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◆◆◆《第564回》◆◆◆
イスタンブールの市長選挙

私の友人にトルコから来た移民がいる。彼は母国で幅広く商売をしていたが、クルド人であることから差別を受け、十年余り前に家族を連れてイギリスに移住した。現在はロンドンで小さなレストランを経営している。彼はトルコのエルドアン大統領を強く嫌悪しており、政治の話になると必ず悪口を言う。
「エルドアンは自分に逆らう政治家やジャーナリストを次々と迫害した。私の友人も犠牲になった。あの男は本当に罪深い独裁者だ」
トルコはいろいろな意味で欧州にとって重要な国である。何しろ一九五二年以来のNATOの古い加盟国なのだ。人口は八千万人で、EUで最多のドイツ(八千三百万人)と肩を並べる。今、そのトルコの政治が揺れ動いている。発端は三月に行なわれた地方選挙だった。この選挙でエルドアン大統領率いるAKP(公正発展党)は三十の特別行政区のうち、イスタンブール、アンカラ、イズミルの三大都市を含む十五の市長選挙で、最大野党のCHP(共和人民党)に敗れた。
とくに注目されたのはイスタンブールの市長選挙である。この選挙ではCHPのイマモール候補がAKPのエルドゥルム候補(元首相)を得票率にしてわずか〇・二ポイントの差で降した。しかしエルドアン大統領は「開票に不正があった」と強硬に主張し、選挙管理委員会に圧力をかけ、再投票に持ち込んだ。
二度目の投票は先月二十三日に行なわれた。開票の結果、両者の差はさらに広がり、イマモール候補の得票率がエルドゥルム候補のそれを九ポイントも上回った。エルドアン大統領もこれには文句が言えず、野党の勝利を認めるほかなかった。
トルコの首都はアンカラだが、都市として最も規模が大きいのはイスタンブールである。昔から「イスタンブールを制する者はトルコを制する」と言われている。現大統領のエルドアン氏が一九九四年に市長に当選して以来、AKPはずっとイスタンブールの市長の椅子を独占して来た。その選挙に三ヵ月間で二度も負けたのだから、AKPの受けた衝撃は大きい。
当選したイマモール氏は華々しい経歴を持つ政治家ではない。知名度ではAKPの候補者のエルドゥルム元首相にはるかに劣る。それでも勝ったのは有権者がエルドアン大統領とAKPに不満を募らせていたからである。

エルドアン氏は一昨年、憲法改定の国民投票を実施した。その眼目は議会制内閣制度を廃止するとともに、大統領の権限を大幅に強化することだった。有権者の五十一%が改定に賛成し、エルドアン大統領は国家元首と行政府の長という二つの権力を握った(ただし、この投票には不正があったと言われる)。その後、彼は一層強権的になり、国民の反感を招いた。AKPはイスタンブールの市長選挙でも大量の人員を投入して戸別訪問を行ない、自党候補への投票を促したが、そうした強引なやり方も裏目に出た。
一方、エルドアン氏に対抗する野党側は共倒れを避けるために地方選挙で共闘した。クルド人系の政党、HDP(国民民主主義党)はイスタンブールなど大都市で候補者を立てず、最大野党のCHPを支援した。HDPは再選挙でもCHPに協力し、他の一部の野党も立候補を見送り、反エルドアン票をイマモール氏に集中させた。つまりイマモール氏の当選は野党が協力し合った結果なのである。
知名度が低かったイマモール氏はイスタンブール市長になったことで一躍名を馳せた。強権的なエルドアン大統領を嫌う国民からは早くも「彼を次の大統領選挙に担ぎ出そう」という声があがっている。冒頭に紹介した私の友人はこう言った。
「トルコの人口のうち一千万人はクルド人だ。暴力的なPKK(クルド労働者党)がよく話題にされるが、大多数のクルド人は穏健で平和を愛する。クルド人系のHDPと他の野党が協力すればエルドアン打倒も夢ではない」
エルドアン大統領は最近、ロシアから地対空ミサイル・システムを導入することを決めた。NATOの加盟国でありながらロシアから兵器を買う異常さはアメリカとEUを怒らせ、トランプ大統領は経済制裁を示唆した。米露を両天秤にかけるような危うい外交政策にAKP内部からも批判が出始めた。それらの影響からトルコ通貨のリラは下落し、経済は停滞している。次の大統領選挙が行なわれる二〇二三年までに大きな波乱が起きそうだ。イスタンブール市長に選ばれたイマモール氏が今後さらに飛躍し、「反エルドアン勢力の希望の星」になるかどうか注目したい。

週刊ジャーニー No.1094(2019年7月11日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。