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◆◆◆ 《第542回》 ◆◆◆
フィリップ殿下の交通事故

エリザベス女王の夫君、エジンバラ公フィリップ殿下が交通事故を起こした。自らランドローバーを運転し、サンドリンガムの王室別邸の私道から公道へ出ようとして別の車と衝突したのだ。ランドローバーは横転したが殿下は軽傷で済んだ。しかし、相手の車を運転していた女性は手首を骨折する重傷を負った。その車の後部座席には生後九ヵ月の赤ちゃんが乗っていたが、幸いなことに怪我はなかった。
イギリスのメディアは「involved」という英語を使い、「殿下が交通事故に『関与』した」と報じた。責任の所在をぼかした表現だが、事故の直後にフィリップ殿下は「太陽の光線がまぶしくて、走って来る車が見えなかった」と言っている。つまり殿下の運転ミスが事故を引き起こした可能性が高い。当初、殿下は相手の車の女性に謝罪せず、そのことがメディアで批判された。事故の六日後に殿下から女性に謝罪の手紙が届いたが、それは批判の広がりを恐れた王室スタッフの配慮によるものだろう。
フィリップ殿下は現在九十七歳である。ドライブが大好きらしいが、百歳に近い高齢者に安全な運転が出来るとは思えない。周囲の人たちはなぜ止めないのだろうか。殿下は事故を起こした翌日にランドローバーの新車を取り寄せ、その次の日には公道でシートベルトを着装せず試運転をしたという。事故を起こしたばかりなのに全く反省していないようだ。
フィリップ殿下はこの国で特別な存在だが、何をしても許されるわけではない。彼の不注意で事故に巻き込まれた女性はしばらく仕事が出来ず、大変な迷惑を蒙った。殿下はこれを機に運転をきっぱりやめるべきだ。そうしなければ国民が納得しないだろう。
高齢者の車の運転はどの国でも大きな問題になっている。イギリスの運転免許証は満七十歳の前日まで有効で、七十歳からは三年に一度、更新を行なうことになっている。ただし、実技や視力の検査はなく、書類の手続きだけだから、能力が低下していても運転を続けることが出来る。
現在、イギリスの七十歳以上の運転免許保持者は四百五十万に達している。八十歳以上の保持者だけで百万人もいるのである。高齢者は運転経験が豊富な上に若者よりも用心深いので、反射神経の衰えをある程度カバー出来るといわれるが、それにも限度があり、七十歳を超えると交通事故を起こす確率は二十歳代の三倍にはね上がる。
日本の場合、運転免許の保持者が七十歳になると、更新に際して高齢者講習を受けなければならない。これにはレクチャーだけでなく、適性検査や実際に車を運転する実技講習も含まれる。さらに七十五歳になると認知症検査が加わる。この検査で認知症の疑いがあると判断された人は医師の診断書を提出する必要がある。そこまできびしく対応しても、高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えたり、高速道路を逆走したりする事故が後を絶たない。ある年齢に達したら自発的に運転をやめることが望ましいが、ドライブが趣味の人や車が必要な不便な場所に住んでいる人もおり、強制するわけにはいかない。

それに関して、私が立派だと思うのは日本の天皇陛下である。天皇陛下は昨年の誕生日で八十五歳になったのを機に、免許証の更新を行なわず、車の運転をやめることにした。運転といっても天皇陛下の場合、車で公道に出ることは決してなく、皇居内をドライブするだけだが、高齢に達したので自らの意思で運転そのものをやめたのである。それ以前は一般のルールに従い、皇居内で高齢者講習や認知症検査を受けていたという。
天皇陛下は憲法で規定されている「日本国の象徴」という立場を常に意識して行動して来た。悲惨な太平洋戦争とその後の国民の奮闘努力をよく知っているだけに、「国民の心に寄り添う」という態度を誠実に貫いて来た。従って国民の模範にならなければならないという気持ちが強いので、自発的に車の運転をやめ、そのことを公表したのだろう。「たかが車の運転くらいで大げさな」と言う人もいるかも知れないが一事が万事である。日本の今上天皇は人間的に実に立派といえよう。
フリィップ殿下はおそらく日本の事情に詳しくないから、天皇陛下が車の運転をやめたことを知らないはずだ。お付きの人がさりげなく教えてあげたらどうだろう。「なるほど。それでは私も運転をやめることにしよう」と決して言わないとは思うが―。

週刊ジャーニー No.1072(2019年2月7日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。