実験、そして開発

  ワイト島での生活に慣れることはミルン夫妻、特にトネにとって容易では無かったものの、徐々に地域に溶け込んでいった。シャイド・ヒル・ハウスへはとにかく訪問客が多かった。地震学関係の専門家はもちろんのこと、学生やジャーナリストが頻繁に訪れた。そんな中、トネは日本からの来客を特に心待ちにしていた。インターネットの無い時代、何より日本のニュースを知りたかっただろうし、日本語での会話を楽しみたかったに違いない。 ところで、英国人の訪問客の中に、バーミンガムの近くで質屋を営んでいたジョン・ショウという人がいた。アマチュア地震マニアで、ミルンに非常に影響を受け、自宅地下室を地震観測のための実験室に造り替えたという。後にミルンとショウは共同でミルン・ショウ式地震計を開発するまでに至る。後にグレイ・ミルン式地震計は1924年で姿を消し、以降はミルン・ショウ式地震計が取って代わることになる。 研究に没頭する中、わずかな余暇の時間をミルンはフルに活用したようだ。ミルンはゴルフやクローケーが好きで、ゴルフに出掛ける時はいつも愛犬ビリーを連れて行ったという。加えて、広田助手と共に写真も趣味にし、ワイト島写真クラブの会長を務めていたとされる。ミルンは何事も懲り出すととことん追求するタイプだったのだ。

 

トネ・ミルンの波瀾万丈な生涯

■堀川トネは英語を学ぶために開拓史仮学校女学校に進んだが、幼い頃から患っていた病気が悪化し、志半ばにやめざるを得なくなる。周りからの冷たい目、そこへ最愛の父の急死。人生のどん底にいた時にミルンと出会い、2人は大恋愛の末、情熱的な結婚をする。函館の外国人墓地で出会ってから1年の間に2度しか会わなかったにもかかわらず、10何通にも及ぶラブレターのやりとりが2人の気持ちを近付けたのだった。

■3度目に会った時にトネは、ミルンに一生治らない病を持っていることを告白。「あなたが受けた屈辱と悲哀の経験をもとに、より広い視野で大きく物事を見ることが本当の勉強だ。私は地震と火山の研究に夢中だ。あなたも英語の勉強がしたいと言っていたね。二人でそんな生活を共にしよう」。ミルンはプロポーズでトネの不安をはね除けた。翌年函館に来るはずのミルンを待ちきれず、トネは単身東京に向かい、霊南坂教会で式を挙げた。ミルン30歳、トネ20歳だった。婚姻届は後に渡英が決まってから出されたが、その時にトネは英国での永住を覚悟し、函館に永遠の別れを告げた。自分の意志で外国人との恋愛結婚を貫くトネには、病に悩む姿はもう見られず、強く逞しい女性となっていた。

■シャイドではミルンの研究生活を支えながら、各地からの訪問者の接待に忙しい毎日を過ごした。ミルンの没後も6年間、神経痛に耐えながら1人でシャイドに留まったが、やがて帰郷を決意。甥っ子がはるばる迎えに来てくれ、1920年に函館に帰郷。晩年のトネはいつも「私はミルンによって生き返ることができた女です」と語っていたという。

 

