地震屋ミルン
実験や葉書調査と並行して、専門家集団の形成も進められた。ミルン、ユーイング、グレイが中心になって日本地震学会が設立された。当然ミルンが会長になるものと予測されたが、ミルンは断り、代わりに日本人の役人である服部一三(はっとり・いちぞう)を推薦した。
1880年4月26日、地震学会第一回大会が開催され、最初の論文を発表する栄誉がミルンに与えられた。地震学の現段階での功績と今後の課題を論じた。そして振子地震計を開発し、15個を武蔵野平原に設置して観測を行うと発表。地震計を電報局の中に置き、揺れが起こった時刻も記録する予定だった。この地震計はグレイとミルンの開発によるもので、「グレイ・ミルン式地震計」と呼ばれた。当時の地震計がどのように機能したかというと、地球が震動を起こす度に、精密なガラスの針が作動して、回転ドラムに巻かれた、黒煙で色付けされた感度の高い紙に線を描く。これが震動を表し、波動が極端であればあるほど、大きな地震ということになった。
グレイ・ミルン式地震計は解像度と正確性を高めるために何度も改善が施される。1883年に地震測定に有効な三成分の地震波の同時記録に成功したことから、地震学会が東京気象台での公式地震計として採用した。学会でのミルンの最後の論文によると、グレイ・ミルン式地震計により、1885年から1893年までの間に8331の地震が記録されている。
このように地震学会が1892年に解散するまでの12年間に、学会紀要の発行や地震計の開発の実現を通し日本の地震学の土台を築いたのだ。ちなみに「地震」という言葉も、この頃に初めて使われるようになったと言われている。
ミルンの探究心は留まる所を知らず、地震の起こりやすい環太平洋地帯の国々も調査して回った。学会の会長にこそならなかったが、ミルンがこの新たな科学領域のリーダーであることは誰もが暗黙のうちに了解していた。同僚達はミルンを敬意と親しみを込めて「地震屋ミルン」と呼んだという。
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ミルンの日本滞在中に設置された電気送信用の柱。
1876~1895年頃撮影 ©Carisbrooke Castle Museum
ワイト島から世界へ観測に明け暮れる日々
1895年2月、不運な出来事がミルン家を襲った。自宅と観測所が原因不明の火事で焼け落ち、地震計や文献を含むそれまでの研究成果全てを失ってしまった。火事は大きな打撃となり、これが潮時だと感じたミルンは、大学を辞め英国に戻ることを決意した。大学側も辞表願を受け入れた。同年6月、帰国直前にミルンは明治天皇から招待を受け謁見している。
7月にミルンはトネと共に渡英、気候が比較的穏やかで暮らし易いワイト島に住むことを選んだ。英国高等科学研究所(British Association of Advanced Science)の認可を得て、シャイドShideという町でシャイド・ヒル・ハウスを地震観測所として研究を続けることになった。
ミルン水平振子地震計をシャイド・ヒル・ハウスと3キロ程離れたカリスブルック城の2ヵ所に設置した。日本から連れて来た助手の広田忍と協力し合い、連日記録をとった。とはいうものの、シャイド1ヵ所で世界中の地震を同時に観測することには限界があった。ミルンは以前から考えていた地球規模の地震観測網の必要性を痛感していた。少なくとも20の観測所を世界各地に設置し、相互に協力体制を敷き、共同で研究活動を行うのだ。この大掛かりな構想は、ミルン個人の力では到底実現不可能だった。ミルンは王立協会を説得した。観測所はまず英国に7つ、ロシアに3つ、カナダに2つ、アメリカ合衆国東海岸に3つ建設された。
ここにミルンの政治力を見ることができる。ミルンは19年間という長い期間、日本政府に雇われ、日本の高等教育機関で教育と研究に従事し、日本人の配偶者を得て日本社会に深く関わった人物。英国政府が日本の内情聴取にミルンを利用しなかった方が不思議だ。日本は日清戦争(1894~5)を経て、そして日英同盟(1902~3)や日露戦争(1904~5)を控えていたのだから、英国政府にとっては情報の欲しい国だった。ミルンはおそらく、この際に築かれた政府とのコネクションを利用して、世界規模の地震観測網の実現をアピールしたのではないか。ミルンの頭の中の世界時図には「太陽の沈まない、大英帝国」の友好国が当初から浮かんでいたに違いない。友好国に地震計を設置できれば、地球上の主要な地域をカバーできたからだ。
1900年には地震学者の同僚から資金援助が得られたお陰でシャイド地震観測所も設備が整い、本格的な観測を始めることができた。
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ミルンが発明し、鉄橋に設置された地震計(振動記録計)
1876~1895年頃撮影 ©Carisbrooke Castle Museum
ミルンは人がほとんど感じることの無い地殻変動の研究、つまり微小地震(地震とは無関係の小さな地動)と遠地地震(遠くで起こった地震が原因で起こる地動)の研究に集中した。東京でグレイと共同で開発した水平振子地震計を大いに活用。国内と世界各地の観測所新設計画も進められ、水平振子地震計が合計40設置された。日本では東京帝大構内に拠点が設けられた。南極点を目指したスコット探検隊(1910~12)にも働き掛けて、地震計を南極にも置いて来てくれるように依頼した。
このように世界中で測定されたデータは全てシャイドに送られて分析された。データ量は相当のもので、広田助手の存在にミルンは心から感謝することになる。ミルンが、英国高等科学研究所内に新しく設置された地震学調査委員会の主事の役目を果たすことができたのも、広田助手のサポートあってのことだった。委員会を通して、また、「シャイド地震機関誌」の紙面で地震学の分野に国際的な学術交流が必要であることをミルンは強く訴えた。この後20年間、シャイド地震観測所は世界の地震学の中枢となるが、ミルンの熱意が実を結んだからと言えるだろう。 ミルンは数々の論文をまとめて2冊の本として出版している。バートンとの共著で「地震とその他の地球の運動」を1886年に、「地震学」を1898年に刊行。これらの著書は地震学の貴重な教科書として活用された。
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シャイド・ヒル・ハウスの庭で日本人の訪問客、そして広田助手と撮影された1枚。
最後列右端がミルン、中央の椅子に座る婦人がトネ、その隣が広田助手。
© Carisbrooke Castle Museum
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お雇い外国人政策 |
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■幕末から明治にかけて、日本では多くの外国人、主に欧米人が雇われた。できるだけ効率の良い近代化を目指し、外国の先進技術、知識だけでなく、教育や議会等の制度も学ぶためである。幕末には各藩が競って外国人を雇い「抱える」ので「お抱え外国人」とも呼ばれた。しかしお雇い外国人が本格化するのは明治時代になってからであり、政府や各地の富豪が個人で招聘した。その数は1868年から1900年までの間に約8500人に達し、英国人が半数を占め、そのほとんどが工部省に雇われている。ここに、産業革命とのつながりを見ることができる。 |


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