孤独のドクター イグナーツ・センメルヴェイス 前編 だから手を洗え!!

■かつて出産とは死と隣り合わせの一大イベントだった。国家最高レベルの医師に恵まれた宮廷ですら多くの子が、そして母親が命を落とした。産褥熱。健康だった妊婦が産後、急に高熱を発し、そのまま帰らぬ人となることが多かった。細菌と言う概念がなかった時代、産褥熱は防ぎようのない病として片づけられた。苦悶の表情を浮かべながら次々と死んでいく母親たちを看取り続ける中、「本当に防ぎようがないのだろうか」と疑問を抱き始めた医師がいた。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

命がけの大事業「出産」

1503年、ヘンリー7世王妃エリザベス・オブ・ヨークが4女出産後、産褥熱(さんじょくねつ)のため息を引き取った。37歳だった。エリザベスは生涯で8人の子を身籠ったが半分は死産、または夭逝。長男アーサーは16歳で病死し、成人したのはわずか3人だった。ヘンリー7世が他界すると次男のヘンリーが即位しヘンリー8世となった。

6人の妻を娶り、うち2人の首を刎ね、政敵はおろか側近をも多数処刑したヘンリー8世だが、母エリザベスを失った時はまだ12歳ほどで、後の怪物王ぶりが嘘のように深い悲しみに暮れた。下の絵は母エリザベスが亡くなり、喪に服すヘンリー7世を描いたものだが、左上でテーブルに突っ伏して泣いているのが後のヘンリー8世だ。

 
エリザベス・オブ・ヨークの喪に服すヘンリー7世と、部屋の片隅で泣きじゃくる後のヘンリー8世(円内は拡大図)。

ヘンリー8世3番目の妻、ジェーン・シーモアは世継ぎ(エドワード6世)を生んだ12日後、産褥熱により29歳で死去した。最後の妻となったキャサリン・パーはヘンリーの死後、かつての恋人と再婚し、36歳の時に長女を生んだ。しかしやはり産褥熱にかかり出産から5日後に死んだ。

エリザベス・オブ・ヨーク、ジェーン・シーモア、そしてキャサリン・パー。これら3人はいずれもイングランド王妃だ。彼女たちが産褥熱にかかり高熱にうなされている間、イングランド最高レベルの医師たちが病床を囲んでいた。それでも彼女たちを救うことはできなかった。産褥熱とはそれほど恐ろしい病であり、出産とはまさに命懸けの大事業だった。医師たちは産褥熱の治療法どころか原因さえ分からず、奇跡を祈る以外にやれることはほぼなかった。

ヘンリー7世が即位した1485年からエリザベス1世が亡くなる1603年までの期間はチューダー朝と呼ばれる。この時代、生き残るためには強靭さと多くの幸運が必要とされた。乳児の死亡率は大変高く、14%が1歳の誕生日前に死んだ。運よく生き延びても半数近くが10歳になる前に落命した。また、出産によるリスクのため女性の平均寿命は男性より短かったとされる。

衛生環境の劣悪さからくる疾病やたびたび襲ってくるペストや発汗病などの感染症や飢饉、そして未熟な司法による重い刑罰のため多くの人が命を落とした。ヘンリー8世治世下のイングランドでは7万人以上が直接・間接的に処刑されたという。無事に成人できるのは限られた人であり、40歳に到達すると老齢の域に達したと考えられていた。

中央は、立派な怪物王に成長したヘンリー8世(在位1509~47年)。
女性たちは左側から時回りに、ヘンリーの母エリザベス・オブ・ヨーク、6番目の妻キャサリン・パー、そして3番目の妻ジェーン・シーモア。

多くの母親の命を奪った産褥熱

産褥とは妊娠、および出産によってもたらされた母体の形態および機能の変化が、出産を終えてから妊娠前の状態に回復していく期間のことを言う。産褥熱とは産後24時間から10日以内に2日間ほど、38度以上の発熱をすることを指す。出産の際に産道から細菌が入り込んで発病するが、破水後24時間以上が経過してのお産や帝王切開術、胎盤遺残、さらに母体の免疫力低下なども原因と考えられている。発熱以外にも下腹部痛や子宮の圧痛、分泌物の悪臭などといった症状がある。

現代でも産褥熱自体はなくなっていない。ただ、科学や医療技術が飛躍的に進歩したお陰で命を落とすケースは稀になった。しかしこの物語は人類が細菌の存在を突き止める少し前の話だ。産褥熱を激減させる方法に辿り着き、多くの母親たちの命を救いながらも当時の医師たちを大いに怒らせ、ついに評価されることなく死んでいった、たった一人の医師の物語だ。

奇跡のウィーン総合病院

1818年、ハンガリーのブダ近郊、タバーンという町に1人の男児が誕生した。イグナーツ・センメルヴェイス。ドイツ系ハンガリー人と言われる。センメルヴェイスはウィーン大学で医学を学び、1844年に医学博士号を取得。その後、研修医助手を経てウィーン総合病院第一産科のヨハン・クライン教授助手の職を得た。

