英国を代表する古代遺跡、ストーンヘンジ。
約5,000年前の新石器時代に「誰が?」「いつ?」「なぜ?」「どのように?」造ったのか。
何世紀にもわたり、人々はその謎の解明に挑み、現代に至っても、人々の興味をかき立てている。
今号では、この遺跡を征くことにしたい。

●征くシリーズ●取材・執筆/ネイサン弘子・本誌編集部

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19世紀に撮影された、ストーンヘンジとその来場者。
同時代には芸術家らを魅了し、作品のモチーフとされることもあった。
© English Heritage
英国のみならず、世界的にもその名を知られるストーンヘンジ(Stonehenge)。英国在住者でなくとも、その姿を写真で見たり、耳にしたりしたことのある人は多いだろう。しかし、筆者の周りには、「通りがかりに見たことはあるけど、実際に行ったことはない」という英国人や在英邦人が意外にも多い。
そして、いざ訪れてみようと思い立ったとき、膨大な数の本やガイドブックですでに詳しく述べられているその歴史や謎について、予備知識を頭に入れておこうとすると、かなりの時間が必要。そこまで掘り下げてお勉強するのはちょっと…という方々のために編集部なりにまとめた、ストーンヘンジ・ガイドをお届けしよう。

時代と共に移ろう答え

人々がストーンヘンジに対し、考古学的興味を寄せはじめたのは、中世以降。ただし、当初その謎を解こうとしていたのは主に作家たちだった。
ストーンヘンジがはじめて書物に登場したのは1130年頃。歴史書「イングランド国民の歴史(History of the English People)」のなかで、「ストーンヘンジの驚くべき巨大な石を、どのようにしたら天高く持ち上げることができるのか、なぜここに建てたのかは、誰にも想像できないだろう」と記されている。中世の人々にとって、より不可解で信じ難い存在であったに違いない。1136年の「ブリテン王列史(History of the Kings of Britain)」には、魔法使いマーリン(中世の物語『アーサー王物語』に登場する高名な魔法使い)が巨人を使ってアイルランドから運ばせたものだとの記述が見られる。考古学とはかけ離れた童話のような説だが、作家の豊かな想像力が生んだこの説は、なんと16世紀頃まで一般に浸透していた。
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17世紀になると考古学が学問として発達しはじめ、学者たちの手で詳細な発掘作業が行われるようになる。建築家がストーンヘンジの図面を初めて正確に作成するなど、より専門的な調査が行われたものの、その発想の多くは、まだ空想の域を越えていなかったようだ。魔法使いマーリン説に取って代わり信じられるようになったのは、ドルイド教徒の宗教儀式用の神殿という説だ。日本人には聞き慣れないこの宗教は、西暦43年にブリテン島がローマ帝国に征服される前の数百年にわたって広く信じられていた土着のもの。太陽や樹木、精霊を対象とする自然崇拝の多神教だったが、実際にはドルイド教が確立されたのは、ストーンヘンジが廃墟となってから1000年以上も過ぎた鉄器時代。つまり、ドルイド教徒が造ったというこの説も誤りだったのである。
「何のために作られたのか?」「一体、この巨石をどうやって持ち上げたのか?」という単純な疑問に端を発し、何世紀にもわたって、人々の好奇心をくすぐり続けているストーンヘンジ。21世紀に入ってからの発掘調査による新発見で、これまでに定説とされてきたいくつかの時代特定や定義が見直された。では、最新の考古学で、これらの謎をどう解明しているのだろうか?

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最新の謎解き

ストーンヘンジがこの世に初めて姿を現したのは紀元前3000年頃とされている。初期段階では、私たちが「ストーンヘンジ」と聞いて思い浮かべる姿とは異なり、大地に円を描くようにしてめぐらされた堀と土手だった。だが、それを幕開けに、同地は聖なる地として崇められ、徐々に、あるいは時に大胆に変更が加えられながら進化を続けてきた。紀元前1500年頃に放棄されるまでの1500年間におよぶ『活用期間』の中でも、目を見張る変化がもたらされた時代が3度訪れている。それぞれの時代を中心に、建造の歴史と諸説をご説明しよう。

