inuhiko_title.jpg

◆◆◆ 《第534回》 ◆◆◆
日本の英語教育

国際的な英語教育機関の「EFエデュケーション・ファースト」が先日、英語が母国語でない国民を対象に調査した英語力のランキングを発表した。それによると日本は八八ヵ国の中で四九位だった。能力は五段階に分類され、日本は三年連続で下から二番目の「低い」と評価されるグループに入れられた。ちなみに一位はスウェーデン、二位はオランダ、三位はシンガポールだった。アジアだけで見るとトップは前述のシンガポールで、二位以下はフィリピン、インド、香港と続く(アジアの中で日本は九位である)。

日本で英語教育の改革が議論され始めてかなりの時間が経つ。私は二〇一〇年に本欄で小学校の英語教育を取り上げたことがある。その時点ですでに日本の小学校では英語の授業が始まっていた。正確に言うと、二〇〇八年に小学校の五、六年生で「英語活動」を行なうことになり、その三年後には英語は五、六年生の「必修」となった。「英語活動」や「必修」の段階では学校単位で作成した教材を使い、生徒が英語に親しむための授業をする。もう一段進んで英語が正式な「教科」に昇格すると国の検定に合格した教科書で英語を学習する。二〇二〇年から英語は小学校五、六年生の正式な「教科」になることが決まっている。

こうした経緯を説明したのは、日本がこの十年間、小学校の段階から英語教育に力を入れて来たことを確認するためである。十年前に小学校の五年生だった人たちはすでに成人している。つまり、現在の日本には早い時期から英語に親しんできた若者が大勢いる。それなのになぜ日本人の英語力が向上しないのだろう。英語教育の効果が出ていないのではなかろうか。

私は小学校から英語を教えるのは反対である。言葉はコミュニケーションの道具である。コミュニケーションは自分の意見を正しく伝えると同時に相手の意見に謙虚に耳を傾けることによって成立する。意見の相違がある場合は臆することなく自分の考えを言い、異なる意見も冷静に聞くことが大事である。

そうした態度は一朝一夕に身につくものではない。やはり子供の頃から、集団生活の中でいろいろなテーマについて意見を戦わせる中で習得するものだろう。コミュニケーションの力を養うには、まず小学校の頃に母国語である日本語を正確に使って、意見のやり取りが出来るような訓練をするべきである。とくにSNSが普及した現代では、相手の顔を見ながら自分の肉声でコミュニケーションを図る重要性は増している。

大事なのはまず母国語の基礎を作ることであり口先だけの英語を教えても意味はない。それよりも大事なのは実力のある英語教師の養成である。中学校や高校に本当に生きた英語力を身につけて英語を使う面白さを生徒に伝えられる教師がいるならば、あわてて小学校から英語の勉強をする必要はないのである。

問題は現在、中学や高校で英語を教えている教師の質が必ずしも高くなく、自分の権威づけのために、やたらと難しい文法や例外的な不規則動詞を試験に出して、英語アレルギーの生徒を量産していることである。カリスマ英語教師として知られる竹岡広信氏は「(日本の英語教育で)一番大事なのは中学高校の英語の教師の質をあげることです。採用条件としてTOEIC九百点以上とか、英語圏留学三年以上とかを求めたらずいぶん変わります」と語っているが、私も全く同感だ。

日本の英語教育について私は楽観していないが、これからの日本人は否応なしに最低限度の英語を習得する必要に迫られるのではなかろうか。そう考える理由の一つは少子高齢化である。日本の労働人口が減少する中で人手不足はますます深刻になる。現時点においても看護師や介護士の補充は喫緊の課題である。政府は入国管理法を改定し、外国人労働者の受け入れ拡大を目指している。近い将来、医療や介護の現場で多くの外国人スタッフが働くようになるのは間違いない。日本人の英語能力が向上すれば、近隣諸国だけでなく、欧州からも日本に働きに来る人が増えるだろう。日本人が日常的にそうした外国人スタッフに接することになれば、英語による意思の疎通は生活上の必須条件になるかも知れない。

厚生労働省は「二〇二五年度に日本の介護職員は三五万人不足する」と予想している。日本の政府は「移民政策は取らない」と強調するが、日本人が外国人と共生するようになることは避けられない。そうした時代になれば必要に迫られ、日本人の英語力も徐々に向上すると私は考えるが、果たしてどうだろうか。

週刊ジャーニー No.1064(2018年12月06日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。