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◆◆◆《第470回》◆◆◆
ケンブリッジ大学と中国

先月、イギリスの言論界にとって衝撃的なニュースが流れた。CUP(ケンブリッジ大学出版局)が中国の要請を受け入れ、一部の論文や記事に中国からアクセス出来ない措置を講じたのである。対象は中国研究の専門誌「チャイナ・クォータリー」の論文や書評でその数は三百件余りにのぼる。いずれも中国政府にとって都合の悪い文化大革命、天安門事件、台湾問題、少数民族の人権侵害などに関わるものだ。交渉窓口となった中国の文部省の付属機関は「もし要請を受け入れなければ我々の手でCUPの全ての文献へのアクセスを遮断する」と警告し、これに屈する形でCUPは要請の受け入れを決めた。「中国側がCUPに同国での営業禁止を示唆した」との報道もあった。

CUPは世界最古の出版社であり、イギリス言論界の象徴的存在だ。そのCUPが中国事業による収益を守るために圧力に屈したことの影響は大きかった。ニュースが伝わるとイギリスはじめ世界各国から中国とCUPを非難する声が湧き上がり、アクセス遮断の撤回を求める署名運動が始まった。「中国は自国の検閲制度を世界に輸出しようとしている」という批判と「CUPは利益のために言論の自由を売り渡すのか」という批判が同時に起きたのである。これに驚いたCUPは一転してアクセス遮断の決定を取り消し、「学問の自由はケンブリッジ大学が拠って立つ最優先の原理原則だ」という声明を出した。

この騒動でケンブリッジ大学のイメージは大きく傷ついた。撤回したとはいえ言論の自由よりも算盤勘定を優先しようとしたからである。CUPは中国で英語の教材などを販売し、フィナンシャル・タイムズによれば売り上げの伸びは五年連続で二ケタを記録している。その商売を守るため中国の要請を受け入れたと言われても弁明は出来ない。

中国側はこのまま黙って引っ込んではいないだろう。ほとぼりが冷めた頃に同じ要請を出して来る可能性がある。小さなところから始めて要求を徐々に大きくするのが中国流のやり方だ。今回の件で批判が起きた時、中国政府系の新聞「環境時報」は「西側の価値観が全て正しいわけではない。中国が強くなれば自分の利益を守るために行動するのは当然だ」と主張した。「言論の自由」など彼らの眼中にはないのだ。

中国が強気なのは外国の大学に対する自分たちの影響力を知っているからである。一人っ子政策が続いた中国では富裕層が子供の教育に惜しみなくお金を使う。中国全体が教育産業の巨大な市場になっており、欧米の大学や企業が競って書籍や教材を売り込んでいる。それだけでない。西側諸国の大学にとって中国人の留学生は安定した収益源なのだ。

実際どの国でも中国の留学生の存在感が増している。それによって不穏な事件も起きている。今年七月、オーストラリア最古の大学、シドニー大学の複数のトイレで「中国人を殺せ」と書かれた落書きが見つかったのである。その場所が留学生の使用する施設だったことから中国人留学生に対する嫌がらせであることは明白だった。メルボルン大学など他の大学でも「中国人立ち入り禁止」と書かれた落書きが見つかった。

シドニー大学の学生総数は五万九千人だが、そのうち一万一千人が中国人留学生である。留学生の学費は国内の学生よりも高いので大学の収益に対する貢献度は大きい。他の大学の場合も同様である。その意味で中国の留学生は大学にとって有り難い存在なのだがトラブルも少なくない。この数年、中国人留学生の集団カンニングや大量の落第が問題となり、オーストラリア人の学生の顰蹙を買って来た。先述の落書き事件にはそうした背景がある。

イギリスやアメリカの大学でも中国人留学生の比率は群を抜いて高い。ケンブリッジのような有名大学は学費だけでなく、中国での教材の販売や論文や記事の検索サービスが収益になる。つまり中国は重要な顧客なのである。

近年、イギリスは中国主導のAIIB(アジアインフラ投資銀行)に率先して加盟するなど友好ムードを演出し、中国から巨額の投資を引き出して来た。経済分野の戦略はイギリスらしく大胆にやればいい。しかし人権や言論の自由に関する両国の考え方は全く異なる。経済的利益のためにそうした価値観の根本的な部分で譲歩したら世界の笑い物になる。これはケンブリッジ大学だけの問題ではない。EU離脱が決まってからイギリスにはいろいろな分野で焦りが見える。私はそのことが心配でならない。

週刊ジャーニー No.1000(2017年9月7日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。

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