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『日本土木史の父』渡邊嘉一
127年前、スコットランドの首都エディンバラ近郊の湾にフォース・ブリッジと呼ばれる鉄橋が完成した。
過酷な建設現場で現場監督を務めたひとりの日本人技術者がいる。
スコットランドで学び後に『日本土木史の父』と称されたこの人物について今号ではお届けすることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/本誌編集部

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町を興奮で包んだ竣工式

1890年3月4日、スコットランド。
エディンバラから約10マイル(16キロ)離れたサウス・クイーンズフェリーという小さな町は、早春の嵐とも呼ぶべき強風に見舞われていた。いや、早春というには早すぎたかもしれない。スコットランドの厳しい冬が終わるのはまだまだ先のことだと思い知らされるような日だった。
しかし、町は熱い興奮に包まれていた。
新しく完成した鉄橋の竣工式が、ヴィクトリア女王の長男である皇太子(後のエドワード7世)を迎えて華々しく行われようとしていたからだ。
鉄道橋は、フォース湾にかかることから、フォース・ブリッジと名づけられていた。
皇太子に用意されたのは、黄金のメッキを施されたリベット(鋲=びょう)。もちろん形式的なことだが、これをしめれば、すべての工事が完了するという手はずになっていた。
ところが、皇太子が、リベットをまわす機械を作動させるキーを片手でまわそうとした1回目は失敗に終わる。そばにいた担当者があわてて、キーを少しまわしたあと、皇太子が再び挑戦。今度は両手でまわしたおかげで、無事にリベットがしまった。ふきつける風の中で皇太子はこう声を張り上げた。
「ここに、フォース・ブリッジが公式に完成したことを宣言する」
このニュースが日本に届くまで、どれだけかかったか記録は残っていない。しかし、この鉄橋完成の報を待ちわびていた1人の日本人がいたことだけは確かだ。
「ようやくこの日がきた―」
スコットランドの冷たい雨と風の日を思い出しながら、喜びをかみしめたであろうこの人物、名前を渡邊嘉一(わたなべ・かいち=以下、渡邊)という。
のちに『日本土木史の父』と称されるに至る渡邊は、スコットランドと深いつながりがある。
その生い立ちの概要を記してみることにしたい。
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グラスゴー大学卒業で得たビッグ・チャンス

『The Briggers: The Story of the Men Who Built the Forth Bridge』
フォース・ブリッジ建設に携わった人(Briggers)のうち、実際には何人が犠牲になったのかを調査し直したいという強い思いに突き動かされたと執筆の動機を話す、エルスペス・ウィリスの力作。それまで57名だと考えられていたが、73名も亡くなっていることが判明した。写真も豊富。「渡邊嘉一」の名前は、9頁と127頁に登場(索引にもあり)。
渡邊は、長野の出身である。1858( 安政5)年2 月8日、上伊那郡朝日村字平出(ひらいで)にて、宇治橋瀬八の非嫡出子(正確には、後妻の子)として生を受ける。子供の時から、宇治橋の家督をあてにしてはいけない、安定した仕事につけるようまずは勉強しなさいと繰り返し聞かされていたことだろう。長野の開知学校を経て上京したのも、非嫡出子としては自然な流れだったと思われる。
工部大学校(現在の東京大学工学部)予備校を経て、同大学校土木科に入学、奨学金を得て勉学に励み、83(明治15)年、25歳の時に同大を首席で卒業した。
明治維新が成り、すさまじい勢いで近代化を進めつつあった日本の新首都、東京には各地から秀才が集まってきていたが、頭の良さと実務家としての器量を兼ね備えた学生として目立つ存在だったと想像できる。
工部大学校の校長を務めたのを皮切りに、学習院院長兼華族女学校校長など、技術・教育関係の重要な役職を歴任した大鳥圭介(おおとり・けいすけ、1833~1911)にその才を認められ、大学卒業を控えた82年、大鳥の仲介で、海軍機関総督横須賀造船所長、渡邊忻三(きんぞう)の長女の婿養子となった。「渡邊嘉一」の誕生である。
渡邊は工部大学校卒業後、工部省に技師として入り、鉄道局での勤務を開始する。渡邊がみずから鉄道に携わる道を選んだのかどうか定かではないが、近代化に取り組む日本にとって、鉄道網を発達させることは火急の課題。やりがいのある仕事として、渡邊が大いに燃えたと考えて差し支えないだろう。
ここで鉄道局勤務を選んだことが、渡邊を英国に向かわせることになったのではないだろうか。
84年、工部省を辞してスコットランドのグラスゴー大学に留学、ここでも土木工学を専攻し、86年に理学士の学位を取得して卒業した。1451年発足のグラスゴー大学は、オックスフォード大(創立1249年)、ケンブリッジ大 (同84年)、セント・アンドリューズ大(同1411年)に次ぎ、英国で4番目に古い名門大学。経済学者のアダム・スミスや、蒸気機関の発明などで知られるジェームズ・ワットをはじめ、各界の著名人を輩出したことでも名高い。
明治時代、日本からも才能ある若者が幾人もグラスゴー大に留学したが、いずれも、日本を背負って立つ気概にあふれた者ばかり。渡邊も間違いなくその1人であり、寸暇を惜しんで必死に勉強したと推測できる。しかも負けん気が強く、粘り強い性格だったのではなかろうか。というのも、英語を母国語とする学生たちをさしおいて、優れた工学部学生に贈られる、「ウォーカー」賞を受賞したのである。
ひとつの幸運(受賞は努力の賜物でもあったが)は次の幸運を呼ぶ。まもなく渡邊は貴重なチャンスを与えられることになる。
ジョン・ファウラーとベンジャミン・ベイカーという、当時の英建設業界で次々に大規模プロジェクトを引き受けていた2人が経営する事務所に技師として迎えられたのだった。ファウラーとベイカーはそれぞれ、ヴィクトリア朝時代を代表する技師で、「Sir」の称号を得るほどの大御所。ロンドンの地下鉄建設においても大きな役割を果たした。1886年といえば、日本が開国してからまだ30年ほど。英国では知らない人が大多数であったであろう、東洋の小さな島国からやってきた20代なかばの若輩の渡邊が、彼らのもとで働く機会に恵まれたというのは、まさに特筆に値することだった。
しかも、ファウラーとベイカーは、彼ら自身も大きな賭けともいえるプロジェクトに取り組んでいる最中だった。
成功すれば名声はより高まり、仕事の依頼はいっそう増えることは疑うべくもなかったが、失敗すれば建設業界から追放されたも同然。それまで築いてきたものはすべて失うことになる。
ファウラーとベイカーが果敢に挑んでいた、その難プロジェクトとは、フォース・ブリッジの建設だった。

