ランカシャー訛りで質問攻め
1876年3月8日、ひとりの若き英国人科学者が明治政府の招聘で日本にやって来た。
政府の役人に迎えられ、これから3年間を過ごすことになる日本家屋に案内された。その来日初日の夜、この英国人を突然襲ったのが「ぐらぐらっ」という不気味な揺れ。床にへたり込み、しばらくは口もきけなかった。この英国人こそが「日本地震学の父」にして「西欧地震学の祖」とも言われるジョン・ミルンだった。やがて正気を取り戻した時ミルンの頭の中には様々な疑問が次々と浮かんできた。あの不思議な現象は何なのか? あれだけの揺れがどこから来るのか? なぜ日本に起こって、英国には起こらないのか? 持ち前の探究心が刺激されたミルンは、この不思議な「揺れ」に大いに興味を覚えた。
ジョン・ミルンは1850年、スコットランド人の両親の間にリバプールで生まれ、ランカシャーのロッチデールに育った。生涯故郷を深く愛し誇りに思い、常にランカシャー訛りの英語を話したと言われている。子供の頃から『知りたがり屋』で、いつも周りの大人を質問攻めにしていた。小学校に上がった時に母親がホッとしたのも無理は無かった。
学校では数々の賞を受賞する優秀な子供だった。高校生の時に受賞した報奨金で湖水地方を旅したことがあったのだが、他の受賞者は旅が終わると満足して自分の町に帰って行ったのに対し、ミルンは海を渡ってアイルランドに向かった。道中パブでピアノを弾いて小銭を稼ぎ、ダブリンとアイルランド南部を回るという、冒険心、探究心の強い少年であった。
やがて一家はロンドンに移り、17歳になったミルンはロンドン大学キングス・カレッジの応用科学部に入学し、数学、機械学、地質学、鉱山学等を学んだ。卒業後、地質学と鉱山学を専門分野に王立鉱山学専門大学に進んだ。積極的に実地調査を行い、ランカシャーやコーンウォール、さらに中央ヨーロッパ各地の鉱山を回った。23歳になる頃にはジョン・ミルンは、地質学と鉱山学の分野で頭角を現し始めていた。
極東の地へのオファー
学位と現場経験の両方を持ち合わせたミルンは就職にも困らなかった。1873年、王立鉱山学専門大学の推薦を受け、ミルンはサイラス・フィールド社に鉱山技師として2年契約で雇われる。ニューファンドランド島(現在はカナダの一部)での石炭と鉱物資源の発掘調査が主な任務だった。ミルンは島の岩石の種類や構造を論文2本にまとめ、地理学会誌に発表した。また、氷河にも興味を持っていたミルンは、氷と岩石の相互作用についての調査も行っている。
地質学者・鉱山学者としてのミルンは引っ張りだこで、王立地理学会から北西アラブへの調査隊に同行して欲しいという依頼を受けた。チャールズ・ビーク博士の調査はシナイ山の正確な位置を確定するのが目的で、地質学者が必要だった。ビーク博士の研究は宗教色の強いものだったため、シナイ半島での研究結果は論議を巻き起こしたが、ミルン自身は宗教的なコメントは控えた。この調査中も、ミルンはシナイ半島の地質調査の機会を逃さなかった。帰国後、収集した化石の全てを大英博物館に寄付している。
1875年、ミルンが次に受けた職のオファーは、きわめて意外な雇い主からのものだった。日本政府が新設した工部大学校の地質学・鉱山学教授職への招聘で、近代化を目指す明治政府のいわゆる「お雇い外国人」政策の一環である。ミルンは、極東のミステリアスな島国日本で働けることを喜び、すぐに承諾した。この時からミルンと日本とのつながりが始まる。
日本までの旅路は容易ではなかった。船酔いをするミルンは船旅を嫌い、周囲の猛反対を押し切って、ヨーロッパ、ロシア、シベリア、モンゴルそして中国へと至る陸路を選んだからだ。しかしミルンにとってこの旅程は、足を踏み入れたことの無い地域で地質学の研究を深めることができる最高のチャンスだった。壮大な旅は、全行程に11ヵ月を要した。
1891年に濃尾地方で発生した日本史上最大級の直下型地震の被害をとらえたスライド。
© Carisbrooke Castle Museum