天然痘を制圧せよ 世界初のワクチン誕生物語 エドワード・ジェンナー 【前編】

■ かつて地球上には天然痘というウイルス性の感染症が存在し、紀元前から多くの人が命を奪われてきた。しかしその天然痘は人類史上初となるワクチンの開発により根絶された。人類が初めて開発に成功したワクチン。開発の礎を築いたのは今から200年ほど前、イングランドの片田舎で開業医をしていた一人の医師だった。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

奈良の大仏と天然痘

電子顕微鏡が捉えた天然痘ウイルスの姿。

天然痘。英語ではスモールポックス(smallpox)と言う。ポックスとは疱瘡のことだ。突然の熱発と共に頭痛や四肢痛、小児では嘔吐や意識障害といった症状が現れ、2~3日後には体温が40度を突破する。その後一時的に熱が下がるが安心したのも束の間、やがて顔面や頭部を中心に全身に発疹が浮かび上がる。発疹は水疱、そして9日目あたりには膿を含んだ膿疱へと変化する。

重症化すると喉が焼かれたような激痛が走り、物を飲み込むのも困難になり呼吸障害を発して死に至る。幸運にも治癒に向かった場合は2~3週間程度で膿疱がかさぶたとなって脱落する。しかし皮膚に色素が沈着し、生涯醜い痘痕(あばた)となって残る。強毒性の場合、致死率は20~50%と言われ、誠に恐ろしい感染症だった。

天然痘は紀元前から死に至る恐ろしい疫病として人々に恐れられていた。古代エジプト王朝のラムセス5世も、そのミイラを研究したところ天然痘を患っていたことが分かった。

日本にも仏教の伝来と共に大陸から九州に持ち込まれたと言われ、それがやがて平城京にまで達して大流行し、政府要人の多くも天然痘の犠牲となった。聖武天皇は、人の容姿を激変させて死に至らせる謎の疫病と天候不順による飢饉などが生む社会不安や政治的混乱から脱却するため仏教の力に救いを求め、東大寺に巨大な仏像を造らせた。奈良の大仏だ。

15世紀末から始まった大航海時代、中南米に進出したスペイン人がアステカやインカといった帝国をほぼ壊滅させた。この時、スペイン人が現地に持ち込んだ疫病が大きな役割を果たした。数千年に渡って天然痘と共存してきたスペイン人と違い、ユーラシア大陸やアフリカ大陸とほぼ接触がなかった中南米のインディオや北米のインディアンは天然痘に対する耐性や免疫を全く持っていなかった。そのためスペイン人が持ち込んだ天然痘ウイルスにバタバタとやられ、帝国は崩壊した。

さらに18世紀、英国が北米の植民地経営を巡ってフランスと戦った際(フレンチ・インディアン戦争)、英軍はフランスと連携したインディアンのチェロキー族に親切を装って接近。天然痘ウイルスをすり込んだ毛布などを大量に与えた。死のギフトだった。たちまちウイルスに感染したチェロキー族は大混乱に陥り、戦力は著しく低下したと言われる。この戦争にフランスは敗れ、ルイジアナを英国に譲渡。これによって西部開拓への障害物は消えた。 さらにフランスと同盟していたスペインからもフロリダを取り上げ、アメリカに英語圏が拡大していく。英国側は認めていないが、この天然痘すり込み毛布の件が史実だとすると人類が初めて戦争で意図的に使用した「生物兵器」ということになる。

天然痘に感染した人々。運よく生還しても顔や全身に多くの痘痕(あばた)が残った。

田園に広がる奇妙なうわさ

エドワード・ジェンナーは1749年、イングランド西部、ウェールズにも近いグロスターシャーのバークレーと言う田舎町で9人兄弟姉妹の8番目の子として生まれた。ジェンナーは敬虔な牧師家庭で育ったが、両親はジャンナーが5歳の時に亡くなった。そのためジェンナーは年長の兄弟たちに育てられた。ジェンナーが生まれた頃、ヨーロッパでは天然痘がほぼ定着しており英国も例外ではなく、多い年では5万人近くが天然痘で命を落としていた。

ジェンナーは幼少期に人痘接種を受けていた。天然痘に感染しながら生還したオスマン帝国駐在大使夫人が英国に持ち帰り、上流階級層に広めたものだった。これは天然痘患者の膿疱内の膿から体液を取り出し、健常者に接種させてあえてウイルスに感染させるもので一定の成果を上げていた。しかし2~3%程度の人が重症化し死亡する危険をはらむ不完全なものだった。