当時ヨーロッパでは婚姻関係にない男女の間に生まれた子を密かに処分する「子殺し」が問題化しており、それに対処するために乳幼児のケアを含む産科施設が各地に設立されていた。無料で乳児の世話をしてくれるとあって娼婦を含む貧困層の女性たちに有り難がられた。ただし、無料の代償として女性たちは死亡時を含んで研究対象となることが求められた。

ウィーン総合病院には第一と第二、2つの産科があった。第一産科では出産後、10%以上の妊婦が命を落としていた。一方、第二産科の死亡率は3~4%。第一産科に運ばれた妊婦は死ぬ確率が2倍以上高いという話は病院外にも漏れ、広く知られるようになっていた。第一産科行きを告げられた妊婦の中には泣き叫びながら第二産科への転科を訴える者も多かった。あえて病院の外で出産し「病院に向かっている途中、路上で出産した」と嘘をつく者が続出した。この手を使えば例え出産が院外だったとしても生まれた乳幼児のケアを無料で受けることができた。

センメルヴェイスが教授助手として勤めたウィーン総合病院。

「私には環境が整った産科で出産する者より不衛生な路上で出産する者の方が健康を損ないやすいと考える方が合理的に思える。しかし目の前で起こっていることはその真逆だ。一体何が彼女たちをこの破壊的な病から守っているのか…」

センメルヴェイスは勤務する第一産科の死亡率が第二産科どころか路上で出産した人よりも高いことにひどく混乱した。

1846年、第一産科では4010人が出産したがそのうち459人の妊産婦が死んだ。死亡率11・4%。一方の第二産科では3754人が出産し死者105人、死亡率2・8%。もはや二つの産科の間に、目に見えぬ「何か」が介在することは疑いようがなかった。

イグナーツ・センメルヴェイス(Ignác Fülöp Semmelweis 1818~65)。

センメルヴェイスは思いつくあらゆる可能性を潰していくことにした。2つの産科では出産にあたってほぼ同様の技術が施されていた。温度から湿度、施設の構造、風の動き方、天候や食事などを比較したがさほどの差異は認められない。両科の混雑具合を比較したが、むしろ第二産科の方が遥かに人の出入りが多く、接触感染しやすい環境であることが分かった。センメルヴェイスは巨大な迷路の中で袋小路に突き当たった。しかし、ウィーン総合病院にたまたま2つの、似て非なる産科が存在したことが人類に多大な恩恵をもたらす結果となる。そういう意味ではウィーン総合病院とは奇跡の病院だった。

突破口は突然に

解剖中の怪我がもとで死亡したヤコブ・コレチカ医師。

1847年のある日、ヤコブ・コレチカというセンメルヴェイスの同僚医師が、産褥熱で死亡した患者の病理解剖を学生に指導をしている際、誤って学生の持つメスで自らの指を傷つけてしまった。コレチカはその後、産褥熱に酷似した症状を発し、数日後に亡くなった。センメルヴェイスはこの時、病死した患者の遺体に触れることと産褥熱に何らかの因果関係があるのではないかと疑うようになった。第一産科では分娩の合間に医学生を対象に解剖の実習が行われていた。分娩が始まると医師や学生らは遺体の臓器に触れた手を洗浄することもなく解剖室から分娩室へと向かっていた。センメルヴェイスは「遺体から出ている、何か汚染された有機物を手に付着させた状態のまま妊婦の身体に触れることで、産褥熱が引き起こされているのではないか」と仮説を立てた。であれば解剖実習がない助産師育成科である第二産科で死者が少ないことと矛盾しない。

センメルヴェイスは「いくつかの遺体物質、あるいは微粒子が産褥熱を引き起こしている」と結論付けた。パスツールが細菌という微生物の存在を証明するのはこの20年後のことでこの時、まだ細菌はその存在自体が認識されておらず、目に見えないものは存在しないものだった。

センメルヴェイスは解剖台に付着した死臭を消すために使われていた次亜塩素酸カルシウムに目を付け、これを水に溶いた塩素消毒液(カルキ)での手洗いを試験的に導入した。

手洗い。この単純な作業が多くの母親の命を救った。

効果はたちまち表れた。1847年4月には18・3%だった第一産科の妊産婦死亡率は6月には2・2%に、7月は1・2%、8月は1・9%と劇的に減少した。消毒は解剖室にまで及んだ。その結果、翌年には月間死亡率ゼロ%を2度達成した。塩素消毒が有毒な微粒子に対して有効であることは明らかだった。これで多くの母親が救われる…はずだった。

ところがセンメルヴェイスの前に巨大な障壁が立ちはだかった。あろうことか、オーストリアの医師たちはセンメルヴェイスの提言をあざ笑い、怒りすら露わにした。それどころかセンメルヴェイスはウィーン医学界からも追われた。医師たちは一体何に激怒したのか。固定観念に捕らわれた当時の頑迷な医学界を相手にセンメルヴェイスの壮絶な闘いが始まる。 (後編につづく)

参考資料Ignaz Semmelweis Britanica/ The Doctor Who Championed Hand-Washing And Briefly Saved Lives npr他

週刊ジャーニー No.1222(2022年1月13日)掲載