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◆◆◆《第543回》◆◆◆
ディケンズ病

今月初め、労働党は国民の健康状態と政府の緊縮予算との関係性を分析した報告書を公表した。同党はその中で「保守党政権が福祉予算を節減した結果、国民の健康状態が悪化した」と主張し、証拠として十九世紀中頃から二十世紀初頭にかけて猛威を振るった猩紅熱、百日咳、肺結核、痛風などの患者がこの数年間で急増していることをあげた。 「保守党が政権の座に返り咲いた二〇一〇年から昨年までの間にこれらの病気にかかった人は五二%増えた。とくに猩紅熱による入院患者は二倍になった。また、栄養失調と診断されて入院した人の数も五四%増えた」
報告書はそのように述べ、医学の進歩によって下火になったはずの幾つかの病気が再び増勢を見せていることと社会福祉の悪化との因果関係を指摘した。十九世紀のヴィクトリア朝の時代と二十一世紀の現代を比較し、福祉の質の低下を批判した点がなかなか興味深く、私はこの報告書を真剣に読んだ。
周知のように、イギリスはヴィクトリア女王の時代に産業革命を成し遂げ、世界的な大国になった。短期間に多くの工場が造られ、労働者の急増によって都市の人口密度が高まった。同時に大気と河川の汚染が一気に進んだ。
当時のロンドンの空は工場と一般家庭の煙突が吐き出す煤煙でいつも暗く曇っていた。一方、工場と家庭から排出される汚れた水は河川に垂れ流された。水道はまだ十分に整備されておらず、庶民は河川の水を濾過して飲んでいたので、しばしば伝染病が発生した。
とりわけ不衛生な貧民街に住む人々がその犠牲になった。とくに抵抗力の弱い子供は猩紅熱、百日咳、肺結核などに苦しめられた。これらの病気は十九世紀に貧民街の子供たちを小説に書いたチャールズ・ディケンズにちなみ、ディケンズ病とも呼ばれる。
猩紅熱にかかると咽頭や扁桃腺が腫れ、吐き気を催し、高熱が出る。さらに顔や舌に赤い湿疹が現れ、それが体全体に広がる。この病気は患者の唾液や鼻水を介して伝染する。当時はまだ抗生物質のペニシリンが発明されていなかったので、死に至ることも珍しくない恐ろしい病気だった。
その猩紅熱がこの数年、イギリスで流行の兆しを見せている。患者の増加が目立ち始めたのは二〇一二年頃で、それ以来患者の数は増加の一途を辿り、昨年は二万人に達した。増勢は今も衰えておらず、政府は幼い子供がいる家庭に注意を促している。

猩紅熱にかかる子供が増えた原因はまだ医学的に解明されていない。労働党が言うように福祉予算の節減によって貧困家庭が増加し、抵抗力の弱い子供が増えたとも考えられる。ただ、同じく二〇一〇年代の前半に増加傾向にあった百日咳や肺結核はその後、減少に転じている。
感染性の病気は一定のサイクルで流行を繰り返す傾向がある。また、既製の抗生物質に耐性を持つ細菌が出現することもあり、その流行は必ずしも緊縮予算のせいではないかも知れない。しかし、労働党は乳幼児の死亡率が上昇していることも指摘し、国民の健康維持の努力を怠った政府の責任を追及している。
私は先月、本欄でイギリスのユニバーサルクレジットと呼ばれる制度について書いた。政府は「新しい制度の導入は合理化と効率化のために必要だ」と言うが、審査基準が変わったために補助金が受給出来なくなり、フードバンクに依存せざるを得なくなった人々が増えている。そうした事実がある以上、福祉予算と国民の健康状態との関連性は検証されて然るべきだろう。
もう一つ気になるのは環境の問題である。ロンドンの大気が過剰な交通量で汚染され、市民の健康に深刻な影響を及ぼすと言われて久しい。タバコを吸う人は継続的に減少しているが、非喫煙者の中で肺癌にかかる人は一向に減らない。これは空気そのものが汚れているからではないだろうか。十九世紀のロンドンを暗く閉ざしていた大気汚染の問題は今も解決されていないということだ。
イギリスはこれまでEUが決めた大気汚染や環境保護の基準に従って来た。そのおかげで家庭のゴミの分別方法なども改善した。しかし、イギリスはもうすぐEUから離脱する。EUの規制から外れた後、イギリスの政府は大気汚染や環境保護の対策を積極的に講じるだろうか。私はその点を心配している。
次の総選挙がいつ行なわれるか分からないが、どの政党が政権を担うにせよ、国民の健康を守るために予算を惜しまず、最大の努力を払って欲しいものである。

週刊ジャーニー No.1073(2019年2月14日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。
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