
■ 愛する人は王位から遠く、結婚は難しくとも共に人生を歩んでいけるはずだった。しかし不幸は重なり、750年におよぶ王冠の重みの前に、20年連れ添った「夫婦」は別離を余儀なくされた。今号では、ヴィクトリア女王の伯父で、デヴィッド・キャメロン元首相の祖先にあたる、英国王ウィリアム4世と人気女優ドロシー・ジョーダンの愛と破局の物語をたどる。
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
変幻自在の演技力
18世紀末~19世紀初頭にかけて、シェイクスピア劇の女優として一世を風靡したドロシー・ジョーダンは、1761年にアイルランドで誕生。父は劇場従業員、母は舞台女優で、幼少時から演劇は身近な存在だった。ドロシーが13歳の頃、父親が別の女優と駆け落ち。家計を助けるために働くことを決めた彼女に母親が勧めたのが、女優の道であった。
初舞台は1777年、首都ダブリンの劇場。演目はシェイクスピアの喜劇「お気に召すまま」で、端役の羊飼いの少女を熱演した。ドレスの裾をからげながら陽気に舞台上を走りまわったことから、「脚のキレイな女優がいる」と人気が沸騰。やがて演技力も認められ、1782年には北イングランドのヨークシャー、1785年にはロンドン・コベントガーデンのドルリーレーン劇場への進出を果たした。
喜劇から悲劇まで、ときには男性にも扮する変幻自在な演技は、評価の厳しいロンドンの舞台評論家も絶賛した。優雅な立ち居振る舞いと美貌、よく響く凛とした声、それでいて人懐っこい笑顔を浮かべるドロシーには、裕福なパトロン男性の影が絶えなかった。
船乗り王子の恋
一方、ウィリアム4世は英国王ジョージ3世の三男として、1765年にバッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)で産声をあげた。両親は仲が良く、上には2人の兄、下には12人の弟妹が誕生。14歳で英海軍に入り、英雄ネルソン提督の指揮下で活躍。「船乗り王子」との愛称で呼ばれていた。
2人が出会ったのは、1790年のある夜のこと。友人から観劇に誘われ、ウィリアムがドルリーレーン劇場へ足を運んだのがきっかけだ。大嵐に遭遇した船が、絶海の孤島に漂着することで始まるシェイクスピア劇「テンペスト」を鑑賞したウィリアムは、ドロシーの迫真のパフォーマンスに感銘を受け、楽屋を訪ねる。そして明るく、機知に富んだ会話を交わせるドロシーに、すっかり魅了されてしまった。このときウィリアムは25歳、ドロシーは4歳上の29歳だった。
当時の彼の王位継承順位は、兄2人に続く第3位。しかし、兄夫婦に子供が生まれれば自身の継承順位は下がるため、玉座が巡ってくる可能性は低かった。だが、クラレンス公爵位を賜っているとはいえ、王族と女優の婚姻は難しい。それでも彼女と共に過ごしたいと考えたウィリアムは翌年、私邸で同棲生活をスタートさせる。
国王公認「おしどり夫婦」
2人の関係はすぐに広まったが、意外にも父王ジョージ3世は好意的に受けとめた。いつも一緒に行動し、その様子は「彼が彼女を離さないのやら、それとも彼女が離さないのやら」と詩人が謳うほどであった。やがてドロシーは男児5人、女児5人の合計10人の子供を出産。王族の姓を名乗ることは許されないため、子供たちには庶子として「フィッツクラレンス(FitzClarence:「クラレンスの子」の意味)」の姓が国王から与えられた。さらに、一家で穏やかに暮らせるように、ロンドン郊外にある王室所有の邸宅「ブッシーハウス」も贈呈している。
ウィリアムは女優としてのドロシーの才能を高く評価しており、「女優をやめてほしい」とは言わなかった。というよりも、海軍を退役したウィリアムの収入は多くなく、むしろ人気女優の彼女の稼ぎに頼っていた面もあったのだ。ドロシーは子育ての合間に、好きな舞台でも主役を演じ、忙しくも心満たされた日々が続いていくことを疑っていなかった。
20年目の破局
1811年、ブッシーハウスに王室から一通の手紙が届く。それは、長らく精神病に苦しんでいた国王が、長兄を「摂政王太子(プリンス・リージェント)」に任じ、君主代理として政治を任せるとの知らせであった。これにより、ウィリアムとドロシーは大きな決断を迫られることになる。
2人が共に暮らしはじめてから20年の歳月が過ぎていたが、長兄には未成年の娘が1人、次兄は子供に恵まれず、ウィリアムの王位継承順位はひとつ下がって第4位になっただけであった。その上、すぐ下の妹は外国へ嫁ぎ、その下の弟も未婚。1066年に英王朝が開かれて以来、750年にわたり連綿と続いてきた王家直系の血筋が絶えてしまう危険性に直面していた。三男のウィリアムもすでに46歳。鷹揚に構えていた父王とは異なり、長兄は素早く厳命を下した。
「しかるべき相手と速やかに婚姻を結び、早急に跡継ぎを成すように」
いつかそんな日がくるかもしれない…と覚悟していたとはいえ、突然の強引な別れ話に、ドロシーは取り乱した。
「王太子殿下の娘である王女殿下がいるではございませんか! あと数年も経てば、お子様をお生みなるはずです!」
しかし、当時は出産で命を落とす女性が多く、その頃にはウィリアムも50歳を過ぎているだろう。これまで自由に生きてきた分、王族としての責務から逃れるわけにはいかない。ウィリアムにとっても断腸の思いだったが、取りすがるドロシーを説得し、2人の道は分かたれた。
ブッシーハウスを去るにあたって、ドロシーは「子供の親権と養育権」を要求した。「愛の結晶」を手放したくなかったし、庶子の彼らの居場所がなくなることを懸念したのである。ウィリアムは条件をのみ、さらに多額の養育費を毎年払うことを約束。その代わり、彼もひとつ条件を出した。「女優業の引退」だ。子供たちの面倒をしっかりと見てほしい。その分の生活費も出そう。ただし再び舞台に上がった場合、養育費と生活費の支払いは停止、子供の親権も取り上げる――という内容であった。この契約は、のちにドロシーをどん底に突き落とすことになる。

