◆◆◆ 横浜で竪穴式住居を発掘 ◆◆◆


 


今年はマンロー生誕150周年にあたる。これを記念し、4月から5月末にかけて横浜市歴史博物館で行われた特別展のポスター。同展にあわせて発行されたカタログの内容の濃さも特筆に価する。マンローの業績を広く知らしめたい、という主催者側の情熱がそこかしこに感じられた。
トクという優秀な通訳を得た後、マンローの行動半径はいっきに拡大する。 バチェラーとの北海道旅行でアイヌの風俗や文化に触れたマンローは、アイヌに深い興味を抱き、彼らが用いる木工品の彫り文様と、縄文土器に施された模様の共通点に注目した。そしてアイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと考える。
マンローはこの仮説を証明しようと、横浜根岸競馬場付近貝塚(1904年)、小田原の酒匂川・早川流域(1905年)、横浜三ツ沢貝塚(1905年)の3ヵ所を精力的に調査するが、三ツ沢貝塚発掘の際には「トレンチ(塹壕)方式」という地層に沿って掘り進む画期的な方法を採用した。
それまで日本で行われてきた発掘調査は、ここぞと思うところを掘ってみて、何も出なかったら別の場所を掘るという、宝探しにも似た行き当たりばったりな方法で、調査も日帰り程度が主流だった。しかしマンローは、7ヵ月という長い期間を費やし、何かが出ようが出まいが関係なく、一定の広い区域を層位区分ごとに均等に掘り進めるというやり方を採用した。
そしてこれによって日本初の縦穴住居跡を発掘したばかりではなく、土器、石器、そしてアイヌ人の特徴を有する原人5体の人骨を、ほぼ完全な姿で掘り出したのである。それまで日本列島には前期旧石器文化は存在しないと思われていたので、これは実は大きな発見であった。
マンローはこれらの結果をまとめ、『Prehistoric Japan』として自費出版する。そしてアイヌ縄文人説に一石を投じたのである。当時日本の学会でも「日本人起源論」については議論されており、概ね「コロポックル説」と「アイヌ説」とに分かれていた。コロポックルとはアイヌの神話の中に出てくる小人で、それによると「アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた」という。
マンローはコロポックルはアイヌ伝説に過ぎず、実在はしないとしている。だがコロポックル説を唱えるのが日本人類学会の会長である坪井正五郎氏とその一派であったためなのか、マンローの三ツ沢貝塚での重要な発見そのものが、一介のアマチュアの慰みとして学会から黙殺されてしまう。『Prehistoric Japan』が英語で書かれたせいもあるのだろうか。評価したのはほんの一握りの人々に過ぎなかったようだ。
マンローの発見から44年後の1949年、群馬県岩宿遺跡から旧石器が発見されたことで、日本における前期旧石器文化の存在は、やっと認知されたという有り様である。
この頃のマンローは、書いた論文を定期的に英国へ送ったほか、発掘品の多くも整理してスコットランド博物館へ送っているが、それは単に英国が「アイヌ白人説」のためにマンローの研究に興味を持っていたからだけではなく、日本の学会における面倒な派閥システムのために、自分の研究が日の目を見ないことを怖れたからではないかと推測できる。
また、エディンバラ大学では医学士を取得し、日本での医療行為には何の問題もないマンローだが、なぜかこの頃博士号の学位の必要性を痛切に感じていたという。おそらくそれも、日本の学会で自分の論文や発見が取り上げられなかったことと関係があるのではないだろうか。「医学博士」という肩書きを重視する人々が学会の中に多くいたであろうことは想像に難くない。マンローは『日本人と癌』という博士論文を執筆すると、1908(明治41)年にエディンバラ大での口頭試験のために英国へ向かう。マンローにとって20年ぶりの、そして最後の英国行きであった。

 

明治政府のアイヌの扱い
1997年まで残った

「北海道旧土人保護法」

◆北海道は古くから「蝦夷」と呼ばれ、沖縄同様、日本国内の外国というような特殊な扱いを受けてきた。明治時代になると、政府による植民策がすすみ北海道への移住者が増加。開拓使や北海道庁は、先住していたアイヌの人たちに一部の地域で農業の奨励や教育・医療などの施策をおこなったが十分ではなく、生活に困窮する者たちが続出した。

◆このため、政府は明治32年に「北海道旧土人保護法」を制定(マンローが初めて北海道旅行をした翌年でもある)。これは、アイヌの人たちを日本国民に同化させることを目的に、土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行うものとされた。

◆しかし実際には、アイヌの財産を収奪し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として用いられる。具体的には、アイヌの土地の没収/収入源である漁業・狩猟の禁止/アイヌ固有の習慣風習の禁止/日本語使用の義務/日本風氏名への改名による戸籍への編入―などがあげられる。

◆明治から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書には、アイヌは「土人」と表され(行政用語では明治11年から「旧土人」)、差別は続いた。

◆戦後は、一転して国籍を持つ者、すなわち「国民」としてのみ把握され、現在もその民族的属性や、集団としての彼らへの配慮がなされているとは言い難い。ちなみに、この法律が廃止されたのは、なんと1997年(平成7年)のことであった。