フォース・ブリッジ Forth Bridge


■「カンティレバー式二重ワーレン型トラス橋」と呼ばれる形式。
■フォース湾の両岸(ノース・クイーンズフェリーとサウス・クイーンズフェリー)沖と中央の岩礁に、高さ 105 メートルの3基の大鋼塔が築かれている。
■大鋼塔を含む、ひし形部分を3人の人間に例えてみると…
①各人が両腕を差し出す。腕の長さを207メートル(足すと414メートル)とする。
②両端は、両岸の陸地上に設けた橋脚の上に置くことが可能ながら、両岸と岩礁の間は500メートル余ずつあり、互いの腕が届かない、約100メートルの空間が残る。
③その空間を結ぶためにスパン107メートルのトラス(橋桁)を吊り架ける。

参考:三浦基弘著『株式会社東京石川島造船所 第三代社長 渡邊嘉一:日本とスコットランドの架け橋』/エルスペス・ウィルス著『The Briggers: The Story of the Men Who Built the Forth Bridge』

世紀のプロジェクトに参加した明治人

(左)ジョン・ファウラーSir John Fowler(1817~98):北イングランドのシェフィールド出身。
(右)ベンジャミン・ベーカーSir Benjamin Baker(1840~1907):南イングランドのサマセット出身。
フォース湾(the Firth of Forth)は、スコットランドの首都エディンバラのすぐ北にある入り江。地形的には氷河にえぐられてできたフィヨルドのひとつとされるが、細長い切り込みが、エディンバラから、ハイランド地方への入り口であるスターリング(Stirling)のそばまで、西へ約50キロ(30マイル)近くも続いており、通行人泣かせの造りとなっていた。
フォース湾を船(フェリー)で渡る方法は早くから確立されていたが、風や潮の流れにさからうと、数時間もかかることが珍しくなかった。また、産業革命でより速く、より大量の物資を運ぶことが求められるようになったのだった。19世紀初頭にトンネル設置の案が出されたが、十分な出資が得られず計画は消滅。やがて、鉄道の発達により、必要なのは鉄橋だと流れが変わっていく。
1873年、4つの鉄道会社が共同出資した「フォース・ブリッジ・カンパニー」が設立され、いよいよ鉄橋建設への動きが本格化する。しかし、79年、人々の記憶に長く焼き付けられることになる悲劇が起こってしまう。
77年に6年の工期を経て完成した、スコットランド最長のテイ川にかかるテイ鉄橋(Tay Bridge)が強風にあおられて崩落。折り悪しく鉄橋を渡っていた列車がテイ川に落下、75名の乗客が犠牲になるという大惨事となった。

