経過していた。これは、国王をはじめ聖堂参事会や聖職者たちからの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したことによる。レンは聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームは必須と考えていたが、長い尖塔やラテン十字型といった伝統にとらわれる聖堂参事会や聖職者からは悉く反対に合う。時間と労力が必要以上にかかり、レンの苛立ちは頂点に達していた。
結局、第一案、第二案を却下されたレンは、3度目の設計案として、すべての意見を取り入れた誰もが納得するデザイン図を提出して着工許可を得た。そして建設が進むにつれ、囲いを立てて現場を見られないようにし、そのままの設計図を提出していたら賛同が得られなかったであろう理想の大型ドームを勝手に完成させてしまうという「荒技」に出たのである。
現在でも世界有数の規模を誇る、高さ111・3メートルのドームは、レンの思い描いていた「光の都市」の中核となる建物であった。巨大プロジェクトを目の前に何度も挫折を味わった中で、「これだけは何としても作り上げたい!」という思いがどれだけ強かったかがわかるだろう。セント・ポール大聖堂には、ほかのレンの建築物には見られない建築家としての意地と誇りが秘められているのである。

レンとの意外な交流!?
ニュートン「世紀の理論」の誕生裏話

万有引力の法則を発見した天才科学者アイザック・ニュートン=右絵(1643~1727)。他人をおおっぴらに賞賛することはほとんどなかったという彼だが、万有引力の法則と運動方程式について述べた著作『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』の中で、レンを「もっとも優れた数学者の1人」と記している。
ちなみに、ニュートンがこの大著を仕上げたきっかけは、意外なことにレンも関係している。
1684年1月のある日、当時学者や作家たちの社交場のような機能を果たしていたコーヒー・ハウスのひとつに、建築家として働き盛りのクリストファー・レン、そして彼の助手を務めたこともある物理学者のロバート・フック、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーらが集い、惑星の軌道に保つ力の向きと強さについて討論していた。
このとき、最初に「これは太陽に引っ張られる力で、強さは太陽からの距離の2乗に反比例(逆2乗の法則)すると思う。しかしその証明ができなかった」と発言したのがレン。
これに対してフックは「逆2乗の法則からすべての天体の運動の法則が証明される」と自信満々の発言をしたものの、実際にはその証明を提示しなかった。
フックが本当に証明できるのか疑問に思ったハレーは、その後ケンブリッジ大に赴き、ニュートンに同様の質問をぶつけてみたところ、はるか昔に万有引力の法則(=逆2乗の法則)に気付いていた彼は「惑星の軌道の形は楕円だ」と即答した。事の重要性に驚いたフックは、ニュートンにまとまった書物を記すよう説得。ニュートンはハレーの様々な質問に対し、計算や証明を続けながら、大著『プリンキピア』の構想を練っていったという。
しかし同著が発表されると、ニュートンをライバル視していたフックは「この内容は自分が以前ニュートンに文通で知らせたものだ」と怒り出し、大論争に発展。俗世離れしているように思える学問の世界も、実社会に劣らず人間臭さに満ち満ちているという見本のような話である。
レンはこのエピソードの中では脇役といった感じだが、建築家として第一線を行く彼が天文学への興味を失わないばかりか、世紀の科学者ニュートンに劣らない次元の研究に携わっていたことがうかがえて興味深い。

愛する者を次々に失う

息子クリストファーの言葉が刻まれた、
レンの墓碑(写真奥)。
大聖堂の地下納骨堂にある。
ロンドン再建委員会での仕事を機に、1669年、王室建築総監に任命された37歳のレンは、建築家としての名声を得たおかげもあったのだろうか、長年オックスフォードシャーで交友を深めていたコッグヒル卿の娘フェイスと結婚する。
子供時代からの知り合いで、レンの4歳年下だったというフェイスがどのような人物であったのかについては、残念ながらほとんど記録が残されていないが、夫婦仲は円満だったようで、プレゼントの腕時計とともに妻宛に送ったレンの熱烈なラブレターが残されている。
だが、2人の結婚生活はたった6年で終焉を向かえる。2人の間には長男ギルバートが誕生するが、病弱のため1歳半にならないうちに夭折。次に誕生した息子は父親の名を引き継ぎクリストファーと名付けられたものの、出産後にフェイスが天然痘にかかり他界してしまうのである。子を亡くし妻を亡くすという、父親の若き日をなぞるような悲運の連続に、レンはさぞかし落胆したことだろう。
それでも、愛妻の死から約1年半後という比較的早い時期に、レンはフィッツウィリアム卿の娘ジェーンと再婚する。妻を亡くした孤独感には、さすがの天才も耐えがたかったと見える。加えて、1人息子のクリストファーに母親を与えてやりたいという気持ちも強かったのかもしれない。
しかしながら、この結婚生活はさらに短命に終わった。2年後、ジェーンも2人の子どもを産んだ後、結核でこの世を去るのである。彼はその後、独身を貫いている。

