ジョージ6世の逝去を受けてエリザベス2世として即位した翌年、1953年6月2日に戴冠式が行われた。今号では、今年4月21日号で掲載した記事をアンコール掲載として再編集してお届けする。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

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75年間変わらぬ決意

2022年2月6日。
在位70年という極めて大きな節目を迎えるにあたって、エリザベス2世は次のメッセージを公式ツイッターに投稿した。

「1947年に私の生涯を国民の皆さんに捧げるとお伝えしましたが、この節目にあたり、喜びをもってそのことを改めて誓いたいと思います」

この誓いとは、1947年4月21日に同女王が世界に向けて発したメッセージに含まれていたもの。
この日、後にエリザベス2世となる、リリベットことエリザベス・アレグザンドラ・メアリー王女は、父ジョージ6世、母エリザベス王妃、そして妹のマーガレット王女とともに、21歳の誕生日を南アフリカで迎えていた。英国では、21歳を「成人」とみなすのが伝統。一家揃って南アフリカおよびローデシア(現ジンバブエ)を訪問していた同王女は、数多くの祝賀メッセージに応える形で、ケープタウンからスピーチを行った。その中で同王女はこう宣言したのだった。

"I declare before you all that my whole life whether it be long or short shall be devoted to your service and the service of our great imperial family to which we all belong."
「ここで皆さん全ての前で誓います。長くとも短くとも、私はこの生涯を皆さんに、そして、私たち皆が属する英連邦に捧げることを」

洗礼式を迎えたエリザベス王女と、ヨーク公夫妻(後のジョージ6世とエリザベス王妃)。1926年5月撮影。

 それから75年(君主としては70年)、この宣言を守り続けたエリザベス2世。
メイフェアのヨーク公宅で産声をあげた女児が、この96年で成し遂げた偉業に敬愛の念を抱かぬ者はおそらくいないだろう。恒例の夏季休暇を過ごしていた、スコットランドのバルモラル城で息を引き取った同女王の幼少期のエピソードを振り返ってみたい。

すべては1936年、伯父のエドワード8世が離婚歴のある米国人女性ウォリス・シンプソン夫人との結婚を選んだことから始まる。同王は、即位後1年もたたぬ12月11日、退位することを英国民に伝えたのだった。

この大事件により、エドワードのすぐ下の弟、すなわちヨーク公ことアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ王子が即位することになり、その長女であるエリザベス王女が、後に女王となることが確定した。やがて、英国君主という大きな責務がその肩にのしかかる日が来ることを宣告されたわけで、10歳の少女にとって、それは衝撃だったに違いない―というのが一般的な見解だ。

しかし、実は、もっと以前からエリザベス王女が後の君主となることは見越されており、1936年以前に、すでに様々な準備が始まっていたとする考えを示す記事がBBC(電子版)に掲載された。寄稿者はロバート・レイシー氏。英国の歴史研究家で王室関連の著書もあり、ネットフリックスの人気シリーズ『ザ・クラウン』制作にあたり、歴史事項の監修も務めた人物だ。今回は、同氏が「根拠」として挙げる複数のエピソードから、主要なものを取り上げることにする。

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エピソードその1
祖父ジョージ5世は知っていた!

ジョージ5世(在位1910~1936)=写真=は、ことのほか孫娘のエリザベスをかわいがった。「リリベットLilibet」という愛称をつけたのも同王だ。初孫をかわいがるのはよくあること、と思いきや、ジョージ5世の胸には、エリザベスを世継とする未来図があったと考えられる。

1929年春、肺の大手術を受けた後、南イングランドのボグナー・レージスで療養中だった63歳のジョージ5世は、ヨーク公夫妻に3歳のリリベットを連れて見舞いにくるように言った。
そこで同王はヨーク公夫妻にこうもらした。「そなたの兄エドワードは国王にならない」。ヨーク公夫妻は「何をばかな話を」と顔を見合わせたとされているが、同王は、側近にも「エドワードは国王になったとしても退位する」と断言していたという。退位事件の7年も前の話である。

ジョージ5世は、カリスマ性もなく、演説がうまいわけでもなく、英国王室史の中で特段目立つ君主ではなかったが、王室が近代英国で生き残るにはどうすべきかという点については、優れた嗅覚を示したという。第一次世界大戦で英国がドイツと敵対すると、1917年、それまで名乗っていたドイツ系のザクセン=コーブルク・ゴータ朝から、ウィンザ―朝へとすばやく名称を改めたのもジョージ5世だった。

エピソードその2
チャーチルも打ち明けられていた?