© Jonathan Cardy
裏切りの結末
別離から3年経った1814年、子供たちと静かに暮らしていたドロシーのもとに、「もうひとりの娘」が転がり込んできた。
実は、人気女優だったドロシーはウィリアムと出会う前に数多の恋愛遍歴を重ねており、数人の子供を産み落としていた。その娘の夫が莫大な借金を背負い、夫妻は借金取りから逃げ回っていたのである。実姉に預け、ほとんど顔を合わせることがなかった娘の訴えに、ドロシーは借金の肩代わりを決断。でも、ウィリアムから送金される生活費だけでは返済額に満たない。私ができること、それは女優復帰――。ドロシーは演劇界に戻った。
電撃引退した元人気女優の復帰は、大きな話題になった。初演は成功を収めたが、演劇界は世代交代を迎え、53歳の彼女に往年の人気を取り戻すことは困難だった。そして当然ながら、約束を破ったドロシーをウィリアムは許さず、金銭的援助は即停止され、子供たちはブッシーハウスへ引き取られていった。
借金返済に追われたドロシーは翌年、住んでいた家を売却してフランスへ逃亡。ところが、借金は膨らむ一方だった。なんと娘夫妻がドロシーの名を使って浪費していたのだ。フランスを転々とするうちに体調を崩し、ウィリアムとの破局から5年後の1816年、パリ郊外で「子供たちに会いたい」とつぶやきながら、貧困の中でひっそり世を去る。誰ともわからない遺体は、近くの市民共同墓地に埋葬された。

重なる不幸
ウィリアムはドロシーと別れた後も、結局独り身を貫いていた。しかし、彼女の不幸な最期を耳にし、また長兄の一人娘が死産により死去したことで重い腰を上げ、1818年にザクセン=マイニンゲン公国(現ドイツの一部)のアデレード公女と結婚。26歳の新妻に対し、ウィリアムは53歳になっていた。アデレードは4度身ごもるも、流産や死産を繰り返し、「我が子の代わり」にウィリアムの10人の子供たちを可愛がったという。ドロシーの懸念は杞憂に終わったのである。

© Valsts kanceleja / State Chancellery
やがて王位を継いだ長兄が死去、それに先立ち次兄も亡くなっていたため、65歳を目前に控えた1830年、ウィリアム4世として即位。子供たちは、爵位を与えられた者、軍人になった者、有力貴族に嫁いだ者など様々だったが、伯爵家に嫁した三女エリザベスの子孫が、デヴィッド・キャメロン元英首相にあたる。ウィリアムが国王の座にあったのはわずか7年で、王位は弟(病死)の娘、姪のヴィクトリアへ渡っていくことになる。
ちなみに、ウィリアムは即位した翌年、ドロシーの大理石彫刻の制作を依頼した。その等身大のドロシー像は、今もバッキンガム宮殿に飾られている。
https://www.rct.uk/collection/2177/mrs-jordan-dorothea-bland-1761-1816
週刊ジャーニー No.1135(2020年5月7日)掲載