●サバイバー●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ベーカー・ストリート駅に隣接する、ロンドンの観光名所のひとつ「マダム・タッソーろう人形館(Madame Tussauds)」。ハリウッドスターやミュージシャンのほか、英王室メンバーや歴史上の人物たちの姿が、そのままそっくり等身大のろう人形で再現されており、その「作品」は人気に合わせて常時入れ替えられると同時に、今なお増え続けている。だが、人々がこの「ろう人形館」の創始者であるマダム・タッソー自身について思いを馳せることは少ないのではないだろうか。今回は、彼女の波瀾万丈な人生を前後編でたどっていく。

後編はこちら

ろうでつくる人体解剖模型

マリーのろう人形制作の師匠だった、スイス人内科医のフィリップ・クルティウス。
© Jospe

マダム・タッソー(タッソー夫人)ことマリー・グロショルツは、1761年にドイツに近いフランス北東部の街、ストラスブールで産声を上げた。欧州は当時、七年戦争の混乱のただ中にあり、兵士として当時プロイセンと呼ばれていたドイツ軍と戦っていた父親は、マリーの生まれる2ヵ月前に戦死。母親は出産後、マリーを連れてスイスのベルンへ向かい、優秀な内科医フィリップ・クルティウスのもとで住み込みの家政婦として働きはじめた。母親とクルティウスが実際はどういった関係だったのかはわかっていないが、クルティウスがマリーの養育者であったことは間違いなく、マリーは彼を「おじさん」と呼んでいたという。

クルティウスは内科医としての仕事のほか、ろう(蝋)による人体造形にも優れた能力を発揮し、解剖模型の制作も行っていた。当時は人体内部の構造を学ぶために「ろう細工」による模型が用いられており、彼がつくる精巧な人体模型を見るためだけにクルティウスの自宅を訪れる者もいたほどだった。そうした腕前の噂は、やがて芸術や文学を愛し、アーティストを庇護していたフランス王ルイ15世のいとこ、コンティ王子の耳にも入る。「パトロンになるから、ぜひパリへ来ないか?」と声を掛けられたクルティウスは、思い切って医者を辞め、エンターテインメントとしての「ろう人形」の制作者へと転身することを決意し、単身フランスへ渡った。

王女のお気に入り

マリーが10年近く暮らしたヴェルサイユ宮殿

クルティウスがフランスへ発った2年後の1767年、6歳を迎えたマリーは彼に呼び寄せられて、母親とともにパリの地を踏む。

クルティウスはルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人の頭部をろうで制作するなど、王侯貴族を顧客に「ろう人形制作者」として見事に成功を収めていた。クルティウス宅には、思想家のジャン・ジャック・ルソーやベンジャミン・フランクリン、啓蒙哲学者のヴォルテールといった様々な分野の著名人がしばしば招かれ、夕食のテーブル上では政治や芸術に関する熱い議論が飛び交った。そんな環境の中にいたマリーが、特別な教育を受けていなくても、知識や教養あふれる少女に育っていくのは当然のことであったろう。

マリーは幼い頃からクルティウスの教えを受け、野菜や果物でろう細工制作を練習していたが、その技術力にクルティウスは舌を巻いた。やがて幼いながらも彼のよき助手として働くようになり、一方でクルティウスのように念入りなドローイングやミニチュア模型の制作をほとんど行うことなく、いきなり本番制作に入る彼女の度胸や抜群のセンスのよさは、間違いなく天性のもので「クルティウス以上」と言えた。すぐに彼と肩を並べるほどの腕前になった。

そして1779年、マリーのもとに一通の召喚状が届く。それは王宮からで、王女の専任美術教師に任命された知らせであった。

未婚だったルイ16世の末妹のエリザベート王女は、最後まで兄一家と人生をともにし、断頭台に散った。

ルイ16世の末妹エリザベート王女は、大流行していたろう細工に多大な関心を寄せていた。「ろう細工を習いたい!」と兄王にせがんだところ、適任者としてマリーが抜擢されたのである。まだ15歳のエリザベート王女は幼い時に両親を亡くしており、母代わりだった仲のよい姉がスペインへ嫁いでからというもの、愛情に飢えた淋しい生活を送っていた。さらに、義姉の王妃マリー・アントワネットが前年に念願の初子を出産したことで、ますます身の置き場がなくなっていたのだ。そのため、新たに宮廷に迎え入れられた3歳上のマリーを姉のように慕うのに、それほど時間はかからなかった。翌年には、いつでも会えるようにと一緒にヴェルサイユ宮殿に住むよう命じ、フランス革命の勃発する1789年までの10年近くを、マリーは国王一家の側で過ごしている。この「過去」により、のちに彼女は母国を捨てることになる。

