700年間、 主だった勝利なし
マルコム3世によって、ようやく統一されたスコットランドではあったが、不安定な状態は一向に改善されなかった。王は戦死するか、暗殺されるか、あるいは不慮の事故で落命するかし、王が亡くなるたびに激しい王位争奪戦が起こった。カンモー王家の時代に直系の長子が王位を継ぐという制度が採用されるようになったものの、長子を亡き者とすればその次の子に権利がめぐってくる。有力貴族たちは、どの王子の後ろ盾になるかで勢力図が大きく変わることから、権謀術数に明け暮れた。また、王家の血を引く者と貴族との婚姻により、系図は複雑化。自分こそが王にふさわしいと名乗り出る者が多数現れる事態となることも珍しくなかった。
スコットランドは、隣国イングランドがつけいる隙をむざむざ作っていたといえる。
『聖人』の異名をとったデヴィッド1世(在位1124~53年)の流れをくむ、アサル王家が1290年に断絶したこと、そして、イングランド王が、ウェールズ征服を果たすなど文武に秀でたエドワード1世であったことは、スコットランドにとって2重の不運であった。
アサル王家の後継に名乗りをあげた13名もの『近親者』たちは、内戦勃発を恐れるあまり、あろうことか、イングランドのエドワード1世に仲裁役を依頼したのである。大軍を率いて北上したエドワード1世の前に、対立したままのスコットランド貴族たちはいいなりになるしかなく、エドワード1世の傀儡(かいらい)として、ジョン・ベイリオル(John Bailliol)が即位する(在位1292~96年)。

スターリング近郊のバノックバーンを見渡すように建つ、ロバート1世の像。
ベイリオルは、当初こそ、エドワード1世の要求を受け入れていたものの、1294年、他のスコットランド貴族たちがエドワード1世に反旗を翻してフランスと同盟を結んだこともあり、みずからも1296年、挙兵。しかしながら、エドワード1世軍に大敗を喫し、スコットランド王が代々、戴冠する際の『座』として使われてきた、スクーン宮殿の「運命の石(the Stone of Destiny)」を奪われてしまったのである。
イングランドの属国と成り下がってしまったスコットランドだったが、このエドワード1世を上回る強運の持ち主が現れる。その名をロバート・ザ・ブルース(Robert the Bruce)という。ロバートの祖父は、ベイリオルと王座を争った12人のうちのひとりだった。
ロバート・ザ・ブルースは、スコットランド国王になりたい一心で、一時はエドワード1世にすりよったり、一番のライバルであったベイリオルの甥、カミンをよりによって教会の中で刺し殺してしまったりと、人格的に優れているとして尊敬された人物では決してなかった。
しかしながら、カミン殺害の後、1306年にみずから戴冠して「ロバート1世」を名乗ってからは、スコットランド国王として八面六臂の活躍を見せる。ロバート1世をたたきのめすべく、再び大軍を引き連れ北へと向かう途中でエドワード1世が急逝したことは、天がロバートに味方したことを示す吉兆と言えた。
その運の強さが存分に証明されたのが、1314年のバノックバーンの戦い(本誌5月15日号に特集記事を掲載)である。父王とは異なり、無能であったエドワード2世の軍を、ロバート1世がスターリング郊外で撃破。この戦いは今も栄光の勝利としてスコットランド人の心に刻まれている。
1314年からちょうど700年目を迎えた今年、様々な記念行事が行われたが、ひるがえってみると、残念ながら、ここ700年で歴史に特筆される勝利が他にない。
バノックバーンの戦いから700年という節目の年に、独立の是非を問う住民投票が行われることをSNPが意図したかどうかは分からないが、因果めいたものを感じるスコットランド人は少なくないことだろう。
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