黒ビールの王様 ギネスでスローンチャ!

■漆黒に近いルビー色の液体にオフホワイトの泡がなめらかな層を成して浮かび 口に含むと独特の苦味が広がる――
同じビールとはいえ、黄金色をしたラガーとは全く異なる飲み物だ。
ダブリンで生まれ、今では世界中で愛され飲まれるようになったギネス。
3月17日の聖パトリックの日を1週間後に控え、今号では、この黒ビールについてお届けすることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

生まれついてのラッキー・ボーイ

酒は天の美禄なり。

中国の古い書物は言う、「酒は天からの賜り物」であると。人類がこの「美禄」を天から授かったのはいつのことか。特定するのは難しいようだが、紀元前3千年ごろには古代エジプトでビールが飲まれるようになっていたことが分かっている。そして1857年、人類はビール醸造の過程を科学的に解明することに成功。フランスの科学者、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)が、アルコール発酵は酵母(イースト=yeast)の働きによるものであることを発表。以降、ビール業界は科学の助けを得て、偉大なる飛躍を遂げることになったのだった。

しかし、パスツールが酵母の正体を発見する100年も前に、後に世界で愛飲されるビールの製造に着手した人物がいた。その名をアーサー・ギネス(Arther Guinness)=写真=という。1759年のことである。

アーサーの父、リチャード・ギネスは英国国教会系であるキャシェル大主教(Archbishop of Cashel)アーサー・プライス師の執事を務めていた。リチャードがこの職を得てから3年後の1725年9月28日、ダブリンの南西郊外に広がるキルデア州(County Kildare)のセルブリッジ(Celbridge)でアーサーは産声をあげた。誕生時、プライス師が名付け親となってくれたことが、アーサー・ギネスが幸運の持ち主であることを証明する最初の出来事となったといっていいだろう。19歳の時にプライス師の執事となり、8年間同師に仕えたアーサーに、100ポンド(現在の約7千500ポンドにあたる)を遺してくれたからだ。この100ポンドがなければ、今ごろ、パブにはギネスという商品が置かれていなかったかもしれない。

9千年のリース契約

100ポンドの遺産を受け取ってから3年後の1755年、アーサーはキルデア州のリークスリップ(Leixlip)で醸造業者としてのスタートを切る。キャシェル大主教プライス師に仕えていた父リチャードは、この大主教の土地で働く者たちのためにビールを醸造するという役目も担っており、アーサーはビール醸造のノウハウを当然のごとく学んだと考えられる。

リークスリップでは伝統的なエールを造ったが、小さな醸造所で満足するアーサーではなかった。4年後、弟のひとりに醸造ビジネスを任せ、リークスリップから17キロ離れたダブリンに向かったのだった。

1759年、アーサーはダブリン中心部からやや西にはずれた所にある、セント・ジェームズ・ゲート(St James's Gate)の使われなくなった醸造所に目をつける。

そして、頭金100ポンド、年45ポンドの賃貸料で、9千年リースという途方もなく長い契約を結んだ。醸造には、すぐ側を流れるリフィ川(River Liffey)からの水ではなく、ダブリン南郊外にあるウィックロウ山地(Wicklow mountains)から引いた水が用いられたが、この9千年リース契約には水道使用の権利も含まれていた。

ビール醸造の激戦区、ダブリンでの本格的な戦いが始まった。61年、オリヴィア・ウィットモー嬢と結婚し、私生活でも落ち着いたアーサーは、ビール造りに励む。67年にはダブリンの醸造業者組合の長に選出され、69年には、ギネス醸造所産のビールが英国に初めて出荷されるに至った。

しかし、すべて順風満帆とはいかなかった。ダブリン市はアーサーに水道税の支払いを求め、水道使用の権利を含む賃貸契約を結んだと主張して水道税支払いを拒否するアーサーと対立。この水をめぐる攻防は年々激しくなり、75年5月16日、ついにダブリン市は実力行使に出る。ギャングまがいの作業員たちを送り込み、水路を埋めようとしたのだった。

怒りに燃えるアーサーは、作業員からツルハシを奪うと、それを振り上げ、役人たちに襲い掛からんばかりの勢いで抵抗した。この抵抗のかいあって、水路は埋め立てられずにすんだのである。この後、さらに9年間の法廷闘争が繰り広げられるが、84年、ダブリン市とアーサーの間で和解が成立。アーサーはようやくビール造りに専念できる日々を取り戻したのだった。

「上面発酵」 と 「下面発酵」

ビールを分類する際、酵母の種類と醸造法の違いによって分ける方法が良く知られている。

上面発酵
    • ●「サッカロマイセス・セルビシエ」という出芽酵母を用い、常温(摂氏20度程度)、かつ短時間で発酵させる。炭酸ガスが多量に発生し、酵母が液の表面に浮かび上がってくるため「上面」の名がついた。
      ● 大規模な設備がなくともビールを造ることができる、昔ながらの醸造法。
      ● 硬水が向いているとされる。
      ● 代表的なビールはエール(ale)。ただ、エールと一口にいってもその種類はきわめて多く、ポーターや、ポーターを「より強く(stouter)」したスタウト(ギネス・ビール他)などもエールの仲間に入る。