ジェンナーは14歳の時から7年に渡り、グロスターシャー南部、チッピング・ソドベリーという村の開業医ダニエル・ルドローの元で奉公人として働く機会を得、後に自らが開業医となるための知識と経験をここで習得した。この医院で働いている時、ジェンナーは迷信にも近い不思議なうわさ話を耳にした。

「乳しぼりをしている女は天然痘にかからない」

科学的根拠のない言い伝え程度の話だったが、これがジェンナーの脳裏に深く刻まれることとなる。

奉公を終え、21歳になったジェンナーは最先端医学を学ぶため、ロンドンに向かった。幸運なことに「近代外科学の開祖」と称される著名なスコットランド人の外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターに弟子入りした。

ハンターは、研究熱心で技術も確かなうえ、詩や音楽の才も備える上品なジェンナーに惚れ込んだ。天然痘に関する議論が白熱すると「考え過ぎることなく、挑戦し続けなさい。辛抱強く、正確に」とジェンナーを鼓舞した。ハンターはジェンナーを王立協会会員にも推薦した。しかしジェンナーは1773年、多くの人に惜しまれながら故郷バークレーに戻り、開業医となった。

© Nick from Bristol
世界最初のワクチン開発に成功した、グロスターシャー、バークレーにあるジェンナーの自宅兼診療所。現在はジェンナー博物館となり一般公開されている(残念ながらコロナウイルスのため2021年春まで休館)。

「ジキル博士とハイド氏」のモデル

外科医・解剖学者 ジョン・ハンター (John Hunter 1728~1793)

グラスゴー出身のジョン・ハンターは20歳の頃、ロンドンで外科医、解剖学者として活躍していた10歳上の兄の元を訪れ、助手となることで医学を学んだ。ハンターは解剖を好んだが、当時は処刑された罪人の死体が出回るだけだったため希望者が殺到してなかなか入手できなかった。そのためハンターは死体盗賊人らに報酬を払って死体を集めて解剖を続けた。時には自らも盗賊人らに混じって死体を掘り出したというなかなかの奇人ぶりだった。ハンターはまた異常なまでの収集家として知られ、遺体から取り出した臓器や骨格標本から珍獣、はたまた植物まで、世界中から1万4000点もの標本を集めた。富裕層から高額な報酬を受け取っていたため収入は多かったが、そのほとんどを趣味に費やした。そのため亡くなった時に残ったのはこれらのコレクションと莫大な借金だけだったと言われる。その標本のほとんどは現在、ロンドンの王立外科医師会内ハンテリアン博物館に保管されている(2022年まで改装のため閉館中)。レスタースクエアにあったハンターの巨大な邸宅は表玄関では社交界の友人や患者が出入りする一方、裏口は解剖用の死体の搬入口とされていた。のちにこの話を耳にした作家、ロバート・ルイス・スティーブンソンは、ハンターをモデルに「ジキル博士とハイド氏」を書き上げたと言われている。

とんでもない実験

© Japan Journals Ltd
ケンジントンガーデンズ内噴水脇に置かれたジェンナー像。人類を天然痘から救った偉大なドクターだが、視線を向ける人は少ない。

故郷に戻ったジェンナーは幼い頃、奉公先で何度も耳にした「乳しぼりの女は天然痘にかからない」という伝承が耳から離れずにいた。さらに牛がかかる「牛痘」に感染した人で、その後天然痘に感染した人がいないという、より具体的な話がジェンナーの耳に届いた。牛痘とは牛がかかるウイルス性の伝染病でヒトにも伝染した。ところが牛痘で牛は重症化するがヒトは比較的軽い症状で済み、快復後は天然痘に感染することもなかった。

「牛痘に感染することで得られる免疫が天然痘ウイルスへの免疫としても機能しているのではないか。だとすれば牛痘によってできた膿疱から体液を抽出し、健康な人に接種すれば人痘法より遥かに安全に免疫が獲得できるのではないか」。ジェンナーはそう推測した。それを実証するため、牛痘に罹患した患者の出現を待ち続けた。

1796年5月、ついに患者が現れた。サラ・ネルメスという乳しぼりを生業とする女性でブロッサムと名付けられた牝牛の乳房から牛痘に感染していた。人類初のワクチン完成に向けてジェンナーのとんでもない実験が始まろうとしていた。

週刊ジャーニー No.1159(2020年10月15日)掲載