![]() |
![]() |
◆◇◆ 貴族の上に立つのは商人と銀行 ◆◇◆
ミケランジェロ広場から望むフィレンツェ中心部。右手に大聖堂、その左にはジョットの鐘楼、さらに左手にヴェッキオ宮が見え、手前にはアルノ川が流れる。 血の色である赤は、古くから罪、怒りといったネガティブな事柄や感情の象徴とされる一方で、キリスト教の世界では、献身や勇気、強い信仰心を保つ決意を示す色と考えられてきた。バチカン(教皇庁)の枢機卿が伝統的に緋色の衣服をまとっているのも、現教皇が赤い靴を履いているのも、この理由による。また、赤は賢明さのシンボルともいわれる。 このページの右半分を飾る肖像画をよくよく眺めてみていただきたい。 深みのある緋色の衣と帽子を身につけ、その居ずまいには思慮深さが漂う。また、瞳は先を見通そうとするかのごとく前方に鋭く向けられている。そして、個性の強さを示すかのような大きな鼻、軽々しさを微塵も見せない口元、かたく握られた手―。 ヤコポ・ポントルモ(Jacopo Pontormo 1494―1557)が1518年ごろに描いたとされる、コジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici 1389―1464)の姿である。メディチ家の家系図には、数多くのコジモが登場するため、このコジモは特別にコジモ・イル・ヴェッキオ(Cosimo il Vecchio)と呼ばれる。英語にするなら「Cosimo the Elder」=老コジモということになる。 「老」がつくからというわけではなかろうが、その死後、約半世紀を経て完成したこの作品では、コジモは壮年を迎えている。政敵を退け、フィレンツェの実質的支配を確立したのは1434年、コジモが45歳の時のことだった。肖像画は芸術品であるばかりでなく、記録としての役割も有する。ポントルモ以前に描かれた肖像画や、コジモの姿を刻印したメダルなどを参考にしたうえで、改めてコジモを描き、その姿を後世に伝えるにあたり、偉業を成した後の風貌が選ばれたと見るのが妥当といえそうだ。 そのコジモが画中でまとっている緋色の装いは、信仰心の篤さを誇示するものか、賢明さをアピールするものか定かではない。しかし、他の肖像画でもコジモは赤い服を着て登場することが多いことを見ると、コジモが生前からこの色を好んで着用していたか、あるいは地位の高い人物への敬意の表われとして緋色を使うのが慣例だったのではないかと想像できる。いずれにせよ、メディチ家の名だたる顔ぶれの中でも、別格といえる扱いをうける老コジモに、赤ほど似合う色はないと思える。 さて、このコジモの生前の肩書きとして最初に記されるべきものは、「フィレンツェ共和国支配者」ではなく「銀行家」であろう。銀行家としての成功がフィレンツェ支配の実現に直結したからだけではなく、彼がもし貴族であったならフィレンツェの支配者となることはできなかったからだ。 フィレンツェでは、歴史的に商人や銀行家の力が強く、1294年に布告された「正義の規定」で貴族と豪族は政治的要職につくことを一切禁じられるに至った。つまり、所有地からの収入(地代)だけでのさばる者には、フィレンツェでは出世の道が閉ざされていたことになる。貴族同士が仁義なき争いを繰り広げ、玉座を奪い合っていたイングランドなどとは事情が大いに違ったのである。この意味でフィレンツェは特異といってよく、後にはローマ教皇や、フランス王妃まで輩出するメディチ家の繁栄は、同市だからこそ実現されたと考えられる。一方、フィレンツェの栄華はメディチ家なくして極められはしなかった。フィレンツェとメディチ家は、あたかもあざなえる縄のごとく、複雑にからみあう関係だったのだ。 このメディチ家台頭の下地は、フィレンツェの発展によってかためられた。まずはフィレンツェの15世紀ごろまでの歴史をおおまかに見てみることにしよう。
◆◇◆ 花の都は競争の町 ◆◇◆
フィレンツェを経済・政治の両面で支えた
アルテ(組合)
◆大アルテ(7組合)
カリマーラ組合(旧商人組合、毛織物貿易商組合)羊毛組合(毛織物製造組合)銀行組合(両替商組合)ポル・サンタ・マリア組合(絹織物組合)医師・薬種商組合毛皮商組合裁判官・公証人組合
◆ 中・小アルテ(14組合)
