◆◆◆ 憧れの世界を目指して離英 ◆◆◆
病気で1年休学したものの、マンローは1888年に医学士と外科修士の学位をとり無事にエディンバラ大を卒業。そして当時大英帝国の植民地であったインドや香港を往復する貨客船の船医として働き始める。
マンローのこの進路選択について、父ロバートはどういう態度を見せたのか。記録はないようだが、諸手を挙げて賛成してくれたとは考えづらい。それどころか、いつ遭難するともしれぬ危険な仕事として大反対されたとしてもおかしくない。父ロバートはこの翌年に他界するが、この際に家族内で大きなしこりができたとすれば、この後、マンローが故郷と疎遠になったことも説明がつく。
さて、貨客船といっても大型客船ではなく、郵便物、そして軍用品などの貨物の運搬が主だったため、マンローの仕事は船員の怪我や客の船酔いの手当といった簡単なものばかりだった。
マンローは1ヵ月のうち1週間から10日を陸上で暮らしたが、その貴重な時間を現地での旧石器発掘調査などにあてたわけだ。鉛色の空をあおぎ見ることの多いスコットランドから一転、カラフルな未知の文化圏へ。マンローの驚きと歓びは大きかったに違いない。彼は英国の発掘隊たちが訪れた遺跡などを一人で精力的に回っている。
だが、当時インドの統治国だった英国は、発掘のために正式な届け出をすることもせず、出土したものはそのまま英国に持ち帰るといった、現代においては「略奪」と呼ばれる行為を繰り返していた。そして、希望に溢れたマンローがインドや香港で見たものは、 植民地を統治する英国人による現地の人々に対する人種差別、民族的偏見、およびインド国内のカースト制による激しい階級差別だったという。
マンローはそのことに心を痛め、後に妻であるチヨに当時の模様を語っている。海外では「英国」と一括りにされてしまうものの、マンローがスコットランド人だったことを思うと、彼はスコットランドやアイルランド、またケルト文化に対して行われたイングランドによる侵略行為や差別の歴史を重ねあわせていたのではないだろうか。また、原人の頭蓋骨を扱う考古学者的見地からすれば、「ある人種の民族的な優越性」などは存在しないというのがマンローの立場だった。やがてこの時の体験や思索は、後にマンローが北海道で見せるアイヌへの献身的態度につながっていく。
◆◆◆ 病床で聞いた原人発掘の報 ◆◆◆

オランダの解剖学者、人類学者、マリ・ウジェーヌ・フランソワ・トマ・デュボワ(Marie Eugne Franois Thomas Dubois、1858~1940)=写真下=が発掘した、『ジャワ原人』の頭蓋骨の一部と大たい骨=同左 © Peter Maas=は、世界に衝撃を与えた。インドで細々とながら石器発掘を行っていたマンローだが、北国育ちの彼にとってこの国の猛暑とモンスーンはひどく体にこたえた。体調を崩した彼は1890年にはインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。さらに翌1891(明治24)年5月12日、28歳目前のマンローは香港より一層気候の穏やかな横浜へ向かうため、汽船オセアニック号の客となる。療養が目的だったようで、マンローは到着後すぐに横浜の山手地区にある外国人専用のゼネラルホスピタルに入院した。
奇しくもその8月、33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが当時オランダ領だったインドネシアで原始人類の骨を発掘。それは「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられ、東南アジアで人類が進化したとする学説に俄然信憑性が出てきた。
マンローがこのニュースに興奮したであろうことは間違いない。デュボワに「先を越された」とさえ思っただろう。やがて健康を取り戻したマンローは、医師として日本で暮らし始める。現在は英国同様島国の日本だが、大陸とつながっていた時に原人が渡っているはずである。それはいつの時代で、どんな原人なのか。それを自分が発見しようと決意したのだ。とはいっても、マンローはこの後50年の長きにわたって日本で暮らすことになると、その時想像していただろうか。答えは「ノー」である。運命の出会いは、まだそれが起こる兆しさえ見せてはいなかった。


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