▲紀元前3000年頃~初期の堀と土手▲
【特徴】円形の堀と土手が築かれる。土手の内側には円周に沿ってオーブリーホール(17世紀の考古学者、ジョン・オーブリーが発見)と呼ばれる56個の立抗が均等間隔で掘られており、そのひとつひとつに木柱か、石柱が立てられていた。堀と土手には切れ目がふたつあり、円内への出入り口となっている。北東を向いている幅広の方は夏至の日の出方向を示し、後に正面入り口として利用された。19世紀までは現在の英国人の基礎を成すサクソン人が造ったと考えられてきたが、現在では、ケルト系の原住民族である古代ブリトン人が建造したとされている。
【解明のヒント】オーブリーホールや堀から、炭や木炭と一緒に火葬された人骨が発見されており、ストーンヘンジが墓地であったことが証明されている。また、これまではストーンヘンジの内側から見た正面出入り口の方角に夏至の日が昇ることに焦点が当てられがちだった。ところが近年、出入り口の外から見るストーンヘンジ正面の向こう側に冬至の日没が見えることに着目。農耕民族であった古代ブリトン人にとって、夏が終わりへ向かう日を告げる夏至よりも、厳しい冬が春へと向かう1年の折り返し地点である冬至を知ることの方が、はるかに重要であったのではないかとされる説が登場した。現代の私たちが暖かくなる春を心待ちにするように、古代の人々は冬の終わりの知らせに心を躍らせたのかもしれない。

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ストーンヘンジは宇宙人が造った!?

ミステリー・サークルの謎

ウィルトシャーで2001年に現れた複雑な形のクロップ・サークル。

ストーンヘンジが位置するイングランド・ウィルトシャーは、世界中のどの場所よりも多くミステリー・サークルが出現する場所だ。
ミステリー・サークルとは、麦畑やトウモロコシ畑に一夜にして忽然と現れる、主に円形の巨大な幾何学模様で、英国では「crop circle」(クロップ・サークル=穀物の輪)と呼ばれている。
1970年代から出現しはじめ、1990年代には一種の社会現象にまでなり、日本でもメディアで大々的に取り上げられたことは記憶に新しい。
ストーンヘンジ近辺にも毎年のように謎めいたミステリー・サークルが現れることから、一時は「ストーンヘンジは宇宙人が造った!?」といった説まで囁かれるようになった。
だが、ミステリー好きの人々を落胆させるような事実が1991年に判明。英国に住むダグ&デイブというふたりの老人が「ミステリー・サークルは私たちが作ったもの」と発表し、テレビカメラの前でサークル作りの実演までして謎の種明かしをしたのだ。
このふたりの告白により、人々のミステリー・サークル熱は一気に下がると思われたが、「ふたりの老人が真っ暗闇の中で作ることができるのか?」「彼らが作ったとされる200個以外に存在する数千個は誰が作ったのか?」「70年代以前に発見されていたミステリー・サークルは?」など、説明のつかない疑問も数多く残され、その後もますます複雑化した形状が確認され続けている。
ストーンヘンジに残る謎とともに、ミステリー・サークルの謎も深まるばかりであるが、毎年夏に出現するミステリー・サークルは、今や英国の風物詩となっている。
▲紀元前2500年頃~石の遺跡へ▲
【特徴】ストーンヘンジから30キロ北のマールバラ丘陵から砂岩の一種である巨大なサーセン石が、240キロ以上西のウェールズにあるプレセリ山脈から小型のブルーストーン(岩石)が運び込まれ、現在の姿の原型となる巨石構造物が建てられる。
堀で囲まれた円の中心に、サーセン石のトリリトン(2本の直立した石の上に、巨石を横たえた三石塔)を馬蹄形に配置。さらにその外側にはサーセン石が円を描くように立ち並び(ストーンサークル)、上部にはサーセン石が水平に置かれ、上空から見れば、一続きの完全な円となるよう構成された。またブルーストーンは、円や馬蹄形を描くように配置された。建設に何年の歳月を要したのか、意図したものが完成したのかはわかっていないが、完成していたとすれば、円形のサーセン石は30基が直立し、その上に30基が横たえられたはず(現在立っているのは17基、横石は5基)。
サーセン石は木製のソリで運ばれたと考えられる(とはいえ約200人の人手が必要)。一方、サーセン石に比べて小型ながらも移動距離の長いブルーストーンは、海と川を通って、ストーンヘンジの近くを流れるエイボン川まで運ばれたという説が有力。
【解明のヒント】天文学的な機能を併せ持ち、人々を癒す力のある神殿のようなものだったのではないかと考えられている。その謎を解く鍵として、ブルーストーンがわざわざ240キロも離れた土地から運ばれていることが注目されている。プレセリ山脈には、先史時代にまで遡る昔話や、癒しについての伝説が残っており、ストーンヘンジ建造時に、すでにストーンサークルが存在していた。プレセリ山脈のストーンサークルに使われていた石に特別な癒しの力があると信じたからこそ、その石を引き抜いてわざわざ運び、神殿に使用したと考えるのが妥当だ。人々の信心深さや神あるいは故人への畏敬の念を察することができる。

