◆◆◆ 「不器用で八方破れ」な性格 ◆◆◆


 


マンローは、国立スコットランド博物館=写真右=に、日本で発掘したおびただしい量の考古学資料を送った。横浜市歴史博物館で行われた特別展で発行された厚いカタログ=同上=では、それらが丁寧に紹介されており、感嘆するばかり。
 マンローは英国で試験を受け無事博士号を取得したほか、尊敬する先輩であったベルツと再会し旧交を温めた。その一方、エディンバラ博物館の美術民俗学部門を訪れ、正式な日本通信員に任命される。これによりマンローはその後6年に渡り、アイヌ民族学資料や2000点以上のコレクションをエディンバラに送り続けている。
半年後、父親の遺産(父親はマンローがまだ船医だった頃に死去している)の他に、マンローはあろうことか「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。これが原因で高畠トクとは協議離婚し、彼女は2人の間に出来た娘アヤメを連れて家を出る。だが問題のフランス人女性は結局すぐ欧州へ送り返してしまい、マンローは優秀な通訳を失った状態でアイヌの調査を続けることになる。
40代後半になっていたマンローだが、自らの手で家庭を叩き壊した挙句、身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変えている。『わがマンロー伝』を著した桑原千代子氏の言葉を借りれば、この頃のマンローは「不器用な八方破れで、妥協知らずの突っ走り」だったというが、マンローはどんな精神状態で暮らしていたのだろう。帰化して日本国籍になってはいたものの、日本語はほとんど話せず、家族もいない。研究結果を発表するも学会からは無視される。そんなマンローがただ一つ握りしめていたのは、「自分の研究が正しく価値のあることだと信じる気持ち」だったのではないだろうか。
やがて、欧州で第一次世界大戦の勃発した1914年、51歳のマンローは、最初の妻の実家と並ぶ横浜きっての資産家であるスイス貿易商の娘で、名前も同じ、28歳のアデル・ファヴルブラント(Adele Favre‐ Brandt)と出会った。彼女の両親はマンローの年齢や過去の女性関係に不安を覚えたものの、二人は結婚。マンローはアデルの財産が目当てだったと考える人々もいるが、実際のところは分かっていない。
マンローはこの頃調査のためにしばしば北海道各地を訪れているが、次第に釧路や白老に住むアイヌたちと親交を深め、その独自の世界観に惹かれ始める。

軽井沢サナトリウムでポーズをとるマンロー(年代は不詳/写真:北海道大学提供)
折しも1915年は北海道で大飢饉が起きていた。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。結核が蔓延していたが、アイヌは薬草と祈祷しか治療法を持たなかったのである。
マンローは医師として活動しながらアイヌの儀式と風習を調査するようになり、徐々に北海道での滞在期間が長くなりはじめた。湿度が低くて夏も涼しいこの地に、故郷の面影を見いだしたということもあるかもしれない。北海道庁は時折コタン(アイヌの村や集落の意)に滞在するこの外国人医師に興味を持ち、マンローに向けてアイヌに関する5つの質問を発している。その一つ、「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」という質問に対し、マンローはスコットランド高地人の例を挙げて説明。「かつては政治と教育の不在によって哀れむべき状態にあったが、その後英国における第一流の学者を輩出したことに照らし合わせれば、ある種族と他の種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない」と断言しているのだ。すでに医師や研究者として以上の熱意が、ここにはこもっていると見受けられる。
マンローは横浜だけでなく、外国人の多い避暑地軽井沢の病院で忙しい夏の間だけ働いていたが、これに加え北海道でアイヌの人々の世話をするという、移動の多い忙しい日々を送り始める。
今やマンローの研究の比重は、石器や人骨といった考古学から生きた人間、すなわち人類学の分野へと移りつつあった。さらにもう一つ、軽井沢の病院にマンローの未来の、そして最後の妻となるチヨが婦長としてやって来るのである。

 

欧州のアイヌの扱い
ナチスも利用した「アイヌ・コーカソイド説」
■ドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866、日本では『大シーボルト』とも呼ばれる)によって、アイヌが周辺の他の言語系統と無縁で孤立していると言う見解が公にされてから、アイヌはコーカソイド、つまり原ヨーロッパ人もしくはヨーロッパ人に起源を有する民族ではないかと言う認識が1860年頃より広がった。

■欧州各国は調査団や研究者を派遣したり、現地にいる欧州出身者に働きかけ、競合しながらアイヌの骨格標本をこぞって入手し始めた。1865年に起きた英国領事館員によるアイヌ墳墓盗掘事件なども、この流れで起きた事件である。アイヌとヨーロッパ人の頭蓋骨比較研究によって、その類似性はより説得性に富むようになった。英語はもちろん、ドイツやフランス語で書かれたアイヌ研究書が意外な程多く存在する理由はこのためである。

■昭和初期、純血主義のナチス・ドイツはこのコーカソイド説を利用し、「アイヌは欧州から来たアーリア人の祖先である。ゆえに、日本人もアーリア人である」という、誰がどう考えても無理があるだろうと思われる論法で、日本と同盟を結んだ。

 

◆◆◆ 関東大震災発生! ◆◆◆


 


関東大震災が起こった翌日、東京から避難しようとする人々でごったがえす、日暮里駅。
 1923(大正12)年の夏は特に暑かった。
例年のように夏だけ軽井沢で働くマンローと共に、妻のアデルやファヴルブラント一家も避暑のために勢揃いしていた。ところが、心臓に持病のあった82歳の義父ジェームズが8月7日に大動脈破裂で倒れ、マンローの手当のかいもなく急逝。横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻ったのは8月25日だった。
そのわずか6日後、9月1日午前11時58分。マンローはいまだかつて経験したことのない天変地異に遭遇する。
関東大震災であった。京浜地方のほとんどが灰燼に化すことになる大震災が襲った時、マンローは昼食のため家族の待つ自宅へ戻ろうとしていた。軽井沢の病院内で激しい上下動を体験したマンローは、何度も続く揺り返しの中で、懸命に横浜の病院に電話をかけるもつながらず、不安はつのるばかりだった。
夜になると東京方面の空は炎のせいか奇妙に明るいようだ。マンローは、ともかく行けるところまで行ってみようと、救護体制を整えて翌朝一番の信越線に乗り込んだ。
東京が近づくにつれ、被災して恐怖の一夜を過ごした人々の疲れた姿が増え始めた。ところがマンローの乗った汽車は日暮里(現東京都荒川区)止まりで、そこから先は不通である。だが横浜まではまだ遠い―。赤十字の炊き出しや地方へ避難する人々でごった返す日暮里駅に下車したマンローは、近くの農家から馬を買い取る。彼は幼い頃から馬に乗り馴れており、交通の便の悪い軽井沢でも、足代わりにしていたほどであった。
マンローは馬の背にまたがると、傷つきよろめきながら避難する群集をよけつつ、あちこちで白煙がたちのぼる中、横浜方面に向けて一路駆け出した。 
(後編に続く)