天才的建築家として活躍

レンが最後までこだわった大聖堂内の大型ドーム。
ドーム内にモザイクを施す案は叶わず、
代わりに天井画が描かれた。
私生活では不幸続きであったレンだが、この時期から晩年までの建築家としての活躍には目覚ましいものがある。まるで悲しみを追い払うために、必死に仕事に打ち込んでいたかのようにも思える。
セント・ポール大聖堂の建設が進められる間にも、大火で焼け落ちた50を超える教区教会の再建に取りかかり、ロンドン大火とその後の復興を記念した塔「モニュメント」のほか、「ハンプトン・コート宮殿」、「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ図書館」、そして若き日の天文学者としての素養と建築家としての才能の結晶ともいえる「グリニッジ天文台」など、数えきれないほどの建物の設計を手がけた(下コラムで一部紹介)。英国を代表する建築家として、ついにその地位を不動のものとしたのだ。イタリアやフランスでの研究をもとに、劇的な建築空間を演出する「バロック建築」を英国に最初に取り入れたのも彼である。
もともと数学や天文学、幾何学を専門とする科学者であったレンは、数字や平面を立体的に捉え思考することに人一倍長けていた。また彼のバロック的空間構成には、数学的思考をベースにした彼自身の美的解釈が反映され、これまでにない独創性や大胆な試みが用いられた。彼の建築における天才的センスは、科学者としての素質に裏打ちされたものだったのである。

ロンドン詣でが趣味の晩年

1710年、レンの最高傑作となるセント・ポール大聖堂が完成する。着工許可から約35年、彼は76歳になっていた。父親の名を引き継いだ長男クリストファーも建築家となるべく教育を受け、成長してからは父とともに大聖堂の建設に関わっており、完成時には彼が最後の石材を頂に置いたという。数々の難題を乗り越え、理想の聖堂を作り上げたレンの感慨、誇らしさはひとしおだったであろう。
1718年、血気盛んな建築家ウィリアム・ベンソンに、高齢を理由に王室建築総監の座を明け渡すよう迫られ引退することになるが、引退後もハンプトン・コート地区にある自宅から定期的に大聖堂を訪れては、その美しい姿を眺めるのを晩年の楽しみのひとつにしていたという。
1723年2月、91歳になっていたレンはいつも通りロンドン詣でに出かけた帰りにひどい風邪を引き、数日間床についたまま自宅で息を引き取る。使用人が彼を起こそうとしたところ、すでに冷たくなったいたのを発見したとされている。3月5日、レンの棺はのちに多くの偉人たちが葬られることになるセント・ポール大聖堂の地下納骨堂に納められることになった。彼の最高傑作は、また彼の墓標ともなったのである。
若き日には科学の発展に貢献し、その後の生涯を建築を通してロンドン復興に捧げたクリストファー・レン。彼の墓碑には、息子クリストファーによる「我がためではなく、人々の幸福の為に生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。父親に育てられ、その仕事ぶりを間近で眺めてきた息子の心からの賞賛の言葉であったろう。

あそこもここも!
レンの遺した作品を一部紹介

ハンプトン・コート宮殿の東面
Hampton Court Palace(ロンドン郊外)

1689~94年にかけて、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に建て替えられた東面。噴水のある中庭「ファウンテン・コート」もレンによるデザイン。

オックスフォード大学クライスト・チャーチのトム・タワー
Tom Tower(オックスフォード)

1982年完成。中央の塔(トム・タワー)にある大鐘は、当時の門限だった21時5分に101回鳴る。101という数は、カレッジ創設時の学生数といわれている。© gianfrancodebei

グリニッジ天文台
Royal Greenwich Observatory(ロンドン)

1675年にチャールズ2世によって設立された王立天文台。世界時間の基準となる「グリニッジ標準時」が走る。© Royal Greenwich Observatory

ケンブリッジ大学 トリニティ・カレッジの図書館
The Wren Library(ケンブリッジ)

1684年完成。英国に5館存在する納本図書館(流通された全出版物の義務的な納本を受ける権利を有する図書館)のひとつ。 © Andrew Dunn

セント・ジェームズ教会
St James's Church, Piccadilly(ロンドン)

1684年完成。レンが愛した教会。1940年に第二次世界大戦で激しい爆撃を受け、その後修復された。

ロンドン大火記念塔
The Monument(ロンドン)

レンとロバート・フックが設計した、ロンドン大火の記念塔。1677年に完成、展望台がある。高さは約61メール。

旧王立海軍学校
Old Royal Naval College(ロンドン)

1694年に負傷した船乗りたちを収容する「グリニッジ・ホスピタル」として建造されたが、1869年に海軍学校に変わった。現在はグリニッジ大学の一部になっている。 © Bill Bertram

※本特集は、2010年9月30日号に掲載したものを再編集してお届けしています。