英国ファンの父と美しいもの好きの母

 

 


腕の良い背広作りの職人として知られた、父ヤクブ(Jakub Frucht)=写真右=と、
社交的だった母、スィルトゥラ(Cyrtula)=同左

 アーノルド・フルフトの父、ヤクブは1900年にポーランドで生まれた。3歳年下の母、スィルトゥラとは1923年に結婚。母親は美しいものをこよなく愛す社交的な女性で、家には豪奢なペルシャじゅうたんが敷かれ、輝くばかりに手入れされたグラスと毛皮のコートは、彼女の大切な宝物だった。
 2年後には長女のソーニャが誕生、そして1931年7月17日、待望の男児としてアーノルドが産声をあげた。4人家族の幸せな生活が始まったのである。
 ヤクブは腕の良い仕立て屋だった。100メートル先からでも彼が仕立てた背広は分かるといわれたほどで、店は大いに繁盛した。倉庫には様々な生地が積まれ、中でも「Made in England」と記された生地は最高級品だった。大切な生地をムシから守るための樟脳(モスボール)の匂いをかぐのが、アーノルド少年は好きだったという。
 父ヤクブは、訪れたことのないそのイングランドに強い憧れを抱いていた。ハイド・パークのスピーカーズ・コーナーでは女性でさえ言論の自由が認められると熱をこめて語り、いつかアーノルドをケンブリッジ大学で学ばせたいというのが口癖だった。だが、アーノルドが期せずしてひとり英国へ渡り、立身出世を果たすことになろうとは、この時ヤクブはもちろん、アーノルド自身も知るよしもなかった。
 幸福な8年間はまたたく間に過ぎた。アーノルド少年は両親の深い愛情の中、ユダヤ人としての教育を受けながらすくすくと育った。
 ところがすべてを変えるできごとが、1939年9月1日に起こってしまう。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したというニュースは世界に衝撃を与えたが、フルフト家の日常も一変。ポーランド中央部から西部にかけて、この秋だけで5千人のユダヤ人が虐殺された。しかし、それは単なる序章でしかなかったのである。ガス室へ送られたユダヤ人の数は、チェルストホヴァという都市ひとつのみを見ても4万人に上ったといわれている。
 生き残ったユダヤ人に対しての締め付けは、日を追うごとに厳しくなっていく。1941年にはゲットー(ユダヤ人居住区)が定められた。フルフト家は既にその区域内にあったため、引っ越さずに済んだものの、一家はやがてある選択を迫られる。ゲットーに残り、ゲシュタポ(ナチス・ドイツの国家秘密警察)に連行される日をおびえながら待つか、いちかばちかでゲットーから脱出するか。
 1943年春、フルフト家の家長としてヤクブは後者を選んだ。そして、プォーヴェシカ夫人をはじめとする協力者のおかげで、まず子供たちがゲットーからの脱出に成功したのだった。

 

 

信じがたい知らせ

 


 アーノルド少年が、姉ソーニャの潜伏するワルシャワ市内のフラットにたどり着いてから約1ヵ月が経過した。誰かが玄関のドアをノックするたびに緊張が走る。アーノルドの両親かもしれないが、密告を受けてユダヤ人を探しに来たゲシュタポかもしれない。
 この日もドアをたたく者があった。そっと開けてみると、ドアの外にたっていたのは、チェルストホヴァでフルフト家と家族ぐるみのつきあいをしていたユダヤ人の男性だった。彼がどうやってゲットーを抜け出したのかは分からない。彼は言った。
 「ソーニャ、君に話がある。君だけに、だ」
 別の部屋に入った2人は扉を閉め切った。その会話が終わってからも、ソーニャはしばらく部屋から出てこなかった。ようやく部屋から出てきたソーニャは、目が赤かった。
 「何かあったの?」
 「おなかが痛いだけよ、アルシュ」
  ソーニャは弱々しく答えた。
 「彼は何て言ってたの?」
 「何でもないわ。心配しなくていいのよ」
 それ以上の答えを得られないまま、数日が過ぎた。しかし、ソーニャはしょっちゅう泣いているらしかった。
 「ねぇ、どうしたの?」
 そう聞いても「痛むの」としか答えてくれなかった。
 「じゃ、お医者さんに行った方がいいよ」
 「お医者さんには治せないと思うわ」
 17歳のソーニャはアーノルドにどう伝えていいものか、思いあぐねていたのだった。彼らの両親がもうこの世にいないことを。しかし、いつまでも隠しとおせるはずがなかった。数日後、アーノルドはこの信じがたい事実を告げられたのである。といっても、ゲットーから脱出しようとして見つかり、銃殺されたという最低限の情報でしかなかった。
 両親の身に実際何が起こったのか、アーノルドは後年、懸命に突き止めようとした。調べたこと、あるいは人づたえに聞いたことなどを総合すると、こういうことだったようだ。
 ワイロを渡したはずの監視のウクライナ兵が裏切ったのか、あるいは単に、運悪く他の誰かに見つかってしまったのかは不明だが、両親は、ゲットーを脱出しようとして捕まったのだった。着衣をすべて取り上げられた後、自分たちで穴を掘るよう命じられた。恥辱と恐怖に耐えながら墓穴を掘る2人の姿が思い浮かんだ。
 そして銃声。2つの亡骸はその墓穴へと倒れこみ、やがて土がかけられた。
 両親は死ぬ間際まで、アーノルドとソーニャの行く末を心配していたに違いない。子供たちの身を案じる気持ちは、自分たちが直面している死への恐れ以上に強かったのではないかと、アーノルドは自分が親になってから思うようになったという。
 こうして、11歳と17歳で孤児となったアーノルドとソーニャだったが、泣いてばかりいるわけにはいかなかった。生き延びなければならない―両親にもらった、この第2の命を守りきらなければ―。

  
アーノルド・フルフトは、「Ulica Berka Joselewicza」
8番地のフラット7号で誕生した(写真は1990年代に撮影されたもの)。