【前編のあらすじ】
考古学への憧れが高じて来日。横浜で行った発掘調査で見つけた旧石器時代の人骨がきっかけで、図らずも日本人のルーツ、そして日本の暗部に触れることになったニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro 1863~1942)。スコットランドのダンディー生まれながら日本に帰化したマンローは、関東大震災を始め、満州事変、日中戦争と激動の時代に巻き込まれていく。やがて太平洋戦争が勃発。敵国である英国からやってきたマンローが、当時「土人」とさえ呼ばれていたアイヌの人々や、その文化を守ることができるのか。後編では、マンローの北海道時代を中心に送る。
◆◆◆ 大震災で垣間見た地獄 ◆◆◆
1923年9月1日午前11時58分。関東一円を激しい揺れが襲った時、マンローは軽井沢にいた。横浜で医師として勤めるかたわら、夏場は外国人客でにぎわう軽井沢のサナトリウムで診療にあたっていたのである。
関東大震災の翌朝、横浜へ向かおうとしたものの、汽車は日暮里駅どまり。マンローは馬を買い取り、みずから手綱を握って駆けた。ようやく横浜にたどりついた時にはすでに夜半になっていた。港近くの石油タンクが巨砲の炸裂するような爆発音とともに黒煙をあげて燃え上がっていたという。
マンローの病院も新居も、3人目の夫人であるアデルの実家も全て焼失。日本人だけではなく外国人居留地に住む数千人の西洋人も被災し、多数の死者が出た。マンローは新居に残していた研究メモや蔵書をことごとく失うが、多くの論文や発掘物を定期的に英国に送っていたのは不幸中の幸いだったといえる。マンローは焼失した英領事館の敷地内に大急ぎで作ったテント張りの医療施設で、怪我人の手当や防疫に奔走した。
190万人が被災し、10万人以上が死亡あるいは行方不明になったとされるこの関東大震災で、マンローは幸いにも自分の家族の誰をも失わずにすんだ。しかし、英国の領事夫妻は帰国中で難を逃れたが、領事代理は重傷、副領事は圧死という惨状だった。また、多くの避難民が横浜公園に逃れたものの、四方八方から火の手が襲い、人々は防波堤をのり越え海中へ避難したという。その数は数千人とも言われるが、風に乗った熱と煙りは沖へ向かい、救援の船が埠頭に近づくのを妨げた。怪我人の手当にあたるマンローの脳裏を、「地獄」という言葉が一度ならずよぎったのではなかろうか。
横浜の住居を失ったマンローは、これを機会に本格的に軽井沢に居を移すことにし、横浜の病院へは年末限りと辞表を提出する。32年にわたる長い横浜時代はこうして終わった。