現在の姿を上空から撮影した写真。奥の方にあるくぼみが、初期に造られた堀。右手前は見学用通路。
© English Heritage
▲紀元前2200年以降 石の組みなおし ▲
【特徴】巨大なサーセン石は紀元前2500年頃に配置されて以降、動かされた形跡はないが、サーセン石の円の内側で二重の馬蹄形を描いていたブルーストーン群は、何度か配置変更が行われている。また、ストーンヘンジの半径3キロに多くの古墳が造られた(300基の古墳があったとされ、そのいくつかは今も残っている)。さらにエイボン川から北東のメインの出入り口へと続く、平行した二筋の堀と土手が造られた(紀元前2300年頃)。アベニューと呼ばれるこの道筋は、夏至の日の出の方角と一直線となるように設けられ、途中から東に曲がってエイボン川の渓谷につながっている。
【解明のカギ】周辺に造られた古墳の発掘調査によって、ストーンヘンジと古代の人々の関係性が紐解かれている。ストーンヘンジに人骨が埋葬されていたことは先にも述べたとおりだが、副葬品は発見されていない。これとは対照的に、青銅器時代(主に紀元前2300~1600年頃)に造られた古墳からは装飾品が発見され、それらが有力者のための霊廟だったことは確かだろう。個人の権力に価値が見出されるようになった時代にありながらも、この地を聖地として崇め、近くで埋葬されることを望んだ人々の姿が浮かび上がる。さらにアベニューは、聖地に向かうための参道であったと推察され、長い歴史を通してストーンヘンジは人々にとっての精神的支柱であったことがうかがえる。

ストーンヘンジは紀元前およそ1500年以降、大きな変化を加えられることはなかったが、その後、どのように利用されたのかはわかっていない。最新テクノロジーを駆使し、周辺に点在する古墳や堀の調査が進められ、少しずつ事実が明らかになっているものの、真実は未だ闇の中だ。
21世紀の科学をもってしても残る数々の謎。だが、すべてが解明されていないからこそ、人々はストーンヘンジに惹き付けられるのではないだろうか。謎は謎として残しておくほうがよいのかもしれない。

夏至祭りをめぐる『豆畑』の戦い

夏至を祝う来場者ら=1984年。

© Salix alba

Battle of the Beanfield
■毎年6月21日前後に訪れる夏至の日の前夜から翌朝の日の出にかけ、ストーンヘンジでは夏至を祝う祭りが開催されており、今年は3万7000人もの人出で賑わった。『祭り』といっても屋台やステージが出るわけではなく、スピリチュアルな体験をしたい人、ヨガグループ、過去100年にわたりストーンヘンジにおいて儀式を執り行ってきたドルイド教徒、ただ単にお祭り騒ぎをしたい人、家族連れなど、さまざまな人々が、ストーンサークルの石の間に昇る日の出をひと目見ようと集まり、至って平和に夏至の日を祝っている。だが、かつてこの地では、文明に背を向け、自然回帰を求めたヒッピーと呼ばれる人々と警察との激しい紛争が起きていた。

