◆◆◆ 駆け出しの発掘研究家 ◆◆◆


 


ドイツ帝国出身の医師、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz、1849~1913)は、『お雇い外国人』として日本の近代化に関わった。。
実はこの後数年のマンローの足取りははっきりと掴めていない。30歳でゼネラルホスピタルの院長に就任したという説がある一方で、横浜市内の病院を転々とした後、自らの診療所を開いたとする説もある。ただ確かなことは、優秀な外科医として腕を振るう傍ら、横浜を中心とした神奈川県各地の発掘を試みていたということだ。
また、文明開化を遂行し、欧米に追いつこうとする明治政府によって招待されていた「お雇い外国人」たちが当時はまだ日本に残留しており、マンローはこうした先輩たちと交流していた。中でもマンローが影響を受けたのは、東京大学で医学を教え、のちに宮内省侍医となったエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Blz)であろう。
ベルツは、当時の日本が近代化を急ぐあまり、自国固有の文化を軽視するばかりか、恥ずべきものと考えてさえいることに危惧をいだいていた。そして「今の日本に必要なのは、まず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ゆっくりと慎重に適応させることなのだ」と憂える言葉を残している。
彼は考えを同じくする、小シーボルトと共に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めるほか、若いマンローとともに発掘にも参加。やがて、1905年に日本を去り、1913年に祖国ドイツで64歳で死去するが、日本にいるマンローに考古学研究費として3千円を贈るよう遺言を残している。

 

◆◆◆ 「満郎」になったマンロー ◆◆◆


 


マンローを北海道へと誘った、ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854~1944)=写真中央
ここで、マンローのプライベートな側面について触れておこう。マンローは80年近い生涯の中で4人の妻を娶っているが、最初の妻とは1895(明治28)年に結婚した。19 歳のドイツ人アデル(Adele M.J.Retz)で、医薬品から雑貨、武器までを扱う横浜きっての貿易商「レッツ商会」の令嬢だった。彼らの暮らしは何一つ不自由のない恵まれた新婚生活であったに違いない。翌年にはマンローの父親と同名の長男ロバートが生まれている(1902年に死去)。
また、1898年には、1877年以来北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で初めて北海道に旅している。これが、マンローの後の生涯を大きく左右することになる。この時はマンロー自身も気づいてはいなかったものの、アイヌ人、アイヌ文化との運命の出会いだったといえるだろう。
バチェラーはアイヌにキリスト教に基づいた教育を施すための学校を創立したほか、アイヌ語の言語学的、民族的研究に多くの業績を残した人物である。彼は、アイヌ人はコーカソイドが日本に渡ったものだという、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日した『大シーボルト』)の唱えた「アイヌ白人説」を支持し、原ヨーロッパ人の子孫が現在の日本人によって不当な仕打ちを受けていると考えていた(次頁コラム参照)。
この説は極東の「高貴な野蛮人」というロマンチックなイメージで捉えられ、当時欧州の研究家たちの関心を誘っていたのである。バチェラーはマンローを誘うことで、共にこの説を証明しようとしたのだろう。マンローとバチェラーはやがて大論争の果てに袂を分かつに至るのだが、これについては後編で述べよう。
マンローの幸せな結婚生活はそう長くは続かなかった。医師としての仕事に従事する以外は、マンローは泥だらけになって発掘をするか調査レポートを書いているかのどちらかで、華やかな社交界での集まりに慣れていたアデルに構うことはなかった。
そればかりか、彼は高畠トクという女性と関係を持つに至るのである。時期的には長男を亡くした後とされるが、ある時、横浜で旧石器に関する講演を行ったマンローは、終了後、一人の日本人女性から日本語の読み方に関する誤りを指摘される。それが高畠トクだった。


釧路を訪問した際、宿泊先でくつろいだ表情を見せるマンローとチヨ夫人(写真:北海道大学提供)
マンローは英語で講演をしたのだが、彼女は旧士族の娘で英語も堪能な教養ある女性だった。感銘を受けたマンローはその場で彼女に通訳として働いてくれるよう頼む。そして1905(明治38)年にアデルと離婚。数ヵ月後にトクと再婚している。
こう書くとスムーズに話が進んだようにもみえるが、当時の日本で外国人同士が離婚するというのは余り例のないことであり、法律上の手続きは難航した。業を煮やしたマンローは荒技を使う。即ち、離婚前の妻共々日本に帰化したのである。満郎(まんろう)という漢字をあてて日本人となった夫妻は、無事に離婚することができたという。マンローが日本に帰化したのは、つまりは「いろいろ面倒だったから」ということになる。
 

マンローと4人の妻たち
マンローが故郷や家族に対して比較的距離を置いていて、淡白(冷淡?)な性格らしいことは本文でも触れた。その一方で4度も結婚している。ここではマンローが築いた4つの家庭から、マンローの姿を探ってみよう。

①アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ(婚姻期間:1895~1905年)
ドイツ人。声楽とピアノの得意なレッツ商会の令嬢。マンローとの間にロバート、イアンの2人の男児をもうけるが、ロバートは幼くして病死。マンローは自著『Prehistoric Japan』を彼に捧げている。発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローと、それを疎ましく思うアデルは夫婦喧嘩が絶えなかった。やがて秘書兼通訳である高畠トクが現れ、夫婦間の亀裂は決定的となる。マンローとトクとの関係に嫉妬したアデルは、トクも招待された実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。

 


トク(32歳)とアヤメ(4歳)。離婚した頃の写真といわれている(『高畠とく先生思い出の記』より転載)
②高畠トク (婚姻期間:1905~09年)
久留米柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、自活の道を築くため横浜で女中奉公をしながら和漢の学識や英語力を身につけた。芙蓉の花にも似た気高い美しさを持っていたといわれる。マンローとの間にはアヤメ(アイリス)という女児を出産。しかし、博士号取得のために英国へ赴いたマンローは、戻ってくると手のひらを返したように冷たくなっていたという。離婚の際、武士の娘だからだろうか、トクはマンローに金銭を要求せず、黙ってアヤメを連れて立ち去った。アヤメは成人してからフランスに絵画留学することになり、トクがマンローにそのことを連絡すると「いいんじゃない?」という返事のみが返ってきたと伝えられている。アヤメは留学中に結核にかかり、28歳で死去する。

③アデル・ファヴルブラン
(婚姻期間:1914~24年/正式な離婚成立は1937年)

父はスイス人、母は日本人。父親の死去以降、ファヴルブラント家は傾き、妻の実家の財力をあてに無料診療ばかりしていたマンローは負債を抱える。貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になり、「精神系疾患の治療で有名な精神科医フロイトに治療してもらえ」とマンローに無理矢理欧州へ送り出されてしまう。結婚祝いに父親から3000坪の敷地と豪邸をもらっていたアデルは、それを売り払い、マンローの負債も補ってウィーンへ去る。

④木村チヨ
(婚姻期間:1924~42年/正式な結婚は1937年)

香川県高松市のべっこう商の娘で、日赤看護婦養成所を首席で卒業した後、日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受ける。その後神戸の病院で婦長として働いているところをマンローにスカウトされる。アデルとの離婚が難航したため、チヨは長い間「妻」という肩書きの無いままマンローを支えた。軽井沢でも北海道でも無給だったという。マンローはチヨを「地上の天使」と呼び、全ての遺産をチヨに贈るという遺言状を残している。チヨはマンロー亡きあとも、軽井沢で婦長として長く働き、1974年に89歳で死去。