貪欲に火山を調査

 ミルンにとって工部大学校の環境は幸運だった。学長が同じくスコットランド人でグラスゴー大学出の技師ヘンリー・ダイアーだったこと、そして同僚の中には英国で既に顔なじみであったジョン・ペリー教授がいたからだ。ペリーとミルンは研究者仲間として、生涯の友人として、長くつきあうことになる。外国人教員達のスケジュールはびっしり詰まっていたが、20代後半という若いミルン教授は、活力に満ち高い評判を築いていった。豊富な知識と内容の濃い授業で学生を魅了し、研究活動にも余念がなく、教材が不十分だと自ら教科書を作った。特に結晶学の教科書は非常に専門性の高いもので、後に英国で書籍として出版されている。また、持ち前の好奇心旺盛な性格は、教授の椅子にじっと座っていることを許さず、時間の許す限り実地調査に出掛け、日本社会の歴史、そして火山と地震についての知識を深めていった。
 1876年に伊豆大島の三原山が噴火した時にミルンは、「こんな貴重な研究材料を逃すまい」と現地へと急いだ。自らの身の危険を心配するよりも研究を優先するのがミルンだった。
 噴火が収まって間もない噴火口に近づいた時ミルンが言ったという。「噴火口は見上げるものだと思っていたが、今の私は何と、見下ろしている」と。直径1キロ、高さ100メートルという岩石の円形競技場のような噴火口を、ミルンは注意深く調べて回った。この伊豆大島の地質調査により、ミルンは火山の生成過程に関する知識を深めた。同時にこのような噴火が地震の原因となるのではないだろうかという仮説を立てた。
 この後もミルンは浅間山、千島列島、富士山を含め、日本中の50の火山に登って観測を実施した。総合的な研究の結果、ミルンは、火山活動は地震の原因では無いという結論に達している。ミルン自身の説明によると「我々の体験する地震のほとんどは火山から発するものでも無ければ、直接つながりがあるものでも無さそうである。日本の中央は山岳地帯で火山が多い地域があるが、そこは全く地震の無い地域でもある」。このように大学での休暇を利用した「小探検旅行」をミルンは満喫しながら着実に研究成果を挙げていった。

  

堀川トネとの出会い

 その「小探検旅行」で、ミルンは1878年に函館にやって来た。英国のハンプシャー出身の自然学者トーマス・ブラキストンに出会い意気投合する。ブラキストンは日本の鳥類学の基礎を作った人で、ミルンと同じく学者としての名声を求めるよりも、謎を解き知識を深めることに集中するタイプの学者だった。ブラキストンはミルンよりもずっと長く日本に住んでいたので、日本のしきたりやマナー、そして日本語をミルンに教えることができた。さらにブラキストンの果たしたもう一つの大きな役割は、堀川トネをミルンに紹介したことだった。
 トネは1860年、函館山の願乗寺(今の西本願寺別院)の僧侶堀川乗経の娘として生まれた。日本はその頃、桜田門外の変での井伊大老の暗殺、幕府が力を失い始めるという激動の時代だったが、函館は貿易港として栄えていて、外国人居留者も多かった。ブラキストンもその一人で堀川家とは長いつきあいがあった。父乗経は函館市内の浄水工事に大きく貢献した人で、工事竣工日に娘が生まれ、「利根川の水のように豊かに育つように」との願いを込めて「トネ」と命名したという。
 トネは東京にできたばかりの開拓使仮学校女学校で学んでいたが、脳の病気(詳しい病名は不明)を患い、函館に戻って来ていた。1878年に父が突然亡くなり、その墓参りに行った墓地で、ブラキストンに同行していたミルンと出会う。そして2人は遠距離恋愛の末、1881年に結ばれるのである。

 


シャイド・ヒル・ハウスにて、ジョン・ミルンによって撮影されたと思われるトネ。
 ©Carisbrooke Castle Museum

 

 

新しい学問分野へ

 火山や民俗学研究へと活動を広げる一方でミルンは、工部大学校の同僚達の間で「地震」に対する関心が高まりつつあることを認識し、地震研究を発展させる時機に来ていると感じた。特にジェームズ・ユーイングとトーマス・グレイが着任してからは、時間があれば地殻運動に関する話に熱中した。ミルンは「朝食、昼食、夕食にも地震だよ」と冗談を交え、ランカスター訛りの英語で日本の地震事情を披露した。世界的に神話や迷信で地震の原因を説明していた時代である。ミルンも「実際のところ誰も知らない」と何度も繰り返した。しかしミルンの場合はそこで留まらなかった。
 実は当時、既にイタリアで地震に対する学問的認知があり、揺れを感知する感震器も使われていた。この感震器は、1883年にグレイ・ミルン式地震計が開発されるまで日本でも使われた。が、イタリアでの発展を待たず、日本の工部大学校にいたミルン、ユーイング、グレイに引き継がれたのだった。
 ミルンは地震研究を二つのアプローチから行った。一つは正確なデータをできるだけ多く集めることだった。そのツールとして地震の頻度、大きさ、波動の幅と方角、そして時刻を記録することができる計器を開発しなければならなかった。「優れた計器が問題の解明につながる」と信じていたからだ。そしてもう一つのアプローチは、組織だった研究機関を立ち上げることだった。地質学、鉱山学の専門家としての経験から、新しい科学を学問分野として設立するには、専門家集団が情報交換し共同研究できる場が必須であることを痛感していた。
 ミルンが「地震学者」へ移行する決定的な瞬間は、1880年2月だったと言ってもいいだろう。マグニチュード五・五の横浜地震直後のことである。「激しい揺れのために部屋の中を歩くこともできなかった」と後にミルンが話しているように大地震だった。部屋に実験的に設置していた2つの長い振子が、この衝撃の大まかな方角を測定していた。この装置がグレイ・ミルン式地震計の前身である。
 この実験で地震を「測定」することができたミルンは触発された。そしてより広範囲に地震のデータをとる必要があること、そしてそのデータを分析すれば地震のメカニズムが解明できるということを確信した。
 まだ地震計が不十分であったため、最初の全国調査は人海戦術だった。各地の役所に、その地域で年間平均何度地震が起こるか、去年起こった地震についての詳細な記述をするように依頼した。各地から多数の回答があり、日本では平均1日に3、4回の揺れがあることがわかった。
 さらにミルンは葉書調査を考案した。東京周辺圏の町や村に依頼し、週単位で揺れの記録を葉書に書き留め返信してもらったのだ。この結果、揺れのほとんどが東または北東海岸線から派生しており、西または南西海岸線からのものがほぼ無いということがわかった。19世紀終わりの時点でこのような地震の実態が把握できたことは、東日本大震災の例からも驚くべきことだと言えよう。この葉書調査はその後、東京から約700キロ北部の地域まで拡張して続けられた。

 


シャイド・ヒル・ハウスでのジョン・ミルン(右)と
ジェームズ・ユーイング。1900~1913年頃撮影
©Carisbrooke Castle Museum