マーブルアーチ裏の閑静なエリアに現れた日本語の看板。実際に見た時の衝撃は大きい。

10月23日金曜日、「くろぶたマーブルアーチ店」から「売春婦、あります」「やりまん」両方の看板が撤去され、ここに70日にわたった忌々しい戦いに終止符が打たれた。全てが終わった今、綺麗さっぱり忘れて本業に戻りたいところだが小紙ジャーニーは9月上旬、この店のことを紙面で取り上げ読者に顛末報告の予告をしていた。よってここに報告する。捉え方によっては自画自賛の胡散臭さが漂う。この2ヵ月以上、先頭に立って戦ってきた身だ。多少の自賛は許されたい。予想以上に時間を要した我々の戦い方を不満に思う人もいるだろう。一方で今後、誰かが似たような局面に接した際のヒントになる要素も含んでいると自負する。ここから先は興味のある方だけ読んでくれたら良い。

入電あり

8月13日夕刻。編集部の電話が鳴った。電話の主は日本人女性だった。受けたのはジャーニー編集長、石野斗茂子。「マーブルアーチにある『くろぶた』という店に『売春婦、あります』など猥褻な日本語で書かれたとんでもない看板が掲げられている。なんとかして欲しい」という訴えだった。なぜ、うちのようなミニコミ紙に連絡してきたのか尋ねると「大使館や警察に通報したが取り合ってもらえない」とのことだった。
  子細を聞いた後、編集長が私(発行人:手島功)の元に相談に来た。話を聞いた時の率直な感想は「面倒なことに巻き込まれたくない」というごく普通のものだった。「誰かが言えないでいることを言わされる愚を避けよ」(カリン・アイルランド:米国の作家)という賢者の言葉を知っている。また「ネズミの相談(bell the cat)」の例もある。猫にいつも酷い目に遭わされているネズミたちが対策会議を開く。誰かが「猫の首に鈴をつければいい」と提案する。「素晴らしいアイディアだ」と皆絶賛する。では誰が猫の首に鈴をつけに行くかとなると急に皆、黙り込んでしまう。結局、手を挙げるネズミは出てこず「猫の首に鈴」計画は頓挫する。「実現しない良案は愚案」というイソップ寓話だ。手を挙げれば面倒に巻き込まれるのは明白だ。その時我々に「くろぶた」と刺し違える気持ちは微塵もなかった。
「私、ちょっと見てきます」と言い残し編集長の石野はその日の夕刻、一人カメラを持ってマーブルアーチに向かった。行動力のある女性だ。この時、石野が動かなければ我々が立つことは永遠になかった。石野が編集部に戻って来た時、その表情は明らかに怒気を含んでいた。
「想像以上にひどいです」。
彼女が撮影してきた写真を見た。看板は青と赤のネオン管で作られ夕暮れの街に煌々と輝いていた。ショッキングな映像だった。さらに衝撃的だったのは彼女が気丈にも店内にいた男性店員に「なぜこんな看板を掲げるのか?」と詰問した際、投げ返された言葉だ。「今は21世紀だ。言論の自由だ」。
その晩、私も現場に行ってみた。既に陽も落ち、閑静な高級エリアに佇む同店の周囲もすっかり闇に覆われていた、しかしこの店のネオン管は写真で見るより遥かに大きく、眩いばかりの強烈な蛍光色を闇に放っていた。驚きとともに激しい怒りがこみ上げてきた。決して写真では伝えきれないおぞましさがそこにあった。こんな侮辱的な形で母国語が使われるなど想像だにしなかった。親を愚弄されたかのような怒りが湧き上がった。我々が初めの意に反して戦う決意を固めた理由を問われれば答えは極めて単純だ。この目で実物を見てしまったからだ。軽率なネズミは鈴を掴んで立ち上がってしまった。ただし、我々の敵は猫ではなく「くろぶた」だった。