  • 下面発酵
    • ● 「サッカロマイセス・カールスベルゲンシス」という酵母により、低温(摂氏10度以下)の中、比較的長時間発酵させることが必要。発酵の終盤になると酵母が液の下層に沈むので「下面」の名がついた。
      ● 保冷・貯蔵設備が必要であるため、広く普及するようになったのは19世紀以降。もともとはドイツのバイエルン地方で行なわれていた醸造法で、秋の終わりに洞窟の中に氷とともに酵母入りの麦汁を貯蔵(ドイツ語で「lagern」)し、翌年の春に取り出してビールとして飲んでいた。
      ● 軟水が向いているとされる。
      ● 英国のラガー(lager=英語ではラーガー)、チェコのピルスナータイプ、ドイツのピルス、日本の主要ビールなどがこれに含まれる。大量生産向け。
  • 殺菌効果もある、ホップ。

    狩猟場で誕生した ギネス・ブック

    日本では通称「ギネス・ブック」と呼ばれる、世界の記録を集めた「ギネス・ワールド・レコーズ(Guinness World Records)」は、ギネス社の社長(当時)だったヒュー・ビーバー(Hugh Beaver)の思いつきから生まれた。ビーバーが友人たちとアイルランドで狩猟を楽しんでいた時、獲物のうち一番速く飛べる鳥はどれかという議論になったが、なかなか答えが出ず、こういう記録を集めて本にすれば売れるのではないか、と考えたのがきっかけという。

    ロンドンでリサーチ業を営んでいた、双子のノリス&ロス・マクワーター(Norris & Ross McWhirter)が調査と出版を請け負い、1951年に初版が完成。なお、現在では生命にかかわる危険をおかす記録(早食い、早飲み、大食いなど)は削除されている。

    強運を誇るギネス・ファミリー

    アーサーが水争いに時間と労力を割かれていた間に、ビール業界に新しい波が起こっていた。1722年に初めて造られ、やがてロンドンのコヴェント・ガーデンにあったマーケットで働く荷物運搬人(porter)たちの支持を受け、人気が高まったことから「ポーター」と呼ばれるようになったといわれる濃褐色のビールが、70年代にはダブリンにも輸入されるようになっていたのだ。

    アーサーも流行に遅れまいとロンドンから職人を雇い入れ、ポーター醸造に着手、78年には、ポーターを初出荷した。

    99年、それまで並行して生産していたダブリン・エールの醸造をやめ、ポーターに一本化することを決定。これは当時のビール業界にあっては思い切った決断だった。いわば新参者といえるポーターに絞り、安定した収入源となっていた伝統的エールと決別することは、企業としては大きな賭けだったと言われる。

    4年後の1803年1月23日、この賭けの勝負を完全に見届けることなく、アーサー・ギネスは永眠した。しかし、臨終の床にあったアーサーには「勝ち」が見えていたのではないだろうか。オリヴィア夫人との間にできた21人の子供のうち、成人したのは10人のみだったが、そのうちのひとり、アーサー・ギネス2世(Arthur Guinness II)=写真=が勝負を引き継ぎ、父、アーサーの賭けが正しかったことを証明するのに、実際、それほどの時間はかからなかった。

    ギネスは順調にビジネスを伸ばし、醸造所ではポーターをさらに進化させる試みが日夜続けられた。

    1811年、リスボン向けに「ギネス・スタウト(Guinness Stout)」の輸出が始められた。「スタウト」とは「強い」を意味する言葉で、ポーターをさらに強くしたビールのことを指した。

    輸出先はますます増え、ヨーロッパのみならず20年代には西インド諸島、西アフリカへ、40年代にはニューヨークへと販路を拡大。また、30年代にはギネスのセント・ジェームズ・ゲート醸造所の生産量がアイルランド国内ではトップとなり、ギネスの名は世界的に知られるようになったのだった。

    1855年、アーサー・ギネス二世がこの世を去り、その息子ベンジャミン・リー・ギネス(Benjamin Lee Guinness/後に「Sir」の称号を授与される)=写真=にビジネスが継承されるが、このベンジャミン・リーは政界でも活躍し、ダブリン市長も務めた。さらに68年、ベンジャミン・リーの逝去を受けてその後継者となったエドワード・セシル・ギネス(Edward Cecil Guinness)の代で、醸造所の規模は2倍になり、86年には年間120万樽を生産する、世界最大級の醸造所となっていた。

    初代が築いたものを、2代目、3代目がダメにするというのは良く聞く話だが、ギネスの驚くべきところは、それが全くあてはまらず、2代目、3代目、4代目…と衰退するどころか、拡大発展を続けた点にある。

    アーサー・ギネスがもって生まれた強運は、まさに孫子の代まで引き継がれたというわけだ。

     

    ギネスは100ミリリットルあたり35キロカロリー、1パイントあたりでは約200キロカロリーで、脂肪ゼロ。他の主要なラガーの銘柄(ハイネケンやバドワイザー)などに比べても10~25%、カロリーは低めという。

    タンパク質、鉄分も含まれているため、滋養強壮のために飲まれていた時期もある(生卵を入れて飲むというレシピもあったとか!)が、例えば鉄分は、赤身の肉などで摂取するほうがはるかに効率的とのこと。タンパク質、鉄分摂取を口実に、飲み過ぎないように!?