1887年の建設途中、フォース・ブリッジの仕組み(カンティレバーの構造)について関係者に分かりやすく説明する試みが王立科学研究所で行われた際、ヒューマン・モデル=写真上=が用いられた(中央が渡邊、左右の人物の詳細は不明)。東洋人を真ん中にすえ、東洋起源とされるカンティレバーへの謝意を表現したとされている。この写真は、2007年にバンク・オブ・スコットランドが発行した20ポンド札の裏面の右上隅にあしらわれている。
このテイ鉄橋をデザインした、トーマス・バウチ(Sir Thomas Bouch)は、ファウラーやベイカー同様、「Sir」の称号を与えられた、当時の英国の建設業界にあって大物のひとりだったが、この大事故により全てをなくし、失意のうちに10ヵ月後に他界した。
フォース・ブリッジも、最初はバウチのデザインを採用していたのだが、テイ鉄橋の悲劇によりバウチ案を却下せざるを得ず、新たなデザインを模索。そこで依頼を受けたのが、ファウラーとベイカーで、彼らは「カンティレバー式」を選択した。カンティレバー式は、インドやパキスタン、中国などに起源が求められる橋とされ、チベットには1620年にかけられ、その後300年も使われた橋があったことが分かっている。
渡邊がファウラーとベイカーの工務所に入ったころ、フォース・ブリッジの建設は、始まってからすでに4年がたっていた。
渡邊が与えられた仕事とは、フォース・ブリッジの建設工事監督係だった。さらに工事監督のかたわら,同ブリッジ前後の鉄道線路約12マイルの実地測量と設計主務も務めた。
勤勉な明治人が英語と格闘して、学業で良い成績をおさめるというなら、まだ想像しやすいが、実際に英国人(ここでは、正確にいうとスコットランド人)と働くには、当然のことながら英語でコミュニケーションをはからねばならない。
土木工学の専門で渡邊を含む日本土木史の研究家でもある、三浦基弘氏によると、渡邊の趣味の一つは義太夫で、忙しい仕事の合間をぬってよく鑑賞したが、娘たちは一緒に行くのを嫌がっていた。鑑賞中、渡邊が周りを気にせず感涙にむせび、「一顰(びん)一笑」する姿が恥ずかしかったからだという(しかし、観賞後には豪華な食事をご馳走してもらえるので、それを楽しみに娘たちはついて行っていたと話している)。
ひとまえで感情を素直に出したり、ましてや日本男児が涙を見せたりするのは恥ずべきことだというのが通念だった時代だけに、渡邊は日本人離れしていたといえるのではないだろうか。この性格が生来のものだったのか、それともグラスゴー留学以降に培われたものか、定かではないが、工事監督を務めるにあたり、非常に役立ったはずだ。後に、日本で大組織のトップを歴任するが、人としての魅力にあふれ、人望を得る才能があったゆえといえ、それはすでにこのスコットランド時代に証明されていたのだ。

130年間、現役を続ける頼もしき鉄橋

35歳ごろの渡邊嘉一(写真提供:三浦基弘)。
フォース・ブリッジの工事は、変わりやすいスコットランドの天気との戦いでもあった。
北海からふきつける風は冷たく、時には暴力的ともいえる荒々しさで工事を妨害した。晴れていても、その何分後かにはかきくもって雨が降り始めることは日常茶飯事。そのような天気の中、働く人々の「health and safety」など、二の次だったヴィクトリア朝時代だけに、命綱もつけず、また、工事用ヘルメットなどもかぶらず、暑い日(あったかどうか疑問だが)も寒い日も工事人たちは作業を続けた。
組み立てが進み、工事現場の高さがあがるにつれ、危険も増した。落下して亡くなる者、上から落ちてくる工具やリベット(鋲)が運悪く頭を直撃し、命を落とす者もいた。