袋小路

後日、「くろぶた」の共同経営者兼ヘッドシェフのスコット・ホールズワース氏(40)に宛て意見書を送付した。かつてメイフェアの「ノブ」でヘッドシェフをつとめたオーストラリア人だ。あくまで理性的かつ冷静に交渉する努力をした。ここに内容を要約する。「掲げられている日本語は恐らく貴殿が思っているより遥かに挑発的で侮蔑的な意味を持っている。日本の食文化でビジネスをしながら日本の文化を愚弄するのはなぜか」といったものだ。これに対してホールズワース氏から回答はなし。
小紙8月20日号に『「売春婦、あります」は何のため?』という記事を掲載した。さらに9月10日号では1ページ全面を使い、看板に書かれた不快語を隠すことなくでかでかと掲載した。この全面告知には2つの狙いがあった。一つは読者に「くろぶた」の愚挙を知ってもらい怒らせることだった。次に送るホールズワース氏への抗議文に「在英邦人みんなが激怒している」という一言を入れる必要があったからだ。幸い多くの在英邦人が不快感を抱き、怒りの感情が湧き起こった。中にはその怒りを電話やメールで我々にぶつけて来る迷惑な読者もいた。もう一つの狙いは弊社よりもっと大きな存在、日本の大メディアや大使館が動いてくれることを期待してのものだった。残念ながらこの目論見は外れた。援軍を期待できない中、心細い戦いが始まった。
この9月10日号のジャーニーと共に再びホールズワース氏に警告文を送付した。「貴殿のように技術もあり高名なシェフが、こんな馬鹿げたことでさらに有名になる必要があるのか?」「今行動しなければ後日、きっと大きな代償を払うことになる」と書き、早急に看板を下げるよう要請した。しかしこれも無視された。そこで今度は「くろぶた」を紙面で取り上げ高評価を与えているタイムズ、ガーディアン、デイリーテレグラフなどの高級紙やタウン誌の編集部宛てに手紙を書き協力を要請した。しかし返事をくれたのはタイムアウトだけ。それも「気に留めておきます」程度の素っ気ないものだった。オープンテーブルやトリップアドバイザーなどの口コミサイトに至っては我々の投稿に対し「誹謗中傷は罰せられることがあります」といった間の抜けたメールを送ってくる始末だった。我々は早くも袋小路に迷い込んだ。

立て直し
何も知らない女性客は時に看板の下に座らされ、嘲笑の的となる。

9月半ばまで空回りの日々が続き無力感が漂い始めた。
  ふと立ち止まって考えた。なぜ、誰も相手にしてくれないのか。なぜ誰も怒りを共有してくれないのか。自分の身に置き換えて考えてみた。例えば自分が東京某所にある交番に勤務する警察官だとする。そこに日本に暮らしているイスラム教徒の外国人Aさんが駆け込み「アッラー神や預言者ムハンマドを冒涜する看板を掲げているレストランがある。とんでもないことだから叱って欲しい」と直訴する。私はとりあえずレストランに行く。確かに大きな看板が輝いている。しかし看板はアラビア文字で書かれている。私はアラビア語が読めない。Aさんは「他のイスラム教徒も皆怒っている。早く撤去するよう店に言ってくれ」と迫る。しかし私はどうしてもAさんと同じ怒りを共有できない。イスラム教のことがよく分からないのだ。そこには埋めがたい温度差が存在する。所詮、他人事なのだ。
この考えに至った瞬間、突破口が開いた。「人は利で動く」と言う。であれば逆も然り。人は自分に降りかかる不利益でも動くのではないか。そう思い今回の件をもう一度考え直した。日本におけるイスラム教徒のように英国在住の日本人など豆粒のような存在、つまりマイノリティだ。であればマジョリティであるイギリス人を当事者にし彼らの頭上に大量の火の粉を降り注げばいい。
ではイギリス人を怒らせるにはどうしたらいいか。ネズミは小さな脳ミソをフル回転させて考えた。「くろぶた」が女性客や女性従業員のことを「売春婦」扱いしている。看板は意図的にマイナーな外国語(日本語)を使っているため、自分たちが店から売春婦扱いされていることに気づく女性はいない。しかし日本語が分かる人の目には店内にいる女性客も女性従業員も全て売春婦と映る。そして女性客は皆、店側から売春婦扱いされ密かに嘲笑されている。そうとも知らず客は多額の金を店に支払っている。「くろぶた」は女性客や女性従業員のみならず全女性を愚弄し続ける女性差別主義者である。さらに日本語を悪用し、日本人をも辱める最低の人種差別主義者である。
「日本人を愚弄する人種差別主義者」では何も動かすことができなかった。そこで「女性を愚弄する性差別主義者」に置き換えることで被差別者の対象を巨大化させた。そのため仕方なく日本語侮辱の訴えは2次的なものに格下げした。この路線を元に新たな告発書を作成、看板が映った店の写真を添えて今度は食いつきの良さそうなタブロイド紙や人権団体等約30ヵ所に一斉送付した。メールでは読まれない危険性があるので全て封書で送った。ラグビーW杯で日本代表がスコットランド戦を翌日に控えた9月22日(火)のことだ。ここから先、我々は日本代表の勢いを借りるように前へ前へと突き進んでいく。

