東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 後編
シャイド・ヒル・ハウスの庭で、日本人訪問客らと撮影した1枚。最後列右端がミルン、中央の椅子に座る女性が妻のトネ、その隣が助手の広田忍。 © Carisbrooke Castle Museum

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/北川 香・本誌編集部

■〈 前回のあらすじ〉地質学・鉱山学者としての経歴により、 「お雇い外国人」のひとりとして、英国から来日したジョン・ミルン。 初めて体験した「地震」に興味を持ち、研究の末に「地震計」を開発。 地震大国の日本で、外国人ながら「地震学」を確立するが…。 今号では、ミルンの多大な功績・後編をご紹介する。

ワイト島から世界へ

1895年2月、不運な出来事がミルンを襲った。東京の自宅と地震観測所が原因不明の火事で焼け落ち、開発した地震計や収集した文献を含む、それまでの研究成果のすべてを失ってしまったのだ。これはミルンに大きな打撃を与え、「潮時だ」と感じた彼は、大学を辞めて故郷の英国へ戻ることを決意。大学側も9年にわたるミルンの勤務に謝辞を示し、快く辞表願を受け入れた。同年6月の帰国直前には、地震学の礎を築いたミルンの功績を讃え、明治天皇からの招待を受けて謁見も果たしている。

7月、ミルンは妻のトネと共に渡英。トネにとっては、初めての外国生活のスタートであった。ミルンは気候が比較的穏やかで暮らしやすいワイト島に住むことを選び、「英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)」の認可を得て、島の中心部にある町シャイド(Shide)の「シャイド・ヒル・ハウス」を地震観測所として研究を続けることになった。

ミルンは、日本で開発した水平振子地震計をシャイド・ヒル・ハウスと3キロ程離れたカリスブルック城の2ヵ所に設置し、連日記録をとった。とはいうものの、ワイト島だけでは世界中の地震を観測することは当然ながら不可能だ。ミルンは以前から地球規模の地震観測網の必要性を痛感しており、少なくとも20の観測所を世界各地に設置し、相互に協力体制を敷き、共同で研究活動を行いたいと考えていたのである。この大掛かりな構想は、ミルン個人の力だけでは到底実現不可能であった。そのため、ミルンは英王立協会を説得して、まず英国に7つの観測所を設けることに成功。その後、ロシアに3つ、カナダに2つ、米国の東海岸に3つと徐々に建設先を増やしていった。ミルンが地震学の第一人者として、世界的に認められ高く評価されていたことがうかがえる。

1900年には莫大な資金援助が得られたお陰でシャイド地震観測所の設備も整い、本格的な観測を始めることができた。

心強い日本人助手

ワイト島でのミルンは、人がほとんど感じることのない地殻変動の研究、つまり微小地震(地震とは無関係の小さな地動)と遠地地震(遠くで起こった地震が原因で起こる地動)の研究に没頭した。英国内と世界各地における地震観測所の新設計画も順調に進み、日本では東京帝国大学構内に拠点が設けられた。また、南極点到達を目指していたスコット探検隊(1910~12)にも働きかけて、地震計を南極に置いて来てくれるように依頼したりもしている。

このように世界中で測定されたデータは、すべてシャイドに送られて分析された。データは膨大な量にのぼり、とてもミルンひとりではさばき切れない。そんな彼を支えたのが、日本から遥々同行してきてくれた助手の広田忍だ。英国高等科学研究所内に新しく設けられた「地震学調査委員会」の主事の役目までもミルンが果たすことができたのは、広田助手のサポートあってのこと。妻のトネも身近に日本語を心置きなく話せる人物がいることは心強く、ミルン夫妻は心から彼に感謝していた。研究以外のわずかな余暇の時間もミルンと広田助手は一緒に過ごし、ゴルフやクローケーのほか、共通の趣味であった写真を撮影するため、カメラ片手にしばしば出掛けたという。

ミルンは地震学調査委員会や「シャイド地震機関誌」の紙面上で、地震学の分野に国際的な学術交流が必要であることを強く訴え続け、この後20年間、シャイド地震観測所は世界の地震学の中枢となる(1919年にオックスフォードに移転)。

また、ミルンは数々の論文をまとめて本として出版している。「地震とその他の地球の運動」を1886年に、「地震学」を1898年に刊行。これらの著書は、地震学の貴重な教科書として長い間活用された。