戦後の日本のクラシック音楽界を牽引した人物のひとりで、指揮者として世界的に活躍した朝比奈隆(あさひな・たかし、1908~2001)。
大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)を設立、その音楽総監督を務めた。また、生涯現役で93歳で亡くなる2ヵ月前まで指揮台に立った。この朝比奈の実父が渡邊嘉一だったという。渡邊と愛人とのあいだに生まれた子供を、渡邊の部下である鉄道院技師、朝比奈林之助が養子として引き取って育てた。
1882年にスタートした8年にわたる工事で、最終的に落命したのは73名とされている。もっとも多かったのは落下事故で犠牲になったのは38名。最年少の犠牲者は、落ちてきたリベットを拾う役目の「リベット・キャッチャー(リベット・ボーイ)」と呼ばれる仕事についていた13歳の少年だったという。
171名が殉職した日本の「黒四ダム(くろよんダム)」こと黒部ダムの犠牲者数と比較するのは不適切かもしれないが、難工事であったことは否めぬ事実であろう。
渡邊は、工事が完了する2年前にスコットランドを離れた。完成まで携わりたいとの思いもあったかもしれないが、祖国、日本が渡邊の知識と技術、そして経験をより必要としていた。
88年、29歳の折に米国経由で帰国した渡邊は、日本土木株式会社に入社、技師部長として鉄道建設を指揮する。そのかたわら、複数の鉄道会社でも鉄道建設に関わり、また、京阪電気鉄道、東京電気鉄道、京王電気軌道、朝鮮中央鉄道といった鉄道会社の経営においても手腕を発揮する。
さらに、活動の場は鉄道業界に留まらず、関西瓦斯社長、東京月島鉄工所社長、東洋電機製造社長、東京石川島造船所(現・IHI)社長などを歴任。関与した会社は38社(鉄道関連は19社)にのぼったという。
また、1899年には、工学博士の学位を取得したほか、土木学会設立に参画。帝國鐵道協会会長なども務めたが病には勝てず、1932(昭和7)年12月4日、胃がんのため逝去した。74年の中身の濃い生涯だった。
渡邊がスコットランドの地を離れてから129年を経た、2017年8月30日。
フォース湾に新たな橋が完成した。

建設途中のフォース・ブリッジ。3基を同時進行で造っていったことが分かる。
「クイーンズフェリー・クロッシングQueensferry Crossing」と名づけられたこの橋は、長さ2700メートルの斜張橋(しゃちょうきょう=cable-stayed bridge)だ。1964年に完成し、近年、構造的な問題が発見されたフォース・ロード・ブリッジ(Forth Road Bridge)から自動車専用橋としての役割を引き継ぐ。
まもなく、自転車とバス、歩行者専用となるフォース・ロード・ブリッジのかたわらで、現役を続けるフォース・ブリッジの姿は今も力強く、そして美しい。
若き日の渡邊が、日本の近代化に尽力するという志を、この橋の建設現場でさらに強くしたであろうことに思いを馳せながら眺めていると、厚い雲のすきまから、オレンジ色の夕陽が突然顔を出した。その光の中で、赤いフォース・ブリッジがひときわ鮮やかに輝いていた。(文中・敬称略)

参考文献:
『「橋」と「トンネル」に秘められた日本のドボク』三浦基弘(監修)/造事務所 (編集)/(じっぴコンパクト新書) 実業之日本社
『橋の文化誌』三浦基弘・岡本義喬著/雄山閣出版
『The Briggers: The Story of the Men Who Built the Forth Bridge Paperback』Elspeth Wills/Birlinn Ltd

フォース・ブリッジを眺めに行きたい! Travel Information

※2017年9月4日現在

●オープンしたばかりのクィーンズフェリー・クロッシング見学をかね、フォース・ブリッジの南の起点であるサウス・クィーンズフェリー(単に「クィーンズフェリー」と呼ばれることもある)まで足をのばしてみてはいかがだろう。

●電車で移動する場合、エディンバラからサウス・クィーンズフェリーの町にあるダルメニー駅(Dalmeny)まで、平日は1時間に3本程度(週末は1時間に2本程度)、所要時間15分。エディンバラからなら十分日帰りで訪れることができる。なお、サウス・クィーンズフェリーという名の駅はないので注意。

●サウス・クィーンズフェリーは小さな町。ホテルは少ない。エディンバラに宿泊し、日帰りで訪れるほうが容易だと思う人も少なくないだろう。しかし、サウス・クィーンズフェリーに宿泊して、ボート・クルーズやウォーキング・ツアーなど、様々なアクティビティをできる限り楽しむのもお薦めだ。

●フォース・ブリッジを眺め、建設当時に思いを馳せる―この橋を『堪能する』7つの手段を(独断で)選んでみたので参考にしていただきたい。

①海沿いを歩く

意識的にフォース・ブリッジの姿を追いつつ、High Street、Newhalls Roadをそぞろ歩きする。ちなみに、Newhalls Roadには、ヴィクトリア女王時代の赤いポストが残っている。そのポストとフォース・ブリッジを同時に写真に入れ込んで撮影したのがこの1枚。