    世界制覇をねらう黒ビール

    ポスターやテレビCMなど、ギネスの広告には印象深いものが多く、使われたキャラクターの中にはいまだに根強い人気を誇るものも少なくない。このトゥーカン(toucan『オオハシ』)はその代表的存在。

    1936年、ロンドンのパーク・ロイヤルに国外初のギネス醸造所が建設された。この醸造所は2005年に残念ながら閉鎖されてしまったが、これに限らず、20世紀を通じて、ギネスは休むことなくチャレンジを続けた。ギネス・オリジナル以上のものを世に送り出そうとしたのだ。その努力の結晶が、ギネス・ドラフトである。

    「ドラフト(draught)」は、日本語で「生」と訳されたが、本来は木の樽(cask)や金属製の樽であるケグ(keg)に詰められた「樽詰め」のこと。アイルランドで1959年に販売が始まったギネス・ドラフトは、現在、アイルランド本国では売上げトップを誇る大ヒットとなっている。

    この樽詰めギネスは6度に冷やしてあるのが理想的(ギネス・ドラフト・エクストラ・コールドの場合は3・5度)。そして、ユニークな2度注ぎがギネス・ビールの伝統的なサーブの仕方であることはご存知のとおりだ。

    • ① グラスを45度に傾け4分の3程度、静かに注ぐ。
      ② 窒素と二酸化炭素で構成される同社独自の混合ガスにより、ギネスはグラスの中で「うねり=サージング(surging=泡の対流)」」を見せる。
      ③サージングがおさまってから残りの4分の1を注ぎ足す。
      ④しばらくすると、泡部分(creamy head=クリーミーヘッド)が黒ルビー色の本体から浮き上がる。ここまでに、119・5秒かけると完璧な1杯になるという。
  • 1862年に考案された、ギネス・ビールのラベル。アイルランドのシンボルのひとつ、竪琴(ハープ)が使われている(1876年、登録商標化)。この竪琴はギネスのグラスなどにも描かれている
    さらに、「ドラフト=樽詰め」という概念をみずから打ち砕くように、88年に「ギネス・ドラフト缶」が、99年にボトル入り「ギネス・ドラフト」が売り出された。いずれも、樽詰めに劣らぬレベルのギネス・ビールが味わえるというギネス社の自信が「ドラフト」の名前にこめられている。

    アーサー・ギネスが亡くなってから219年。彼の情熱は強運とともに世代から世代へと受け継がれていくようだ。

    今日、アイルランドで飲まれるビールの4杯に1杯はギネスといわれ、世界の約50ヵ国で醸造されたギネスが毎日、人々ののどをうるおしている。

    アイルランド語で、「乾杯」の際に「あなたのご健康のために(Slainte!=スローンチャ)」と言って杯を傾けるが、天からの賜りものを頂くにあたって、いかにもふさわしい言葉といえそうだ。もちろん飲みすぎにはご注意願いたいが、ギネスを飲む時にはスローンチャ、としゃれこんではいかがだろうか。

    ダブリン西部のセント・ジェームズ・ゲートにある醸造所への入口。

    Q: 3月17日はギネスを飲む日?
    A: 正解は、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの祝日!

    ◆アイルランドの守護聖人、聖パトリック(387~461年)は、ローマ人の両親のもと、父親の赴任先である北イングランド(当時はローマ帝国の植民地)で生まれた。支配者側のコミュニティーで育ったが、16歳の時に海賊にさらわれてアイルランドに連れていかれ、牧夫として酷使された。苛酷な日々の支えとなったのは信仰で、毎日を祈ることによって耐えたという。

    ◆22歳でアイルランドを脱出。キリスト教を本格的に学び始め、聖ジェルマノの弟子となった後、435年頃、アイルランドに宣教師として戻った。ドルイド教が主流だった当時のアイルランドで、迫害を受けながらも40年間布教活動を続け、全土をキリスト教に改宗させることに成功。

    ◆聖パトリックにまつわるエピソードは数々あり、アイルランド中のヘビを退治した(画題になる場合、足元にヘビが描かれるのが多いのはこのため)とか、現在ではアイルランドの象徴とされている、三つ葉のクローバーに似たシャムロック(shamrock)を用いてキリスト教の三位一体を説明したといった話が残っている。

    週刊ジャーニー No.1230(2022年3月10日)掲載