謙虚な愛妻家、逝く

ミルンとトネ

シャイドでの地震観測に二人三脚で取り組んできた広田助手が、体調不全から1912年12月に日本へ帰国。その後、間もなく亡くなった。すると、ミルンも後を追うかのように体調を崩し始める。タンパク尿、むくみ、高血圧を伴う腎臓の病気として知られる「ブライト病」を患い、絶えず頭痛に苦しめられた。

翌1913年7月半ばにはベッドから起き上がれなくなり、同月末に昏睡状態に陥った末、トネに見守られながら62歳で息を引き取った。葬儀はワイト島最大の町ニューポートのセント・ポール教会で執り行われ、地震学の研究者のほか、世界中から多くの人々が弔意を表すために足を運んだ。日本からは、九条男爵が大正天皇の代役として参列。井上大使は弔意で「英国と世界の科学界にとって、そしてその名前が決して忘れられることのない日本にとって大きな喪失です」と深く追悼している。ミルンは葬儀後、そのまま同教会に埋葬された。

ミルンの死は、学術界に「ショック・ウェーブ」を巻き起こした。英国高等科学研究所や国際地震学協会がミルンの功績を振り返って敬意を表し、偉大な科学者の他界を惜しんだ。そして研究者としてだけではなく、人間的にも多くの人々から慕われていたことが、日本滞在時代からの同僚かつ友人であった学者、ジョン・ペリーの言葉からもわかる。

「ミルンの才能は、自分の研究にあらゆる人を惹きつけることができたことだ。一方で、ミルンは謙虚だった。地震学以外の分野にも興味を示し、他の研究から学ぼうとした。そしてミルンは最高の友人だった。日本でもシャイドでもいつも時間を作ってくれ、大切にもてなしてくれた」

ミルンはまた、妻思いの良き夫でもあった。夫妻は子供に恵まれなかったため、トネをひとり異国の地に残して逝くことを強く懸念し、彼女が経済的にも社会的にも困らないようにと、生前にあらゆる配慮を行っていた。夫亡き後もトネはシャイドでの生活をしばらく続けたが、やがて体調を崩してしまう。言葉の壁もあり、故郷・函館への恋しさも募っていったトネは、日本の親族からの説得もあって、ついに帰国を決意。第一次世界大戦が終わり、情勢が落ち着いた1920年、25年ぶりに二度と踏むことがないと思っていた日本の地に再び降り立ち、愛する函館へ戻った。

5年後の1925年1月、トネは函館の自宅で死去。64歳だった。ミルンと出会った「思い出の場所」である函館墓地の父が眠る墓の隣に、英国から大切に持ち帰った夫の遺髪とともにトネは埋葬された。

ミルンが眠るニューポートのセント・ポール教会(右)/函館山のふもとにある外国人墓地に立つ、トネの父、ミルンとトネの墓碑=青井元子氏提供 © Carisbrooke Castle Museum(左)。

今も燃えるミルンの情熱

「地震学の父」ミルンの業績は、日英の各団体から称賛された。火災が原因で英国に戻った直後の1895年、ミルンは明治天皇から異例の勲三等旭日章と年千円の恩給が授与されている。さらに、英国王立協会からは誰もが望むロイヤル・メダルを、オックスフォード大学からは名誉学位を、そして東京帝国大学からも名誉教授の称号が与えられている。これらは数々の受章のうちのごく一部だ。

工部大学校での教え子や日本地震学会の同僚の中には、ミルンに強く影響を受け、その後の日本の地震研究に大きく寄与した者の枚挙にいとまがない。たとえば、初の日本人地震学教授となった関谷清景は、開成学校(現・東京大学)の地震研究所でミルンの指導を受け、地震計の完成にも協力している。関谷の後継者の大森房吉は、ミルンと共に、1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。この濃尾地震が人々に与えたショックは大きく、大森らが中心になり、帝国議会に地震の専門研究機関の設置を申請。18年間にわたる地道な活動を経て、1929年に現在の形の「日本地震学会」が創立されている。大森はミルンの地震計の改良も行い、1898年に世界初の連続記録が可能な、より精密に振動を探知する「大森式地震計」を開発し、その後に続く国内での地震計開発の基盤を築いた。

ミルンが日本で地震学を確立してから130年近くが経ったが、彼が後世に残したものは、ひと口にまとめることができないほど大きい。科学と地震学における実質的な研究成果は言うまでもないが、さらに広い視野で将来を見据えた共同研究、日英連携、国際協力の基盤を築くために彼が注いだ情熱は世界中に広がり、火山の大噴火を招くマグマのように今も強いエネルギーを発し続けている。

週刊ジャーニー No.1179(2021年3月11日)掲載