援軍来たる

9月28日月曜日。「City AM」という日刊フリーペーパーの女性記者から「詳しく聞かせてほしい」と電話が入った。翌29日、早速写真入りで「くろぶた」の記事が掲載された。残念ながらそれは「豪州人シェフVS在英邦人のバトル」のように面白おかしく書かれた内容だった。それでも「くろぶた」の暴挙が初めて多くのイギリス人の目に触れるきっかけとなった。同29日午後、巨大タブロイド紙「ザ・サン」と「フォーセット・ソサエティ(The Fawcett Society:以下FS)」という女性人権団体から連絡が入った。この女性人権団体が事件解決に向けて大きな役割を果たしていくことになる。


City AM(左)とEvening Standardに掲載された記事
彼らはまずツイッターを駆使して会員たちに「くろぶた」の暴挙を拡散した。それを目にした人たちがたちまち声を挙げ「許せない」「ボイコットすべし」とエスカレートして行く。ボイコットの声は乾いた大地を焼く野火のごとく猛烈な勢いで広まっていった。同時にFSはイヴニング・スタンダード紙(ES)に記事にするよう促した。怒涛の如く寄せられる抗議にさすがの「くろぶた」も10月2日(金)、とりあえず「売春婦、あります」の看板を撤去した。追い打ちをかけるようにES紙が10月8日(木)に「くろぶた事件」を取り上げた。ご覧になった方も多いと思う。この時点で残る赤い看板の撤去も時間の問題だろうと安心していた。ところが…

最後の一撃

その後、毎日現場に行ったが赤い看板は朝も夜も醜悪な輝きを放ち続けていた。ES紙の記事は有効だったが一つ大きな欠陥があった。記事ではまるで両方の看板が近く撤去されるかのように書かれていた。そのため取材をしていた「ザ・サン」や「デイリーミラー」などのタブロイド紙が相次いで撤収してしまった。さらにFSの動きも沈静化してしまったように見えた。「くろぶた」はこれを好機と捉え、素知らぬ顔で赤い看板を点灯させ続けたものと思う。再びまずい状況となったが我々も疲弊していた。湿った大地に再び火を起こすのは容易ではない。この辺で妥協してもいいのではないかという気持ちが芽生えていた。そんな葛藤の中、我々の背中をグイグイと押してくる存在があった。ラグビー日本代表の姿だ。南アフリカ戦。最後まで諦めずに前へ前へと突進する彼らの姿が私にも突進を促した。ここで引き分けを選んだらきっと後悔する。それに志半ばでは紙面で報告もできない。我々はもう一度、ゴールライン目指して押し直すことにした。そして再び原点に戻って考えた。「人は自分に降りかかる不利益で動く」。警察もカウンシルも動かない。しょせんは他人事だからだ。ではこれだけ事が大きくなって実際に火の粉が降りかかり、迷惑を被る人は誰か。そして遂に「その人」に辿り着いた。
「大家(ランドロード)」だ。
早速「くろぶた」が入居しているビルの所有者を調べた。この一帯は大手デベロッパーが所有していた。この企業に電話を入れて責任者の名前を聞き出し、これまでの経緯全てを書き写真を添えて郵送した。あとは天に祈りつつ、固唾を呑んで吉報を待った。
そしてその時が来た。

