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◆◆◆《第572回》◆◆◆
民主主義の危機

ジョンソン首相が信じられない暴挙に出た。十月三十一日のEU離脱期限を前にして五週間も議会を休会にするというのである。いろいろ理由を並び立てているが、首相の狙いが「合意なき離脱」を阻もうとする議会の機能停止であることは明らかだ。
議会制民主主義を覆すこの企みは上級顧問としてジョンソン首相とタッグを組むドミニク・カミングス氏が考え出したと見る向きが多い。カミングス氏は首相の最側近として強い影響力を行使しており、閣僚の政策スタッフを自分の一存で次々と解雇して物議を醸している。
先日、ジャビッド財務相の特別アドバイザー、ソニア・カーン氏をジャビッド氏に相談もなく解雇したのはその好例である。カーン氏は「合意なき離脱」に反対する元上司のハモンド前財務相に重要な情報を漏らした疑いをかけられ、証拠もないのにカミングス氏から解雇を言い渡された。そして衆人環視の中、まるで犯罪者のように武装警察官に囲まれ、首相官邸からダウニング街のゲートまで連れ出されたのである。官邸に警官を呼び込んだのはむろんカミングス氏である。このことを後で知ったジャビッド財務相は激怒し、カミングス氏をきびしく詰問したと報じられた。
議会の休会を打ち出したジョンソン首相についてEU残留派のある議員がテレビで「彼は狂人だ」と言っていた。「独裁者」と呼ぶ議員もいる。穏やかならざる表現だが、そのように呼びたくなる気持ちはよく分かる。ジョンソン氏が変人であることは以前からよく知られていた。議会の長期休会は強硬なEU懐疑派のカミングス氏によってその変人ぶりが増幅された結果といえよう。
議会は九月三日に一旦開会されるものの九月第二週に早くも休会となり、それ以降、十月十三日まで閉鎖されたままとなる。休会は実に五週間に及ぶ。そうなると時間が足らず、議会で「合意なき離脱」を阻止する手立てはない。十月後半に内閣不信任案が成立したとしても総選挙はEU離脱後になる。だから休会をやめさせる方法を早急に見つけなければならない。それは可能なのか。
まず頭に浮かぶのは法的手段に訴えることである。すでにロンドン、スコットランド、北アイルランドで「憲法違反」を理由に休会の差し止めを求める訴えが裁判所に出されている。司法の力で休会を取り消させようというわけだ。保守党のメージャー元首相も個人の立場でジョンソン首相を提訴すると言っている。しかし、スコットランドの裁判所はすでに「休会の緊急差し止め」に否定的な判断を示しており、司法に過大な期待は出来そうもない。

これとは別にイギリス選出の欧州議会の議員たちはEUに「合意なき離脱」の場合はイギリス政府に議会の批准を義務づける立法が出来ないか掛け合っている。イギリスは現時点でまだEUの加盟国だから、そのような法律で取りあえず「合意なき離脱」に至る事態を避け、離脱を延期させる作戦だ。しかし、欧州議会が短期間でうまく機能する保証はない。
最も期待出来る策はバーコウ下院議長を動かすことである。バーコウ議長はジョンソン首相が一方的に議会の休会を決めたことに「無法なやり方だ」と怒っている。議事進行の権限を握る彼が「合意なき離脱」阻止で連帯する議員らと気脈を通じ、九月三日から数日間だけ開かれる議会で、「EUと合意に至らなければ首相に離脱延期を義務付ける法案」を成立させることは出来ないだろうか。
九月の議会はジャビッド財務相が国家財政の報告を行なう予定になっているが、わずかな間隙を見出し、ここに述べた方法で首相を追い込むしか道はないと思う。それに失敗すればイギリスは本当に「合意なき離脱」に突き進むことになるだろう。私が本稿を書いているのは九月二日の朝である。おそらくこれが活字になる頃は、議会制民主主義を蹂躙するジョンソン首相の動きを議会が阻止出来るか否か、大勢は決していると思われる。
それにしても国民投票から三年の間、イギリスの政府と議会は何をしていたのだろうか。与野党とも国益より党利党略を優先した結果、離脱条件を決められず、迷走の末、右翼ポピュリズムのジョンソン政権の誕生を許してしまった。「このようなことになるのならメイ首相の離脱案でもよかった」と思っている国民は多いのではなかろうか。ともあれ、今はイギリスの民主主義を守るために何としてもジョンソン首相の暴走を止めなければなるまい。

週刊ジャーニー No.1102(2019年9月5日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。