ヒッピーのライフスタイルが世界的に大流行していた1970年代、フリー・フェスティバルと呼ばれるヒッピーたちの集いが世界各国で行われ、ストーンヘンジでも1974年から10年もの間フェスティバルが開催されていた。ヒッピーたちは、6月初旬からフェスティバルがクライマックスを迎える夏至までの間、車やキャラバン、テントなどでストーンヘンジの周囲に広がる農地を不法に占拠し、音楽を楽しんだり、商売をしたりと、同じ思想を持つ者同士、交流を深めながら、思い思いに時を過ごしていた。参加者は年々増え、遂には数千人規模の英国最大のフリー・フェスティバルへと拡大した。
規模が大きくなるにつれ、全裸姿のヒッピーたちが周辺の川に行水に現れたり、薬物や飲酒によるトラブルが続出したりするなど無法地帯と化し、ストーンヘンジ周辺に点在する遺跡や古墳へのダメージ、近隣住民や農地に与える影響も深刻化していった。
1985年、政府と警察は、遂にこの年のフリー・フェスティバルを全面禁止とするべく強硬手段に打って出る。ストーンサークルの周囲約6キロの範囲を立ち入り禁止とし、車で近づけないよう、周辺道路に何トンもの先端の尖った砂利を敷き、ストーンサークルを有刺鉄線で囲んでガード。武装警官を配備し、徹底抗戦の構えをもって、フェスティバル参加者たちの到着に備えた。
6月1日、大型バスを含む140台の車がヒッピーらを乗せ、一路ストーンヘンジを目指していた。これから始まるイベントを前に、自然と平和を愛するヒッピーらは陽気な雰囲気に包まれ、まもなく会場に近づこうとしていた。ところが次の瞬間、後方の車を運転していたヒッピーたちが見たものは、血まみれになりながら叫び声をあげて走り戻ってくる仲間たちと、その後を追うように「車を止めろ!」と叫びながら、こん棒で車のフロントグラスを叩き割る武装警官の姿であった。
逃げ惑うヒッピーたちが豆畑に逃げ込んだことから、後に『Battle of the Beanfield(豆畑の攻防)』と呼ばれるようになったこの戦いは、ヒッピーたちも逃げまどうばかりでなく、投石をするなどして反撃に出たため、激しい暴動に発展。多くのけが人と、420人もの逮捕者がでた。
この年を境に、ストーンヘンジでフリー・フェスティバルは開催されなくなる。しかし、その後も15年間もの長きにわたり、毎年夏至の前日になると、遺跡に近づこうと試みるヒッピーやドルイド教徒と警察との小競り合いが発生。事態が収束する気配はなかった。
1999年、イングリッシュ・ヘリテージは、夏至の前夜のストーンヘンジへの入場をチケット制にし、制限つきで開放しようと試みたが、あくまでも自由開放を求める人々が不法に侵入し、この試みは見事失敗に終わった。
そして2000年、紆余曲折を経て、とうとうイングリッシュ・ヘリテージが折れる形で、夏至の前夜から日の出にかけ、全ての人々に開放されるに至ったのだ。
ただ、残念ながら、現在も夏至祭りの日には、麻薬や飲酒トラブルが発生している。
毎年祭りの後には、散乱するゴミ、泥酔し遺跡の上に横たわる若者などで溢れかえり、世界遺産とは到底思えないような光景が広がり、同団体がいつ方針を変えても不思議はない。遺跡に直接触れることもでき、巨石の間を昇る神秘的な夏至の日の出を拝める貴重な機会が、今後も継続していくことを願うばかりだ。