②海の上から眺める

Hawes Pier(ホウズ・ピアー)という埠頭(フォース・ブリッジ関連の書籍、お土産が購入できる小さなショップあり)から、ボート・クルーズが出ている(主催会社は2つ)。今回は、「Forth Boat Tours」のツアーを利用。所要90分。通常はホウズ・ピアーから出発するのだが、ちょうど取材日と、大型客船の接岸が重なってしまい、出発は町の西はずれにあるPort Edgar Marinaからだった(もう1社のほうは、大型客船の接岸時はツアーを運休)。
なお、フォース湾はアザラシ(seals)の保護エリアとなっている。夏から秋のはじめにかけて、ボート・クルーズのルート沿いでも、その姿が見られる=写真左。また、フォース湾の中に浮かぶ小さな島、インチコム・アイランドInchcolm Island(今は使われていない修道院のほか、宿泊施設もあり)におりたつボート・ツアーもある。
Forth Boat Tours
運行期間…2月~10月末
料金…大人14ポンド
www.forthtours.com
Tel: 0131-331-3030

③ウォーキング・ツアーに参加する

「Forth Bridges Tours」のウォーキング・ツアーは、キルト(スコットランドの民族衣装)が良く似合う、マーク・テイラー(Mark Taylor)氏=写真=の案内によるもので、約90分の「ロイヤル・ツアー」(サウス・クィーンズフェリーの歴史が中心、大人10ポンド)など各種あり。集合場所は、後述するHawes Inn(ホウズ・イン)のすぐそばにある、「Caledonia Scotia Kilts」。
Forth Bridges Tours
www.forthbridgestours.com

④地元の博物館から眺める

「Queensferry Museum」は小規模な地元の博物館だが、フォース・ブリッジの資料も展示されている。この博物館の「出窓」からは、フォース・ブリッジの美しい姿が満喫できる。
Queensferry Museum
53 High Street, South Queensferry, EH30 9HP
開館時間
月&木~土 10:00-13:00 / 14:15-17:00
日 12:00-17:00(火・水は休館)
料金…無料
www.edinburghmuseums.org.uk/Venues/Queensferry-Museum
Tel: 0131-331-5545

⑤列車で渡る

ダルメニー駅から、対岸にあるノース・クィーンズフェリー駅まで列車で移動すれば、実際にフォース・ブリッジを渡ることができる。所要3分! なお、せっかくノース・クィーンズフェリーに向かうのなら、スコットランドの国立水族館「ディープ・シー・ワールド」を見学したい。「動く歩道」でトンネル型の巨大な水槽の下から魚を観察することができる「アンダーウォーター・サファリ」は必見。なお、駅から水族館までの道はきわめて急勾配。徒歩で行く場合、のぼりおりはラクではないことを申し上げておきたい…。
Deep Sea World
Battery Quarry
North Queensferry
KY11 1JR
開館時間…通年オープン
料金…大人15ポンド、ファミリー・チケットなどもあり
Tel: 01383-411-880
www.deepseaworld.com

⑥グラスを傾けながら眺める

フォース・ブリッジの南の起点近くにある、Hawes Inn(ホウズ・イン)は、パブ兼ホテル(しばしば満室)。食事もリーズナブルでお薦め! 同橋の建設期間中は、このインでシフト交代の手続きが行われていたという。インで飲み、酔っ払ったまま作業に出る者もいたようだが、泥酔状態での作業が原因で死去した作業員は確認されていないとのこと。地元のエールなどを片手に、当時に思いを馳せたい。なお、このインで、スコットランドの人気小説家だったロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson、1850~94)は『誘拐されて(Kidnapped)』(1886)の一部を書いたという。
The Hawes Inn
7 Newhalls Road
South Queensferry
EH30 9TA
www.vintageinn.co.uk
Tel: 0131-331-1990

⑦宿から眺める

今回、取材班が宿泊したのがこのホテル。サウス・クィーンズフェリーの中心部から徒歩20分、また、駅からもほぼ同距離離れているものの、スタイリッシュな内装の客室では快適に過ごせる。北東向きに窓がある部屋からはフォース・ブリッジを望むことができるので、予約時にリクエストしてみるといいだろう。
Dakota Edinburgh
11 Ferrymuir Retail Park
South Queensferry
EH30 9QZ
www.dakotahotels.co.uk
Tel: 0131-319-3690

週刊ジャーニー No.1000(2017年9月7日)掲載