食肉組合、鍛冶師組合靴職人組合、石工・木工師組合古着商・麻織物組合、ぶどう酒商組合宿屋組合、革鞣(なめしがわ)工組合食料油組合、馬具屋・楯工組合錠前屋組合、武具甲冑師組合木材商組合、パン屋組合
エトルリア人によって建設され、古代ローマ時代に花の女神フローラにちなみ、フロレンティアと呼ばれるようになったフィレンツェ(英語では「フローレンスFlorence」)。花の女神に例えられるほど、アルノ川のほとりに立つ美しい街としてその頃から知られていたということだろう。しかし、きれいな花にはトゲがある。フィレンツェもただ美しいだけの町ではなかった。 476年の西ローマ帝国崩壊後、イタリアは長期にわたり大きな混乱のうずの中で苦しむことになるが、フィレンツェは商業に生き残りの道を見出し、国力をつけるべく積極的に取り組む。12世紀後半には、その一帯(トスカーナ地方)で、かつての中心都市ルッカや、因縁のライバル都市シエナをしのぎ、最も財力のある都市としての地位を固めることに成功。1182年には、自治都市(コムーネ)として認められた。 さらにこの100年後の1282年、有力商人が属す大組合(後述)による第二次平民政府(第一次は1250年)が樹立され、フィレンツェでは共和国としての体制が整う。いよいよ、商人による実質支配と旧貴族層の排除がシステムとして確立されたのだった。 共和制を支えたのは、いうまでもなく好調な経済活動だった。 交易都市としての繁栄を謳歌する一方で、毛織物業を中心とする製造業、そして銀行業がフィレンツェの主要産業として伸びていく。この製造業にしても銀行業にしても、フィレンツェ人同士は他者に競り勝とうと、日々しのぎを削った。早くから規範、規律が定められ、組合制度が発達したというのは、裏を返せば、常軌を逸した競い合いを止めさせるために規範や規律で取り締まる必要があり、組合制度で組織化し、秩序を保たねばならなかったことを示す。 フィレンツェっ子の性(さが)ともいえる、強い競争心は、同市にとっては長所でもあり弱点でもあった。毛織物産業では、フィレンツェ産製品の質の高さは他の追随を許さず、銀行業でも、フィンレンツェを含むイタリアはいうに及ばず、ヨーロッパをまたにかけ手広く商いを展開する一族が複数あった。「眠るな」「怠けるな、すぐに貧乏になる」といった家訓が大まじめに唱えられていたほどという。 こうして、世界のトップレベルの商業都市にまでなり得たのは、旺盛な競争心の賜物と考えられる。しかし、この競争心ゆえに、内政がなかなか安定しなかったのも事実だ。自分より豊かな者、権力を持つ者への妬みは、絶えることなく内部分裂を招き、政変が起こるたびに国は疲弊し、また、他国につけいるスキを与えることになった。競争心ゆえに繁栄したフィレンツェは、やがて同じ理由から没落していくことになる。
銀行業は『罪』?
コジモは貴重な写生本などの収集にも力を入れ、そのコレクションをサン・マルコ修道院内で研究者たちが自由に閲覧できるようにした。この形態は「図書館」のさきがけとされ、後にバチカンでも採用された。 聖書では、金を同胞に貸してそこから利益を得ることを罪として禁じている。高利貸しでなく、単なる金貸し(利子はリーズナブルなものであっても!)でも悪徳業者というレッテルが貼られた。しかし、貨幣経済の発達にともない、日常生活の中で金貸し業は必要とされるようになり、まずはキリスト教の規制をうけないユダヤ人に許され、やがてキリスト教徒も金貸し業や両替業に進出するようになる。後の銀行業も、「利子」をとっては聖書の教えに反することから、ビジネスを正当化しようと「手数料」など、様々な別名が考え出された。それでも、罪の意識は消えず、商人たちは定期的に教会に寄進したり、許しを乞うために祈ったりしたという。富豪ともなると、宗教画を発注、その中に自分たちの姿を盛り込んだり(祭壇に近いところに描けば描くほど、救われると信じられていた)、あるいは、礼拝堂や教会を建てたりと、贖罪のスケールも大きくなる。フィレンツェにある、サン・マルコ修道院は、罪の許しを求めたコジモ・イル・ヴェッキオに対し、時の教皇が「1万フィオリーニを寄進し、(同修道院を)改修すれば許す」と返答。コジモはその4倍の4万フィオリーニを寄付したという。