謙虚な愛妻家、逝く

  シャイドでの地震観測に二人三脚で取り組んできた広田助手が体調不全から1912年12月に日本へ帰国、その後間もなく亡くなった。ミルンもつられるように具合を悪くしていた。ブライト病に冒されており、絶えず頭痛に苦しめられていた。1913年7月半ばにはベッドから起き上がれず、月末に昏睡状態に陥り62歳で亡くなった。 葬儀はニューポートの教会で執り行われ、多くの人が弔意を表すために足を運んだ。日本からは九条男爵が大正天皇の代役として参列した。井上大使は弔意で「英国と世界の科学界にとって、そしてその名前が決して忘れられることのない日本にとって大きな喪失です」と述べている。ミルンは同じくニューポートのセント・ポール教会に埋葬された。 ミルンの突然の死は、学術界に「ショック・ウェーブ」を巻き起こした。英国高等科学研究所や国際地震学協会がミルンの功績を振り返り敬意を表し、偉大な科学者の他界を惜しんだ。 研究者としてだけではなく、人間的にも多くの人に影響を与えたことは、日本時代からの同僚かつ友人であったジョン・ペリーの言葉からもわかるだろう。「ミルンの才能は、自分の研究にあらゆる人を惹きつけることができたことだ。一方でミルンは謙虚だった。地震学以外の分野にも興味を示し、他の研究から学ぼうとした。そしてミルンは最高の友人だった。日本でもシャイドでもいつも時間を作ってくれ、大切にもてなしてくれた」。 ミルンはまた、妻思いの良き夫だった。トネを残して逝くことを非常に懸念し、トネが経済的にも社会的にも困らないようにあらゆる配慮を行っていた。トネは一人になってからもシャイドでの生活をしばらく続けたが、体調を崩してしまう。函館への恋しさも募り、また、トネを英国に引き留めるものもなくなり、トネはついに帰国。愛する函館で、1919年に生涯を終えた。1926年に函館墓地で、ジョンとトネ・ミルンの追悼式が催され、2人の墓石が立てられている。


函館山のふもとの外国人墓地にある、ミルンとトネの墓碑。
=ブログ『函館ネプチューン物語(blog.hokkaido-np.co.jp/neptune)』。
管理者・青井元子氏提供。© Carisbrooke Castle Museum

 

 

今に生きるミルンの情熱

 

 「地震学の父」ミルンの業績は日英の各団体から認識され称賛された。1895年、英国に戻った直後、明治天皇から異例の勲三等旭日章と年千円の恩給が授与された。英国王立協会からは誰もが望むロイヤル・メダルを、オックスフォード大学からは名誉学位を、そして東京帝国大学からは名誉教授の称号が授与された。これらは受章の数々のごく一部だ。
 工部大学校での教え子や日本地震学会の同僚の中には、ミルンに強く影響を受けその後の日本の地震研究に大きく寄与した者も枚挙にいとまがない。初の日本人地震学教授となった関谷清景は、開成学校(現東京大学)の地震研究所でミルンの指導を受け、地震計の完成に協力している。関谷の後継者の大森房吉は、ミルンと共に、1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。濃尾地震が与えたショックは大きく、大森等が中心になり帝国議会に地震の専門研究機関の設置を申請。18年間にわたる地道な活動を経て、1929年に現在の形の日本地震学会が創立されたのだった。
 大森はミルンの地震計の改良も行った。1898年に、世界初の連続記録可能でより精密に振動を探知する大森式地震計を開発し、その後に続く国内での地震計開発の基盤を築いた。
 英国ではミルンの死後も、地震学においては、ミルンが強調した優れた地震計による正確なデータの収集と、学術協力体制の整備が進められた。シャイド観測所は地震学調査委員会の会長に引き継がれ、1919年にオックスフォードに移転した。日本では日本地震学会が帝国地震調査委員会へと発展。地震観測所国際ネットワークの発足は、国際協力と地震観測網を夢見たミルンを大変喜ばせたことだろう。
 ミルンが後世に残したものは、ひと口にまとめることができないほど大きい。科学と地震学における実質的な研究成果は言うまでもないが、さらに広い視野で将来を見据えた共同研究、日英連携、国際協力の基盤を築くために、彼が注いだ情熱は、火山の大噴火を招くマグマのように、今も強いエネルギーを発し続けているのである。

 


タンパク尿、むくみ、高血圧を伴う腎臓の病気として知られる
「ブライト病」に冒されたジョン・ミルン。
62歳という若さで亡くなった。

 

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参考文献
『John Milne: The Man Who Mapped the Shaking Earth』Paul Kabrna
森本貞子著『女の海溝 トネ・ミルンの青春』(文藝春秋社)ほか