威厳のある姿へと復活

現在ストーンヘンジは、イングランドの文化的遺産を保存・管理するイングリッシュ・ヘリテージが管理しており、ストーンヘンジを取り巻く周辺の土地はナショナル・トラストが管理している。
ストーンヘンジに初めて入場料が課せられ、観光施設として公開されたのは1901年。その後、20世紀をとおして、遺跡の外観や管理方法も変化してきた。かつてはストーンサークルの中まで立ち入り自由で、石に触れることもできていたものの、現在はロープが張り巡らされ、残念ながら、いや、当然と言うべきかもしれないが、一定の距離以上石に近づいたり、触れたりすることはできないようになっている。だが、1年に1度、毎年夏至の前日夜から夏至の朝に限りストーンヘンジが開放される夏至祭り(Summer Solstice at Stonehenge)では、ロープが取り払われ、例外的にストーンサークルの中まで入場が許され、石に触れることができる(下のコラム参照)。
1986年、ストーンヘンジは、北ウィルトシャーにあるエーヴベリーの巨石建造物群とともに、「ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群(Stonehenge, Avebury and Associated Sites)」として、世界遺産に登録された。一方で、この頃からストーンヘンジを取り巻く環境を改善する必要があるとの声があがるようになる。遺産と呼ぶには周辺環境や景観への配慮が、あまりにもおざなりだったからだ。しかし、変化を好まない英国人気質が邪魔したのか、実行に移されるまでに20数年の歳月を要し、2010年にようやくイングリッシュ・ヘリテージが本腰を入れて改善プロジェクトに乗り出したのである。
それではイングリッシュ・ヘリテージによる大規模なプロジェクトにより、ストーンヘンジがどう変わったのかを見ていくことにしよう。
ストーンヘンジは、英国で最も重要な遺跡のひとつであるにもかかわらず、車の排気ガスが遺跡に直接吹きかかりそうなほど近くをA344が通り、併設する施設といえば、遺跡のすぐ側に位置していた駐車場と、1960年代に設けられた仮設トイレやチケット・オフィスと寂れた小さな売店があるだけであった。さらにはA344から遺跡が間近に見えるがゆえに、フェンスの外から見学するだけの観光客や、ストーンヘンジ脇をゆっくりとしたスピードで走り、車窓から眺めるだけのツアー・バスまでいる始末であった。
ストーンヘンジに先史時代の息吹を感じようにも、これでは台無しというもの。イングリッシュ・ヘリテージは、『ストーンヘンジを古代の威厳ある姿へとよみがえらせ、教育施設も兼ね備えた、一日を過ごせる訪問地に』という方針を打ち立て、ストーンヘンジから見える近代的な構造物をできる限り排除し、これまでになかった展示スペースなどの教育施設を含むビジター・センターの建設を計画。2012年、2700万ポンド(約47億円)という巨額の費用をかけた環境改善プロジェクトの工事をスタートさせた。
まずストーンヘンジのすぐ横にあった駐車場と建物を撤去し、撤去後の土地を緑地へと整備。新しいビジター・センターは、遺跡から見えないよう、2・5キロ西の土地に建設し、周辺の景観になじむようにデザインされた。チケット窓口だけではなく、発掘品や歴史などを紹介するエキシビション、復元された古代の住居の展示、カフェやショップを併設。世界に名を馳せる有名な遺跡でありながらも、『巨石があるだけで、ストーンヘンジのみを訪問するには魅力に欠ける』との反省をいかした施設が完成した。
同時に、A344の閉鎖を断行。A344はロンドンから南西へと向かう主要道路A303の支線として、ストーンヘンジの北側を通り、現在の新たなビジター・センターが建つエアーマンズ・コーナーまでを結ぶ道路であった。この道路を封鎖し、道路と遺跡の間に建てられていたフェンスを撤去。遺跡近くの道路跡は緑地化された。A344の閉鎖計画に至っては、最初にその声が上がったのは、今回の計画よりもさらに時をさかのぼった1927年のこと。86年後の2013年、A344はようやく閉鎖されたのだ。英国らしいとはいえ、さすがにのんびりしているにも程があると感じるのは、筆者だけではないはずだ。
2013年12月、イングリッシュ・ヘリテージが威信をかけて建設した新たなビジター・センターがいよいよオープン。こうしてストーンヘンジを取り巻く環境は、遺跡を古代の姿へ近づけさせることに成功し、教育施設を併せ持つ大規模な施設が誕生したのである。
ただ、主要道路であり交通量も多いA303は未だにストーンヘンジの南200メートル程のところを走っている。この道路も迂回させるか、地下を走らせるといった計画が今までに何度も持ち上がっているが、主要道路であるがために、どの計画も今のところ実現化する動きはない。

写真左でストーンヘンジのすぐ横にある道路がA344。右端には旧チケット・オフィスが見える。現在、これらは取り除かれ、緑地化されている=写真右。またA344と交差する2本の筋が確認できる。これがストーンヘンジから夏至の日の出の方角へと一直線に配置されたアベニュー。© English Heritage
ストーンヘンジから車で20分