1929年に「Time」誌の表紙を飾ったエリザベス王女(3歳)。公式行事への列席の要請も増えていくなどし、幼少期から人気が高かったことをうかがわせる。

ジョージ5世には、エドワード皇太子、ヨ―ク公アルバート、グロスター公ヘンリー、ケント公ジョージという4人の息子がいた。もっとも聡明、容姿端麗、趣味も幅広く女性関係も華やかというエドワードに対して、同王の評価は厳しく、君主として長続きしないと見ていた。一方、実直で、エドワードとは対照的である次男のアルバートは、映画『英国王のスピーチ』で描かれていた通り、吃音で話下手。また、ジョージ5世存命中から、すでに肺にうっ血が見られ、体が丈夫とはいえず、国王という重責に耐えられるか疑問だとジョージ5世は分析していたようだ。

エリザベスが成人前に玉座に就く事態になった場合、やや愚鈍といわざるを得ない3男のグロスター公ヘンリーを摂政とすることになるかもしれないと、同王は考えていた形跡がある。大手術を受ける前の1928年秋、スコットランドのバルモラル城で、当時財務大臣だったチャーチルに、この考えを話した可能性があるという。

チャーチルは妻のクレメンタイン夫人に送った手紙の中で、まだ3歳にもなっていないエリザベス王女について「幼少でありながらも、威厳を漂わせ、思慮深さを感じさせる」と記している。この24年後、チャーチルはエリザベス女王の治世下における最初の首相として同女王を支えることになる。

エピソードその3
帝王教育が意識されていた!

1937年5月12日、ジョージ6世の戴冠式当日。バッキンガム宮殿のバルコニーから手を振るエリザベス王女(11歳)=写真前列中央。

ヨーク公夫人エリザベス(後のエリザベス王妃。ジョージ6世逝去後はクイーン・マザーと呼ばれた)は、娘たちにできるだけ「普通」の子供時代を送らせてやりたいと考えていた。しかし、ジョージ5世の妻、メアリー王妃は孫娘であるエリザベス王女に、高い望みを抱いていたと見られる。夫のジョージ5世から、後にエリザベスは君主になる可能性が高いと聞かされていたとすれば、当然のことだろう。

1934年、米国ではエドワード王子が「国王になることには乗り気ではない」と大々的に報道されるようになっていたが、英国メディアは沈黙していた。そのような中、ヨーク家の王女たちの家庭教師として雇われた、スコットランド出身で児童心理学などを修めた、厳格だが愛情深いマリオン・クロフォード(愛称はクロフィー)は、メアリー王妃と『結託』して、特にエリザベス王女への教育に厳しさを加えたことを認めている。エリザベス王女には、しばしばメアリー王妃みずからが選んだ優れた児童書のみを与え、遊びに出掛ける際にも、ロンドン塔など、未来の君主の「ためになる」場所が注意深く選ばれていたという。

エピソードその4
祖母メアリー王妃は心構えを教えこんでいた!

8歳のころ、エリザベス王女は、家庭教師のクロフォードに「もし、私が女王になることになったら、日曜日の乗馬は禁止する法をつくるわ。馬たちにも休息が必要だから」と語っていたとされる。

自分が将来、君主になるかもしれないと自覚することは良いことだが、思いあがらせてはいけない、とメアリー王妃は考えていたようだ。

あるコンサートに列席した時のこと。根気が続かず、もぞもぞし始めたエリザベスに、メアリー王妃は「帰りたいならそうしなさい」と話しかけたところ、エリザベスは「おばあ様、そんなことできないわ。コンサート後に私たちの姿を見たいと思っている皆さんをがっかりさせてはいけないもの」と回答。同王妃は、すぐにエリザベスをタクシーで連れて帰るよう命じたという。

人々からちやほやされることに慣れ、思いあがるような君主になってはいけない。慎み深さと謙虚さを忘れず、国民に奉仕することを常に心がけること―ジョージ5世夫妻が、近代社会で王室が生き残っていくために必須と考える心構えを、この孫娘に身につけさせようとメアリー王妃は心を砕いたとされている。

また、同王妃は、エリザベス王女に、良きチーム・プレイヤーであること、そして、王室という確立されたシステムの前にあっては、個人の感情や考えは抑えられるべきであることなどを機会あるごとに言いふくめたと見られている。

エピソードその5
7歳で自分の王位継承順位を理解していた!

エリザベス女王の「お気に入りの1枚」として公開された写真=2003年、アバディーンシャーのバラター近郊、風光明媚なことで知られるザ・コイルズ・オブ・ミック(Muick)にて。
© The Countess of Wessex

1933年、3歳の妹、マーガレット王女にエリザベス王女はこう言った。「私が3、あなたが4」。マーガレット王女は笑いながら反論した。「ちがうわ! 私が3つで、おねえちゃまは7つ(7歳)」。
エリザベス王女が口にしたのは、王位継承順位のことだった。この時、王位継承順位の1位はエドワード皇太子、2位はヨーク公アルバート王子、3位はエリザベス王女、4位はマーガレット王女だった。7歳ですでにこの事実を理解していたエリザベス王女。エドワード8世退位事件の3年も前のことだった。

1936年に父、アルバート王子がジョージ6世として即位したころ、エリザベス王女は「弟が生まれますように」と心から祈っていたという。男子が生まれれば、自分は即位しなくともよいからだ。しかし、ジョージ6世夫妻に男子が生まれることはなかった。

 それから86年。運命を受け入れ、1952年からは王室が繰り広げるドラマの主役としての人生を歩み続けた。母親譲りの健康な体(クイーン・マザーは101歳の長寿)に加え、レイシー氏は、女王がここまでの偉業を達成することができたのは、ユーモアのセンスのおかげだったと語る。
 エリザベス2世の笑顔はこれからも我々の中で輝き続けることだろう。心からのご冥福をお祈りしたい。
 God Bless the Queen!

週刊ジャーニー No.1257(2022年9月15日)掲載