革命へ向かうフランス

さて、マリーがヴェルサイユ宮殿にいるおかげで、クルティウスは王妃アントワネットの流行の先端をいくファッションをいち早く知ることができるようになった。当時のアントワネットは「ファッション・アイコン」として、時には奇抜ともいえるスタイルで、宮廷内外の若い女性を夢中にさせていた。特権階級向けの展示施設「パレ・ロワイヤル」で、国王一家のろう人形を公開していたクルティウスは、王妃のお抱えデザイナーとヘアスタイリストに協力を依頼し、彼女の最新ドレスや髪型で人形を飾った。「新作」が登場するたびに、今シーズンのトレンドを知ろうと女性たちが行列をなしたという。

だが、国の財政は悪化の一途をたどり、社会の状況は刻々と変化していく。封建社会や贅沢を極めた退廃的な生活を送る王侯貴族に対する民衆の不満は抑えきれないほどに高まり、王家の人形は時代にそぐわない展示物となりつつあることを感じ取ったクルティウスは、一般市民向けに別の展示施設を設ける。そして、人々に大きな影響を及ぼしていた政治家や思想家の頭部を進んで制作・展示しはじめ、マリーにも宮殿を辞するよう連絡を入れた。1789年7月12日、フランス革命はじまりの日とされる「バスティーユ襲撃」の2日前のことであった。

投獄から逃れ英国へ

マリーがパリへ戻ると、クルティウスは市民軍に入隊し、兵士のひとりとしてバスティーユ襲撃に参加。彼が兵士として革命に没頭する間、マリーがろう人形ビジネスを取り仕切ることになった。ヴェルサイユで長く過ごした彼女は、「個人」としては王党派だったかもしれないが、「ろう人形彫刻家」としてはまた別の顔を持っていた。クルティウスから「人々の見たがるものを創る」ことを教え込まれていたマリーは、王侯貴族が姿を消していく中、革命のヒーローや「民衆の敵」として首を斬られた政治家・反逆者の人形を次々と生み出した。その中には、断頭台の露と消えたルイ16世と王妃アントワネット、エリザベート王女の頭部も含まれていた。

マダム・タッソーろう人形館に展示されている、布で包まれた「斬られたて」の頭部を険しく悲壮な表情で見るマリー。何を思っていたのか…

王制は強引に幕を下ろし、それに続いたのは混乱と恐怖政治の時代だった。毎日のように誰かがギロチンの刃で処刑され、マリーとクルティウスは「斬られたてのもの、すぐに型をとって制作します」を売り文句に頭部をつくり続けたが、魔の手はついに彼女のもとへも伸びる。

1794年、マリーは逮捕・投獄される。「過去の国王一家との親しい関係」が逮捕理由で、クルティウスは市民兵としての勤務でパリにはおらず、投獄を阻止することができなかった。処刑を待つ身となったマリーにできることは、ろう人形をつくり続けること――。獄中でも反逆者たちの頭部を制作し続けた。それが自らの命を守るための唯一の可能性でもあったのだ。その方法は実を結び、数ヵ月後に無事に釈放されている。
しかし、釈放後まもなくクルティウスが死去。ろう人形ビジネスを完全に引き継ぐことになったマリーは、動乱の続くフランスを離れ、ろう人形の国外巡業ツアーへ出ることを考えはじめた。行き先は英国、ロンドンである。

後編へ続く

マダム・タッソー ろう人形館

© Madame Tussauds London

1835年、ベーカー・ストリート沿いにオープン。1884年、マリルボーンロード沿いに建つベーカー・ストリート駅の隣(現在地)に移転した。1958年には大型ドームを備えたプラネタリウムが新たに増設され、現在の姿になった。このプラネタリウムは、今は米マーベルコミック・ヒーローが総登場する4Dアトラクション・シアターとして営業中。ブラックキャブに乗ってロンドンの街中を駆けめぐるアトラクションもあり、大人も子どもも楽しめる。

Madame Tussauds London
Marylebone Road, London NW1 5LR
Tel. 0870 400 3000
www.madametussauds.com/london
オープン時間:10:00~15:00
料金:大人£33.50~

週刊ジャーニー No.1265(2022年11月10日)掲載