終戦の時

10月20日(火)夜、いつものように確認に行った私の目に飛び込んできたのは70日間見続けてきた風景ではなかった。赤いネオンが消され、閉店したのかと見間違うくらいに薄暗くなった「くろぶた」の姿だった。目を凝らして店内をよく見た。ネオン管はまだ残っていてスイッチだけが消されただけのようだ。翌朝(21日)も行ってみた。やはりネオンは消えていた。
誰が動いたのか。FSか、大家か、そう思っているところに一通のメールが届いた。大家からだった。彼らもES紙の記事を読んで店子(テナント=くろぶた)が起こしている騒動を知った。しかし記事が看板の撤去を示唆していたため解決済み事項とされた。そこに我々の手紙が届いた。問題が今も継続していることに驚いた大家は担当者を「くろぶた」に派遣。担当者は赤い看板を確認するとその場で店に撤去するよう厳命を下した。
大家からのメールには「今週末までに電気業者が来てネオン管を完全撤去すると言っている。もしも彼らが撤去を拒否した場合は提訴する。その際、送ってもらったこの明快かつ理路整然とした手紙も一緒に提出したいと弁護士が言っているが構わないか」と書かれていた。手紙はジャーニー勤続27年の英人スタッフ、リナ・パンチャルが担当した。彼女が紡ぎ出す冷静で知的な文章は常にメディアや人権団体を動かす原動力となった。「もちろんだ。必要なら何でも協力する」と回答した。
10月23日金曜午後9時半、遂にネオン管が撤去されたのをこの目で確認した。一方この時、女性人権団体「フォーセット・ソサエティ」は、ES紙の記事中にあった「これは都会のアートだ」「看板撤去の費用はFSが負担してくれるのか?」というホールズワース氏の挑発的なコメントに激怒し、次の攻撃準備を進めていた。我々の方から終戦の報を入れ、総攻撃は直前で中止された。看板撤去に多大な貢献をしてくれた「フォーセット・ソサエティ」に、この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
ここに70日間に及んだ「くろぶた戦争」は終結した。ホールズワース氏は反省などしていないだろう。店は今も営業を続けている。実は途中から看板の撤去だけにとどまらず、同店を閉店にまで追い込もうと決めていた。しかし今、これ以上の深追いは控えたい。我々には本業がある。今後のことは賢明なイギリス人たちに託したい。

戦いを終えて

全てお話しした。こちらとしては顛末を報告すると宣言してしまったのでそれを実行したまでだ。しかし自慢話、自己陶酔と捉えられても仕方がない部分もある。ここで当欄を終えておけば少しは読者にも褒めてもらえるのかもしれない。しかし最後、非難を受けることも覚悟の上で2つだけ言わせていただきたい。

一つ。
我々が人権団体やメディアと共に「くろぶた」に総攻撃を仕掛けていた時ですら「記者はことの重大性を理解しているのか」「もっと論理的にやれ」「報告がない」など我々を批判するメールが数通届いた。断言するが我々ほどこの問題に真剣に向き合った者は他にいない。通勤路でもないのに現場に足を運んだ回数は40回を超える。「言論の自由」とはこういった不愉快な投書すら正当化するのか。背中から弾丸を浴びせられた気がした。これがどれだけ我々の士気を挫き苦しめたことか。心当たりのある人の猛省を促したい。怒りをぶつける相手が違う。方向音痴は時に激しく人を傷つける。


10月23日金曜日、すべてのネオン管が
撤去されたことを確認した。
二つ。
期待を裏切るようで申し訳ないが、こんな大変なことは二度とやらない。自ら背負ってしまった荷は想像以上に重かった。しかも所詮、愚者が勝手に振り上げた拳を下ろさせたのみでマイナスがゼロに戻っただけだ。そこには強豪を破ったような達成感も歓喜もない。逆恨みによる報復も怖い。女性ばかりの編集部諸君に不安な思いもさせてしまった。在英邦人の社会にはこれからも面倒なことが起こるだろう。どうかその時は他を当たって欲しい。我々は人権団体ではない。警察でもない。町役場でも火消し職人でもない。吹けばぶっ飛ぶ小さな出版社だ。今回お人好しのネズミは軽率にも自ら手を挙げ、幸運にも「くろぶた」の首に鈴をつけることができた。でも、心底疲れました。おわり。

(文・写真:手島功)

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