天国に一番近い尖塔を有するソールズベリー大聖堂

ストーンヘンジから車で約20分。ウィルトシャーの都、ソールズベリーには、英国で最も高い尖塔を持つ大聖堂(Salisbury Cathedral)=写真右上=がある。尖塔の高さは123メートル。「天まで届け」とばかりに高く高く伸びた鋭い尖塔からは、ひたすら高さを目指した意地のようなものさえ感じるほどだ。ちなみにロンドン市内で迫力の高さを誇るセント・ポール大聖堂は111メートル。さて、ソールズベリー大聖堂は、直線が際立つゴシック様式で統一された重厚な外観と高い尖塔以外にも見所の多い大聖堂だ。中には日本語の案内書もあるので、入手して歩いてみよう。
中に入ると、現在も動いているものとしては世界最古の時計が時を刻み、四葉のクローバーのような形をした大きな洗礼盤が鏡のように静かに水を湛え、窓に輝くステンドグラスを水面に映し出している。チャプターハウスと呼ばれる図書館には1215年に制定されたイングランド王国の大憲章であるマグナ・カルタ(Magna Carta)のオリジナルとされる文書の4通のうち1通が展示されているのも見逃せない。そして、英国の大聖堂の中でも最大級であるという回廊を歩けば、誰でも静粛な気持ちになるだろう。大聖堂と回廊の間にはギフト・ショップとビストロ風の雰囲気の良いカフェ=写真右下=があり、ガラス張りの天井を通し、大迫力の尖塔を仰ぎ見ることができる。
残念ながら2018年春、神経剤ノビチョクを使った元ロシアスパイ毒殺未遂事件の舞台となったことですっかり有名になってしまったソールズベリー。不審なものを拾ってその場で使用したり、自宅に持ち帰ったりしない限り安全と思われるが、行かれる際は自己責任の上、あくまでも慎重に。
www.salisburycathedral.org.uk

古代を感じるパワースポット

さて、ストーンヘンジに関する知識を深めていただいたところで、いよいよ新しくなったストーンヘンジを歩いてみたい。
ロンドンから車で訪れた我々取材班が、M3を下り、ソールズベリー平原を通るA303を走っていると、いきなりだだっ広い平原へと視界が開け、すぐ右手から巨石の一群が目に飛び込んできた。突如視界に現れ、見紛うことのないストーンヘンジの姿にはっと息をのむ。
ストーンヘンジを右手に見つつ、ビジター・センターを目指して、さらに車を走らせる。後方へと遠ざかっていくストーンヘンジを見やりながら、「本当にこのまま進んで大丈夫なのだろうか」と少々不安になりながらも、標識に従い車を走らせることさらに5分。草原の中にビジター・センターの姿が見えてきた。
環境に配慮されたデザインは、まるで無数の細い木々が天井を支えているような、または白樺の林のようにも見え、草原の中にあっても違和感のなさを感じる。中は、チケット窓口を中心に、左右にカフェ、ショップ、エキシビション・スペースなどが配置され、その間を風が吹き抜けるような設計になっている。開放的な空間だ。
ビジター・センターでチケットを受け取ったら、チケット窓口の裏側にある、オーディオ・ガイドの貸出窓口に行こう。ここでは日本語のオーディオ・ガイドが借りられる(料金はチケット代に含まれる)。オーディオ・ガイドの貸出・乗車時にそれぞれチケットの提示を求められるので、くれぐれもなくさないようご注意を。
取材班は、まず先にエキシビションや、ストーンヘンジを建造したと考えられている人々が暮らした家屋を再現したネオリシック・ハウスを見学。
エキシビション・スペースに入るとすぐに、ほぼ360度ぐるりとスクリーンに囲まれ、さまざまな時代・季節により移り変わるストーンヘンジの景色を堪能することができる。ストーンサークルの中から見る光景を映し出す円形のスクリーンの中に立つと、まるで太古の昔に吹いたであろう風の匂いや人々の息遣いまでも感じられそうな錯覚に陥り、およそ3分間の映像の後にまで強い余韻が残った。
ビジター・センターの外にあるネオリシック・ハウスの中には、ガイドが控えており、さまざまな質問に応えてくれるほか、再現された建設道具などを手に取ることもできる。

一方、ネオリシック・ハウスの横には、サーセン石の模型が横たわっている。模型につなげられた縄を引くことによって、あと何人で28トンのサーセン石を動かすことができるのかが表示され、力試しができる体験型アトラクション(写真右)。ゲーム感覚で楽しめるので試してみよう。
ひと通り見終わった後は、シャトルバスに乗って4~5分。ストーンヘンジの姿が徐々に近づいてくる。いよいよ巨石群との対面だ。
近づくと、やはりその迫力に圧倒される。威圧感を覚える大きさだ。ストーンヘンジを特徴づける石としてそそり立つサーセン石、建造途中、何度も組みかえられ、無惨にも倒壊し、割れたブルーストーンが転がっている。
それぞれの見所についてオーディオ・ガイドを聞きながら見学すれば、ストーンヘンジへの理解がより深まるはず。見学用通路を一周するのに要する時間は5分足らずだが、それぞれのポイントで解説を聞きながら見学すれば約1時間。遺跡のまわりは芝生になっており、座ってのんびりとピクニックをする観光客がいたり、石に向かって瞑想する人がいたりする。巨石に圧倒され、倒壊した石に遥かなる時の流れを感じながらゆっくり歩いていると、不思議だが、石からのパワーを感じたのは、決して予備知識からくる先入観のせいだったとは思えない。
さまざまな目的で世界各地から訪れる人々を、ただただ静かに迎え入れてくれるストーンヘンジ。神秘的な古代のパワーストーンに癒され、謎解きに思いを馳せに出掛けてみてはいかがだろうか。

近年、デュリントン・ウォール(ストーンヘンジ北東3キロ)からストーンヘンジが建造された時代の家々が発見され、同所の建造にかかわった人々が住んだと考えられている(集落の規模は数千人と推定)。写真はビジター・センターの隣に再現された家屋。

Travel Information

※2018年7月31日現在

ストーンヘンジ Stonehenge

Nr Amesbury, Wiltshire SP4 7DE
Tel: 0370 333 1181

 

 

 

 

 

www.english-heritage.org.uk/visit/places/stonehenge

■オープン時間
現在〜2018年8月31日 9:00〜20:00
2018年9月1日~10月15日 9:30〜19:00
2018年10月16日~2019年3月29日 9:30〜17:00
※クリスマス、年末年始についてはウェブサイトでご確認を。

■入場料
大人:£17.50 子供:£10.50
※イングリッシュ・ヘリテージ会員、ナショナル・トラスト会員は無料
※最終入場時間は閉場の2時間前。時間指定の入場制なので、当日現地でチケットを買ってすぐに入場できるかどうかは確実ではない。また、到着時間が遅くなると、当日分の入場チケットが売り切れとなっている可能性もあるので、事前購入が推奨されている。ウェブサイトでは入場時間を選んで購入することが可能。

■アクセス
車なら、M3からA303に入り2時間程度。電車でなら、ウォータールー駅から最寄りのソールズベリー Salisbury駅まで電車で約1時間20分。ソールズベリーの駅前からソールズベリー⇔ストーンヘンジ間を往復するツアーバスが出ている(www.thestonehengetour.info)。

■ストーンヘンジ周辺の主な見所

①ウッドヘンジ…ストーンヘンジの巨石群と配置が似ていたことからその名がつけられた木の遺跡。土手とその内側の堀により囲まれた円形の土地に、同心円状に6つの穴のサークルがあり、そこに木柱が立っていたと考えられる。現在はコンクリートの柱が立てられている(見学可)。
②ネオリシック・ハウス…ストーンヘンジから北東へ3キロいった場所にある遺跡。ストーンヘンジを造った人々が住んだと推定される(見学可)。

③オールド・セーラム…現在のソールズベリーの街の元となった「旧市街」。廃墟と化した跡地を歩くことができる。
④ソールズベリー大聖堂(上のコラム参照)。

 

ジャーニー編集部制作「悠久の環状巨石 ストーンヘンジ」もぜひご覧ください!

週刊ジャーニー No.1046(2018年8月2日)掲載